仏教と批判的合理主義

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批判的合理主義入門

leaf 批判的合理主義入門

  今回は、批判的合理主義という考え方を、可能な限り単純化して説明してみたいとおもいます(厳密さは無視します)。

  「批判的合理主義」というのは、その名が示すとおり、「合理主義」の一種です。「合理主義」といっても、論者によって意味が異なる場合がありえますが、今回は、批判的合理主義を理解することが目的なので、批判的合理主義者がいうところの「合理主義」さえ理解できれば十分でしょう。

  批判的合理主義の提唱者であるカール・ポパーは、以下のようにいっています。

第二に私は「合理主義」という用語を大略次のような態度、すなわち、感情や情熱に訴える代りに、むしろ理性、つまり明瞭な思考と経験に拠ることで可能な限り多数の問題を解決しようとする態度を示すために用いている。言うまでもなく、この説明は決して満足のゆくものではない。〔中略〕それゆえ、もう少し正確を期すためには、実践上の態度もしくは行動の観点から、合理主義を説明するのがよいであろう。この時、合理主義とは喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度である、ということができよう。合理主義とは基本的には、「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」ということを承認する態度である。

K.R.ポパー著・小河原誠他訳『開かれた社会とその敵 第二部』第二十四章、未來社、1980年、pp. 207-208


leaf 合理主義とは

  ポパーによれば、合理主義とは「明瞭な思考と経験に拠る議論によってわれわれはより真理に接近することができる」ということを承認する態度であるということになります(真理については、すでに別の記事で説明してありますのでそちらを参照されてください)。以下の説明では、この定義にしたがうことにします。

  そうすると、「われわれは真理に接近することなどできない」というような態度は非合理主義ということになります。すなわち、真理への接近じたいを不可能だとして否定する態度は非合理主義ということになります。

  また、「明瞭な思考と経験に拠る議論によっては真理に接近することができない」という態度も非合理主義ということになります。すなわち、真理に接近する手段としての「明瞭な思考と経験に拠る議論」を否定する態度非合理主義ということになります。たとえば、「神秘的な体験によってのみ真理に到達できる」というような態度は非合理主義の典型例だといえるでしょう。

leaf 批判的合理主義の3つの要素

  批判的合理主義は合理主義の一種なのですから、上に説明した合理主義にさらなる条件が加わります。その追加部分が「批判的」と表現されているわけです。この「批判的」という限定は、内容的には、以下の3つの要素に分解することができます。

  1. 非正当化主義
  2. 可謬主義
  3. 反証主義
  以下では、批判的合理主義をこれら3つの要素に分解し、それぞれについて順番に説明していくことにいたします。

leaf 非正当化主義的合理主義

  われわれは議論によってより真理に接近することができるとしても、議論のやり方には大きく分けて2つのアプローチがありえます。ひとつは、自らの主張が真であることを積極的に正当化(証明)していこうというアプローチです。もうひとつは、相手の主張が疑わしいことを具体的に指摘(反証、批判)するというアプローチです。

  しかし、実は、自らの主張が真であることを厳密に正当化することなどはそもそも不可能なのです(以下の資料を参照)。

ほらふき男爵のトリレンマ──論証は正当化をなしえない(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/109.html

  批判的合理主義者は、正当化が不可能であることを自覚していますので、自分にも相手にも正当化を要求しません。正当化などできなくとも主張を保持してよいと彼らは考えます。そういう意味で、彼らの合理主義は「非正当化主義的合理主義」です。

  逆に、「正当化されている主張のみを保持すべきである」と考える合理主義(正当化主義的合理主義)は、論理的には破産せざるをえません。いかなる主張も正当化などできないのですから。

leaf 可謬主義的合理主義

  いかなる主張も正当化されることはありえませんから、今のところどれほど確からしく見えている主張であろうとも、実は真でないという可能性は常に残っているということになります。
  批判的合理主義者は、自らが現在保持しているあらゆる主張について、それが真でない可能性が常にあるということを心得ています。そういう意味で、彼らの合理主義は「可謬主義的合理主義」ということができます。

