仏教と批判的合理主義

絶対的正義と相対的正義

 犬のメメさんのところでわたしがやった議論は、ひとことでいうなら、「絶対的な正義が存在する」とゆーものだ。この場合の「絶対的な正義」とは、社会の構成員全員が認めざるを得ない正義という意味である。社会の構成員全員に通用する正義といってもいい。

 具体的にいえばこうだ。「正当な理由なく、ある構成員が、他の構成員の生命を奪うことはあきらかに正義に反するし、それを阻止することはあきらかに正義であるし、そのような不正義/正義は社会の構成員全員に通じる不正義/正義である」と。

 たぶん、厳密に議論しようとすれば、「正当な理由なく」という部分についていろいろと述べなければならないんだろうが、それは今は省略する。

 社会の構成員はそれぞれ自らの望む価値の実現をめざそうとするわけであるが、それは、生命が維持されていてはじめて可能になるのである。そうである以上は、上に書いたような正義は、いわば最低限の正義として、構成員のすべてが認めざるを得ないはずである。これは、要するに、「生命は基底的価値である」ということなのであるが、それについての詳しい議論は別の記事「特殊正義論・再論」に譲る。

 しかし、「絶対的な正義が存在する」からといって、すべての正義が絶対的であるわけではもちろんない。正義には相対的なものもたしかにあるのだ。もちろん、ここでいう「相対的な正義」とは、社会の構成員全員に通用するわけではない正義とゆー意味である。

 あそこでのわたしの課題は、「あらゆる正義は相対的なものにすぎない」とゆーような誤った考えを破壊するというただ1点だったわけだが、結局、それすらも達成できず、当然、相対的な正義についての話にまで議論が進むことはなかったけれども、とにかく、相対的な正義もたしかにあるのだ。しかし、相対的な正義しかないわけではないよ。そこを間違ってはいけない。このことは何度でも言っておく必要があるみたい。なぜだか、このことを認めたがらない人が実に多いから。

 絶対的な正義に反することは、絶対的な不正義である。しかし、相対的な正義に反することは、また別の相対的な正義でありうる。

 すなわち、構成員の間で、それぞれの相対的な正義どうしが対立するという事態が生じうるとゆーことだ。こういった場合には、もはや、相手を不正であると非難することはそもそも不可能であることに注意してもらいたい。相対的な正義に反することは、また別の相対的な正義でありうるのだから。
 
 さりとて、彼らは、実力をもって相手の存在を消し去ることにより、自らの相対的正義を実現するわけにもいかないのである。なぜなら、それはまさに絶対的不正義そのものであるからだ。相対的であるとはいえ、曲がりなりにも正義を標榜しようとしている彼らが絶対的不正義をなすわけにはいかないのである。

 結局、このように、相対的な正義どうしが対立する場合には、お互いが相手方の正義と真摯に向き合って、調整を試みる他はあるまい。相手を不正であると非難することもできず、かといって、実力をもって相手の存在を消し去ることもできないのだから、そうするしか道はないのである。

 しかし、その調整は、常にうまくいくとは限らない。どうやってもうまくいかないような場合でも、結局のところは、それらの一方は優先され、一方は否定されざるをえない。

 とゆーわけで、社会には、それを実際に行なうための智慧(システム)が必要になるわけだ。現実のこの社会でいうなら、たとえば、法律(多数決によって定められた規範)と裁判制度(個別の事実を法律にあてはめて、一方の正義を優先し、一方の正義を否定する装置)はその代表選手といってもよろしかろう。

 もっとも、一方を優先し、一方を否定するといっても、「否定される側に配慮して優先する側を修正する、といったプロセスが必要」[*]になる場合も当然あります。このことはさっき勉強したんだけども。

 以上、犬のメメさんのところで論じ残したことを書いた。

[*] 小林和之『「おろかもの」の正義論』〔ちくま新書509〕(筑摩書房、2004年)の105頁。


【2009.04.21 付記】
さきほど「特殊正義論・再論」をアップしたのにともない、この記事も多少修正しますた。





  1. 2009/04/20(月) 00:57:20|
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携帯サイト作った

leaf携帯サイト作ったよ


 いろいろとありまして、ながらくネットでの発言をひかえてたわたしなわけですが、このたび、携帯サイトを作りましたんで、一応ご報告いたします。

 っていっても、作ったのは、仏教とは全く関係のないサイトですよ。もう、わたし、そーゆーのやってないんで(汗)。

 こんどの携帯サイトはただの日記というかそんな感じです。あと恋愛論とかね。

 実は、わたしが最初に作ったHPのテーマはもともとは恋愛論だったんですよ。あんときはスタンダールに傾倒してたっけ。で、そのHPでいつのまにか某宗教教団の批判をやるよーになったってわけなのさっ。ま、このことは、さかなこさんくらいしかしんないわけだけどね。元気かなー、さかなこさん。

 一応、その携帯サイトのURLを書いておきます。携帯からしかアクセスできないけどね。でも、仏教とか某宗教教団のややこしい話とかは持ってこないでくださいっ。お願いだから。


http://74.xmbs.jp/estrella/








  1. 2009/03/08(日) 11:40:33|
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縁起→円融三諦→十如是→一念三千

leaf 文証の追加

   記事「縁起と一念三千」の「文証」の項目の中で、『十如是事』を引用しておいたのは、山中講一郎『日蓮自伝考』の読者の方々を想定してこの記事を書いたからなのですが、『十如是事』の引用に抵抗を感じるような方に対しましては、以下の『摩訶止観』(チギ)の文を文証として示したいとおもいます。

[縁起→円融三諦→十如是→一念三千]の続きを読む

  1. 2007/09/08(土) 22:45:06|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
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発すべき言葉も見つからない

leaf 拙文を記録

  そううそさんのブログ「創価学会の信仰に功徳はあるか?」内の記事「日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判」のコメント欄に書いた拙文を以下のところに記録しておきました。

ブログ「創価学会の信仰に功徳はあるか?」の記録
http://fallibilism.web.fc2.com/soukagakkai_usotuki.html

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  1. 2007/09/08(土) 16:13:02|
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日蓮本仏論の亡霊

leaf 本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊」の正しい読み方

  日蓮の『観心本尊抄』は漢文で書かれていますが、その中に、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」(大正蔵第84巻、p. 277c)という文章があります。

  この文章は、「此の時地涌千界出現し、本門の釈尊【が】〔地涌千界を〕脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と読むのが正しいとおもいます(【】印は「本門の釈尊」が「脇士と為す」の主語であることを強調したものであり、〔〕印は省略されていると思われる語を Libra が補ったものです)。

  今回は、上のように読むのが正しいということを論証してみたいとおもいます。

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  1. 2007/09/07(金) 18:12:08|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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