仏教と批判的合理主義

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縁起と一念三千

leaf 山中講一郎『日蓮自伝考』を拝読

  先日、ある方が、山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』(水声社、2006年)を送ってくださったので、さっそく拝読いたしました。

  誤っているところが数箇所ありましたが、全体として見ますと、とてもすばらしい本だとおもいました。もしも創価学会が沈み行く船だとしますと、山中さんのこのような業績は、もっとも大きな救命ボートの1つになることでしょう。

  さて、今回の記事は、『日蓮自伝考』のささいな誤りを指摘しようとするものではありません。現時点において、山中さんとわたしとの間で最も大きな対立点になっているとおもわれる【縁起説と一念三千説の論理的関係】について再考してみようというのが今回の記事のテーマです。

  山中さんは、【縁起説と一念三千説の関係】について、「縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません」といわれています(以下の資料に引用されている山中さんのご発言を参照)。

宇宙生命論を破す(Leo)
http://fallibilism.web.fc2.com/note004.html

  一方、わたしは、論理的な関係でいえば、縁起説が「本」であって、一念三千説は「末」であると考えています。これは、【縁起説は一般論であり、一念三千説は具体論である】というように言い換えることができるかもしれません。もっとも、「日蓮思想の現代的意味」ですでに説明したとおり、わたしは、【一念三千説は内容的に縁起説に劣っている】というようなことをいっているわけでは決してありません。「本末究竟等」なわけですから、たとえ、論理的には縁起説が「本」であって、一念三千説は「末」であるとしても、【一念三千説は内容的に縁起説に劣っている】ということにはなりません。

  今回は、【縁起説と一念三千説の論理的関係】について、「日蓮思想の現代的意味」とは少しちがう角度から、わたしの考えを述べてみたいとおもいます。

[縁起と一念三千]の続きを読む

  1. 2007/08/15(水) 17:50:56|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
  3. | コメント:8

『法華経』と釈尊の思想

leaf はじめに

  今回は『法華経』について少し考えてみたいとおもいます。

  『法華経』は大乗経典ですから、歴史上の釈尊の説法をそのまま記録したもの(ノンフィクション)ではありません。あくまでもフィクションです。しかし、フィクションによって、歴史上の釈尊の思想がより生き生きと伝わるということはありえますし、実際、宮沢賢治のような人にはありありと伝わったんだろうとおもいます。

  ある大乗経典について、それが伝えようとしている思想を理解した上で、「歴史上の釈尊の思想に反する」とおっしゃるのであれば、それはそれで一つの立派なお立場だろうと思います。しかし、世の中には、「大乗経典はフィクションだから価値はない」というような短絡的なことをおっしゃる方もおられるようです。こういうことをおっしゃる方は、ドキュメンタリー映画しかご覧にならないのかなといつも不思議におもいます。アニメを観て感動するといったこともおそらくないのでしょう。

  『法華経』は好きなんだけど、そんなことを他人に言うと、「大乗経典はフィクションなんだから、そんなものに価値なんてないよ」とか言われそう…。こんな思いをされている方がもしかしたらおられるかもしれません。今回の記事はそういう方に向けたものです。そういう方に「もっと自信を持ってもいいんですよ」と言ってあげたいというのが今回の記事の趣旨です。宮沢賢治のように『法華経』に惹かれることができたその豊かな感覚にもっと自信を持ってもらえたらいいなと思います。

  以下では、まず、『法華経』が初期経典を素材にして作られているということを確認しておきたいとおもいます。次に、『法華経』のタイトルに用いられている「サッダルマ」という語の意味について考えてみます。最後に、『法華経』の中にあらわれるユニークな思想を2つほど紹介しておしまいにしたいとおもいます。

[『法華経』と釈尊の思想]の続きを読む
  1. 2006/12/30(土) 08:18:31|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
  3. | コメント:14
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