  可謬主義は、「われわれに謙虚になるべきこと、そして人間の根源的平等を教えて」くれるでしょう(以下の資料を参照)。

ポパーの認識論は、人間の提出するあらゆる理論の反証可能性、あるいは批判可能性を主張することで、われわれの知識は永遠に可謬的であると主張する。ことばを換えれば、これは、知識を産みだす人間の可謬性、誤りやすさを意味している。しかし、この事態はわれわれに絶望をもたらすものではなく、逆に希望をもたらす。〔中略〕
  われわれの無知のうえに倫理を築こうとするポパーの考えは、当然のことながら、ソクラテスの無知の知と響きあう。
〔中略〕無知の知は、われわれに謙虚になるべきことを教えている。つまり、われわれは学べば学ぶほどいかにわずかのことしか知っていないかを自覚せざるをえなくなるからである。知識の増大は逆説的なことに前途にはてしない無知が横たわっていることを教えてくれる。真実の知的貢献をした者こそ、かぎりない無知のまえで己の愚かさを思い知らされるのであろう。そしてその無知を尺度にすれば第一級の科学者も凡人もともに等しく無知である。無知の前での平等が成立する。〔中略〕無知の知は、〔中略〕われわれに謙虚になるべきこと、そして人間の根源的平等を教えている。

小河原誠『ポパー─批判的合理主義』、講談社、1997年、pp. 335-336

  ちなみに、可謬主義は対話が成立するための必要条件であるとわたしは考えています(以下の拙文を参照)。

対話主義と可謬主義
http://fallibilism.web.fc2.com/z023.html

leaf 反証主義的合理主義

  批判的合理主義者は、一貫して正当化を放棄しますが、合理主義である以上、真理に接近する手段としての「明瞭な思考と経験に拠る議論」じたいを放棄するわけではありません。批判的合理主義者にとっての議論とは、正当化ではなく反証(あるいはその一般化としての批判)なのです。

  「証拠と論証を用いて反証をおこなうことは、日常の言葉に引きつけていえば、消去法の行使」です。「明白に間違っていると思われるものを除去していけば、排除されずに残ったもののなかには真理が含まれているかもしれないというのが消去法の考え方」です(以下の資料を参照)。

反証はなにをおこなっているのか(小河原誠)
http://fallibilism.web.fc2.com/125.html

ポパーの批判的方法──非正当化主義的批判(立花希一)
http://fallibilism.web.fc2.com/114.html

  批判的合理主義者は「反証によってわれわれはより真理に接近することができる」と考えているわけです。そういう意味で、彼らの合理主義は「反証主義的合理主義」ということができます。

leaf まとめにかえて

  以上、批判的合理主義についての具体的なイメージをより多くの人につかんでもらいたいという思いから、批判的合理主義をかなり単純化して説明してみました。

  まとめにかえて、批判的合理主義を一言で表現してみるとすれば、「非正当化主義の立場に立つがゆえに可謬主義の立場に立ち、かつ、方法論的には反証主義の立場に立つ合理主義」ということになります。

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  1. 2007/03/01(木) 20:23:25|
  2. 批判的合理主義
  3. | コメント:65
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コメント

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
  1. 2007/03/31(土) 06:12:12 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

話がややそれますが...

(無償のネットツールなどでどの程度トレースが可能か確かめてみようと思います...)
  1. 2007/03/31(土) 15:14:17 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

わたしの投稿がもうすぐ反映されるでしょう

 Leo さん、こんばんは。
 わたしの投稿がもうそろそろあちらの方に反映されるでしょう。あちらの方で、手きびしいご批判をよろしくおねがいいたします。明日までに片付けばいいなとおもっています。
 投稿が反映されるまでに数時間かかるというのも、実際やってみると、なかなか面白いものですね。しかし、それを2、3日で片付けてしまおうっていうのはやはり無理があったか?
  1. 2007/03/31(土) 18:13:03 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

(汗)

>あちらの方で、手きびしいご批判をよろしくおねがいいたします。
まだ問題把握が精一杯で批判に至ってないです(手きびしい批判をする状況にないですが)が挨拶に行ってみます。
P.S.
あちらに投稿しましたが、次の日になっても反映されなかったです。ご不在かなにかあるのでしょうか。
  1. 2007/03/31(土) 21:36:33 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

あわてないあわてない。ひとやすみひとやすみ。

 Leo さん、こんにちは。
 投稿が反映されるのは、おそらく、7時すぎくらいではないでしょうか。
 ちなみに、わたしも投稿しています。内容は、「2007/03/31 02:56」の訂正と、もうひとつは「あるノードに結びつけうる人物の範囲の問題」。
 前者については、わたしがどこをどうミスっていたか、Leo さんならもうお気づきのことでしょう。
 後者の問題については、以下の問題をすべてバッサリと省略しました。もうタイムリミットだし。
 1.モデムのNAT機能はオンなのかオフなのか。
     →オンならばノード(ISPのDHCPサーバに対
      するDHCPクライアント)はモデムに内臓され
      たルータのはず。DHCPサーバに記録される
      MACアドレスはおそらくモデム内部のルータの
      NIC(WAN側)のもの。
 2.モデムのNAT機能がオフだとして、それにつながって
   いるのはPCなのかルータなのか。
     →PCならばノードはそのPC。記録されるMA
      CアドレスはPCのNICのもの。ファイヤウ
      ォールは完璧?
     →ルータならばノードはそのルータ。記録される
      MACアドレスはルータのNIC(WAN側)
      のもの。
 3.モデム(NAT機能はオフ)にルータがつながっている
   として、それは無線LAN対応ルータか。
     →適切にセキュリティ設定をしていない無線LA
      N対応ルータを勝手に他人に使われたとしても、
      それはきちんと設定していなかった人の責任が
      大。なりすまし程度の被害ですんだのなら超絶
      ラッキー。
 4.ガラクタNICを大量に買っておいて、モデム(NAT
   機能をオフ)に「MACアドレスを設定できるルータ」
   をつないでおき、ガラクタNICのMACアドレス
   を使ってルータのWAN側NICのMACアドレス
   を偽装するとかしないと、IPをかえたいときにす
   ぐかえれないってこと?それはいくらなんでも不便
   では?そんな仕様で本当にOKなのか?
 いろいろと調べてみると、Yahoo!BBについてはなかなか謎が多いと感じました。プロミスキャスモードで、1、2時間、パケットウォッチングしてみるのもけっこうな暇つぶしになるのかもしれませんね(禁止されてるのかな?)。
  1. 2007/04/01(日) 17:03:10 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

「りくつ」ってのはやっぱりヘンか

 きっとあちらのブログ主さんは大変にお忙しいのだろう。反映は明日以降に持ち越しのようだ。しかし、わたしに書けることはだいたい書いたようにも思う。もしも批判が頂けたなら、またの機会にコメントさせて頂くことにしよう。
 しかし、もうすぐ裁判員制度がはじまるというのに、こんなんで大丈夫なんだろうか、この国は。どうしてこんなにイザコザが多いのだろう。健全な相互批判がなんでこんなに少ないのだろう。
 小学校に「りくつ(よい名称が思い浮かばない!)」、中高に「論理学」、大学に「科学哲学」を必修科目として早急に導入したほうがよいのではないのか。
 「行動や、思想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、『われわれの代わりに理論を死なせる』と考えられる観点」(蔭山泰之)はいつになったら日本に根付くのか。人格ではなく理論を攻撃するという発想はいつになったら浸透するのか。批判と非難の混同はいつになったらなくなるのか。
━━━━━━━━━━━━━
 批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。そして、批判を受け入れることは、屈服を意味するとも考えられ、一種の屈辱ともみなされている。たしかにそういう侮辱的な批判もあるかもしれないが、しかしそれはたいてい相手を理解しないたんなる非難と同程度のものであろう。本来、批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘することにより、批判される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目的は、その批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批判はその対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改善するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け入れることは改良への一ステップである。
(蔭山泰之「面目と反駁-批判的合理主義の観点から見た日本的組織の諸問題-」、日本ポパー哲学研究会機関誌、Vol. 10、No. 1 、1998年6月、http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━
 日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。(中略)こうした傾向が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてしまうだろう。しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切り離し、たとえ理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。
(同上)
━━━━━━━━━━━━━
  1. 2007/04/02(月) 01:48:34 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

今後ともよろしくお願い致します。

 Libra師匠、こんばんは。^^
 こちらではお初です。
>  批判は、ふつう非難と混同され、敵意の現れとさえ見られることがある。
 少なくともこの日本社会の現実はその通りなのだろうと思います。
 それが現実の日本社会なんですね。涙
 私はこの”ふつう”を認めざるを得ませんし不本意ながらこの”ふつう”を容認しながら、
> 「われわれの代わりに理論を死なせる」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。
 より多くの一人ひとりが自らの意志でそのような観点を支持することができるように強く望んでおりますが、私は強く望むことの正反対の言動を時折しているのではないかとおもうことがあります。
 「人間は感情の動物」とも言われたりすることもありますが、この人間の感情を無視(スルー)したり軽んじる言動が、もしかしたらこのような観点を多くの一人ひとりが支持しようとしない要因の一つになっているのではないかとも考えたりしています。
 師匠にとって私のコメントは、毎度のことながらいつまで経っても堂々巡り、脱力感で溜息を誘うようなことばかりで大変申し訳なく思っておりますが、こんな飲み込みの悪い私であってもこれもこの日本社会の現実のふつうの一人として、見捨てることなく許容できる範囲で結構ですので今後ともよろしくお願い致します。
ぺこ <(_ _)>
  1. 2007/04/02(月) 04:29:38 |
  2. URL |
  3. わめ #a2H6GHBU
  4. [ 編集]

はじめまして、こんにちは。
ご意見にハッとさせられています。
 >しかし、もうすぐ裁判員制度がはじまるというのに、こんなんで大丈夫なんだろうか、この国は。どうしてこんなにイザコザが多いのだろう。健全な相互批判がなんでこんなに少ないのだろう。
私は主婦ですけれど、
ネットの世界は現実の世界より
汚い言葉が多いように感じます。
義父が地元の地裁で第一号の陪審員?に選ばれていました。
(出番はなかったそうです。)
任期がこのたび終了しました。
任期が終わるまで息子(私の夫)にも
ずっと黙っていたから、驚きました。
普通のド田舎のじいちゃんですけど、
かなり封建的で感情的でもあります。
出番がなくてホント良かったです。
日本人の考え方に強い影響を与えてきたのは「何」なのでしょう?
  1. 2007/04/02(月) 10:10:56 |
  2. URL |
  3. 葉末 #-
  4. [ 編集]

わめさんへ

 わめさん、こんばんは。
 返事を書くのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。あちらのほうではたいへんお世話になりました。
 IPの問題についてのわたしの解は、あちらのほうでほとんど提示することができたとおもいます(理解できた人がほとんどおられなかったようで、とても残念ではありますが)。不足しているところや誤りなどに気付かれましたら、ぜひご指摘ください。
 【反証可能性のきわめて高い理論Pがあって、実際に反証にさらされたにもかかわらず、いままでのところ、反証されていない】というような状況が仮にあったとしましても、そのことは、【理論Pは真である】ということを何ら保証いたしません。もっとも、そのような理論Pを真であると考えたり、真であると表明したりする人間の行為じたいに問題はないとおもいます(もちろん人間は誤りをおかします)。
 ちなみに、死刑判決を書くときに裁判官の頭の中にある「万有引力の法則」などなども、決して実証されているわけではありません。また、実証された理論であってさえ、それが偽である可能性はあります(この点は、もっと詳しく書いたほうがよいでしょうか。わけわかめになる可能性が大ですが)。
 【理論Pが真であるか否か】ということは、【理論Pを毛のないサルが実証したり反証したりできるか】ということとは無関係に客観的に決まるものでしょう(以下の拙文を参照)。われわれは理論の真偽を推測しうるのみであり、真理を所有することは決してできないでしょう。
  真理について
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html
 わめさんは、「刑事裁判における原則である『疑わしきは被告人の利益に』の立場」をお採りになるとのことですね。さて、そのお立場からしますと、以下のような問題に対する解はどうなりますでしょうか。
 ある刑事裁判において、ISPの記録が提出され、かつ、その記録が理論Pとぴったり一致していたとしましょう。そして、【理論Pは真である】という事実認定は、被告人にとって不利益であるとしましょう。そのとき、被告人が、何ら具体的な材料を提示することもなく、「そのISPの記録が改ざんされている可能性は0とはいえないのだから、わたしを有罪にする証拠にはなりえない」と発言したとしましょう。さて、それを聞いた裁判官は、いったいどのような判決を書くことになるのでしょうか。
  1. 2007/04/07(土) 01:09:59 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

葉末さんへ

 はじめまして、こんばんは。コメントありがとうございました。
 あまりにも返事を書くのが遅くなってしまったので、もうご覧になっていないかもしれませんね(汗)。申しわけなくおもっています。
 最近、どこかの新聞で、アメリカの原発と日本の原発とでは、事故報告の件数がかなり違っているというような記事を読みました(記憶違いだったらごめんなさい)。これは、日本的組織が有する傾向性が、実際に数値としてでちゃっている例なのではないかと推測します。「失敗や誤りは隠そう、なかったことにしよう」という考えがその根本にあるようにおもいます。
 わたしは、以下のような、ポパーの考えを支持します。
───────────────
すべての誤りを避けることは、あるいはそれ自体として回避可能ないっさいの誤りを避けることは、不可能である 。誤りは、あらゆる科学者によってたえず犯されている。誤りは避けることができ、したがって避けることが義務であるという古い理念は修正されねばならない。この理念自身が誤っている。
〔中略〕
学ぶためには、また、可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれはまさにみずからの誤りから学ばねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
〔中略〕
われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、感謝の念をもって受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思いだすべきである。またわれわれは、最大級の科学者でさえ誤りを犯したことを思いだすべきである。もちろん、わたくしは、われわれの誤りは通常は許されると言っているのではない。われわれは気をゆるめてはならないということである。しかし、くりかえし誤りを犯すことは人間には避けがたい。
(ポパー『よりよき世界を求めて』、小河原誠『ポパー─批判的合理主義』〔講談社、1997年〕の345~346ページから孫引き、
http://fallibilism.web.fc2.com/083.html
───────────────
  1. 2007/04/07(土) 01:43:51 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

こんにちは。
誤りを指摘してもらえるというのは
ラッキーなことなのですね。
ありがとうございました。
  1. 2007/04/07(土) 11:28:02 |
  2. URL |
  3. 葉末 #-
  4. [ 編集]

お返事遅くなりました。ぺこ <(_ _)>

 Libra師匠、こんばんは。^^
 こちらこそ師匠よりコメントを頂いておりましたのにお返事が遅くなり申し訳ありません。
 m(_ _"m)ペコリ
> ~【理論Pは真である】ということを何ら保証いたしません。もっとも、そのような理論Pを真であると考えたり、真であると表明したりする人間の行為じたいに問題はないとおもいます(もちろん人間は誤りをおかします)。
 これは私が某ブログ記事のコメント欄で師匠に質問させて頂いた『師匠は(反証が大いに可能なはずで実証不可能な)理論Pを、反証されない限りは真であると主張なさるのでしょうか?』のお返事ですね。
 ありがとうございます。
 師匠の【もっとも、そのような理論Pを真であると考えたり、真であると表明したりする人間の行為じたいに問題はないとおもいます(もちろん人間は誤りをおかします)。】のコメントに、(同某ブログ記事のコメント欄で)師匠の言われた『たしかに、言明の表明の仕方(前準備も含めて)には、個別の具体的な状況に応じて特別な配慮が必要になるでしょう。』を私なりに勝手に補足して捉えさせて頂いた上で私も同感です。
>  わめさんは、「刑事裁判における原則である『疑わしきは被告人の利益に』の立場」をお採りになるとのことですね。さて、そのお立場からしますと、以下のような問題に対する解はどうなりますでしょうか。
 提出された【ISPの記録】の信憑性が問われると思います。
 仮に信憑性が非常に高いとしても『信憑性が非常に高いISPの記録』だけでは該当者を被告人と特定できませんから、『信憑性が非常に高いISPの記録』だけで裁判官が有罪の判決を下すとは私には思えないです。
  1. 2007/04/15(日) 02:19:02 |
  2. URL |
  3. わめ #a2H6GHBU
  4. [ 編集]

「自由心証主義」の自由って?

 わめさん、おはようごさいます。
 わたしの説明がわるかったのかもしれません。刑事裁判において「ISPの記録が提出」されるというのは、ISPの担当者も証人として証言すると想定してください。
 「『信憑性が非常に高いISPの記録』だけでは該当者を被告人と特定できません」というのは、「~だけでは理論Pが真であると特定できません」という意味なのでしょうか。「~だけでは特定でき」ないとしますと、他にどんなものがあれば「特定できる」のでしょうか。そもそも、その「特定できる」というのは具体的にはどういう意味なのでしょうか。
 なお、今の問題では、【すでに認定されている事実と理論Pとから、刑法・刑事訴訟法の体系にもとづいて、被告人が有罪であることを論理的に演繹できる】とお考えください。
 以上をふまえた上で、もう一度コメントしていただければありがたいです。
  1. 2007/04/15(日) 10:57:56 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

 Libra師匠、こんばんは。^^
> その「特定できる」というのは具体的にはどういう意味なのでしょうか。
 「ある人物Xさん」をこの場合の被告人と想定します。
 「ある人物Xさん」は「ノードZのユーザー集合」の一人であったとします。
 「ノードZのユーザー集合」の中で「ある人物Xさん」以外には【ノードZを介してインターネットの海にパケットを放】つことが不可能(アリバイがある)であったのなら、「ある人物Xさん」を特定できるように思いますし、この場合には裁判官が被告人(ある人物Xさん)に有罪の判決を下す可能性は高いと考えます。
 『信憑性が非常に高いISPの記録』と理論Pに加え、「ノードZのユーザー集合」メンバー全員のアリバイの有無が特定できるか否かの重要な要素だと思います。(これ以外にも特定できる要素はあるかもしれませんが)
 以下に、(ある制約により限られた)多数の人がインターネットを介し接続するserverの管理者としての私の実際の経験を踏まえ、『信憑性が非常に高いISPの記録だけでは該当者を被告人と特定できない』とする私の考えを以下に書いてみます。
 「ある人物Xさん」以外にも「ノードZのユーザー集合」の中のメンバーで【ノードZを介してインターネットの海にパケットを放】つことが可能(アリバイがない)だった人物がいたとして、その人物が「ある人物Xさん」と友好あるいは親密な関係にあった場合、その人物は「ある人物Xさん」の過去の発言内容や、その発言内容の「ある人物Xさん」の心情も知っていた可能性があり、そのことから「ある人物Xさん」に同情、発奮してその人物が【ノードZを介してインターネットの海にパケットを放】ったとも考えられると思います。
 私はこのような可能性も十分にあり得ると思いますので、【「ノードZのユーザー集合」のメンバーであるXさんの過去の発言内容から、「ノードZのユーザー集合の要素の数は1である(メンバーはXさんだけであり、他にメンバーはいない)」ということを導き出すことができ、かつ、それらの諸発言の存在を間主観的に確認しうるような場合には、「ノードZを介してインターネットの海にパケットを放った人物」をそのXさんに特定してもよい】とはおもえません。
 よって『信憑性が非常に高いISPの記録』と理論Pからだけでは、裁判官が被告人(ある人物Xさん)に有罪の判決を下すとは思えないと考えました。
  1. 2007/04/16(月) 03:15:18 |
  2. URL |
  3. わめ #a2H6GHBU
  4. [ 編集]

2つの混乱

 わめさん、こんばんは。
 おそらく、わたしの説明がわるかったのでしょう。議論に2つほど混乱が生じているようです。
 むこうのブログでわたしが示した解は、【捜査権を持たない一般人どうしの議論】のレベル(以下、「レベルA」という)での解です。それに対しまして、わめさんから、「刑事裁判における原則である『疑わしきは被告人の利益に』の立場」をお採りになるとのコメントがつきました。それで、こちらのブログでは、【捜査権が駆使される刑事裁判】のレベル(以下、「レベルB」という)での解を理論的にさぐってみようとわたしは考えたわけです。わたしの説明がわるかったせいで、このレベルの差を、わめさんは認識されなかったのだろうとおもいます。これが混乱の1つめです。
 もう1つは、【理論Pの真偽判断の問題(以下、「問題P」という)】と【ユーザー集合の中からターゲットの人物を特定するという問題(以下、「問題U」という)】との混乱です。こちらのブログでは、少なくともいまのところは、レベルBにおける問題Pのみを論じています。【レベルBにおける問題Uは解かれている】という状況を設定して議論しているわけです。すなわち、【すでに認定されている事実と理論Pとから、刑法・刑事訴訟法の体系にもとづいて、被告人が有罪であることを論理的に演繹できる】という状況を設定して議論しています(レベルBにおける問題Uについては「すでに認定されている事実」としているわけです)。
 ちなみに、むこうのブログでは、レベルAにおける問題Pについてまず論じ、その後に、レベルAにおける問題Uにふれました。
 以上のわたしの説明を読まれた上で、こちらでのわたしの議論をあらためて読み返して頂ければさいわいです。
 今回、わめさんは、【レベルAでの問題Uに対するわたしの解】を引用され、それはレベルBでの解としては認めがたいという見解をしめされました。その見解じたいにはもちろんわたしも同意いたしますが、そもそも、わたしは、【レベルAでの問題Uに対するわたしの解】が、そのままレベルBでの解としても通用するなどと主張しているわけではありません。いくらなんでも、そんな主張をする検察官はいないでしょう。
 レベルBになりますと、捜査権を駆使して、【ノードZが属するネットワークの物理トポロジ及び論理トポロジ】を調べることになるでしょうし、その結果として、明らかになってくるユーザー集合について、その全員を取り調べることになるでしょう。その他、可能な限りの証拠の収集が行われるでしょう。これらの努力のかいもなく、レベルBにおける問題Uを解くことができないような場合には、検察は公訴の提起じたいを断念せざるをえないでしょう。
  1. 2007/04/16(月) 18:51:30 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさん
こちらでははじめまして。
お知らせありがとうございます。
貧乏暇なし的な忙しさといいますか、なんせバタバタしておりまして、さっぱり売上は上がらないんですが、忙しいです(汗)。
もとより呉服屋とPCとは縁遠いもので畳の上でなんぞやっておりますものですから・・・・・
とまぁ、言い訳はこのぐらいにしておきますが、先般は大変ありがとうございました。承認が遅く御迷惑をおかけしました。
  1. 2007/04/16(月) 19:50:39 |
  2. URL |
  3. 犬のメメ #-
  4. [ 編集]

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このコメントは管理人のみ閲覧できます
  1. 2007/04/16(月) 20:33:25 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

犬のメメさんへ

 犬のメメさん、こんばんは。
 わざわざこちらの方にコメントしに来てくださいまして、ありがとうございました。
 先日はたいへんお世話になりました。承認制で議論をしたのははじめてだったので、わたしとしてはとても楽しかったです。
 またお世話になることがあるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いいたします。
  1. 2007/04/17(火) 00:26:52 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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匿名希望[2007/04/16 (月) 20:33:25]さまへ

 匿名希望[2007/04/16 (月) 20:33:25]さま、こんばんは。
 あちらのブログでわたしが書いたことを理解して下さっていたのですね。ありがとうございます。わざわざお知らせくださいまして、ありがとうございました。
 お知らせくださったURLも拝見させて頂きます。またご意見などがございましたら、お聞かせください。よろしくお願いいたします。
  1. 2007/04/17(火) 00:37:42 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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 Libra師匠、こんにちは。^^
 詳しく説明頂きありがとうございました。
 また私の読解力不足で、このような詳しい説明・ご指摘などのお手数を掛けてしまい申し訳ありませんでした。
m(_ _"m)ペコリ
 あちらでの『こと今回の一件に関して現在のところ、刑事裁判における原則である「疑わしきは被告人の利益に」の立場』との私の発言からの師匠の質問でしたので私は混乱していたようですが、師匠の「2つの混乱」のご指摘で、今回の問題の質問は「すでに認定されている事実」として被告人が特定されていることがようやく理解できました。汗
 その特定された被告人が、「すでに認定されている事実」の一部であるそのISPの記録が、「改ざんされている可能性は0とはいえないのだから、わたしを有罪にする証拠にはなりえない」との反論をしたということですね。
 被告人の「可能性は0とはいえない」との発言は間違っていないと思います。
 しかしながら、「可能性は0」と断定できることなどこの世の中に一つでもあるのか私は甚だ疑問であります。
 「可能性は0とはいえない」ことで有罪の証拠となりえないのなら、もしかしたら裁判官も検事も弁護士も必要無くなるのではないか、もっと突っ込んでいえば裁判制度さえ必要で無くなってしまい、犯罪王国日本が誕生するのではないかとさえ推測します。
 よって私は「すでに認定されている事実」の一部である「改ざんされている可能性は0とはいえないISPの記録」は有罪の証拠となりえると思いますし、裁判官は「改ざんされている可能性は0とはいえないISPの記録」を有罪の証拠として不採用にすることは無いと考えます。
  1. 2007/04/17(火) 13:17:14 |
  2. URL |
  3. わめ #a2H6GHBU
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こんにちは

おかげさまで、Libraさんに教わって数年立ちますが、「批判」の姿勢は飲み込めるようになりました。
が、まだいろんな点が気になります。
批判を敵意と受け取る、「無批判性非合理主義(勝手に命名)」の場合、すでに反証できない、もしくは理解できない、理解しようとしないから起こっているわけで、そこを打破する何かがないかな、と、あれこれ考えておりまする。
何かアイデアありませんか?
そこらへんを最近心理学と脳科学もろもろのアプローチの本を読みましたが、まぁ一朝一夕にはいかないですねぇ。
  1. 2007/04/17(火) 23:44:33 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
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『Rolling star』を聴きながら

 わめさん、こんばんは。
 「認定されている事実」という言葉の使い方に多少のズレが認められるものの、わたしが言いたかったことはほとんど伝わったようにおもいます。
 いくら捜査権を駆使できるとはいえ、検察官も人間ですから、理論Pを正当化するなどということは不可能です(理論Pが偽である可能性は永遠に残ります)。「良識に照らして疑問の余地はないと確信できる程度の証明(合理的な疑問の余地を残さない程度の証明)」[*1]を試みうるにすぎません。
 さて、レベルBにおけるこのような原則(「疑わしきは被告人の利益に」)は、刑事裁判における裁判官らの判断が、被告人に【刑事罰】という重大な結果を引き起こすことから要請されるわけですが(必要性)、一方で、裁判官らがこのような立場をとることが現実に可能となるのは、容疑を追及する側(検察)に【捜査権】という武器が与えられているからでしょう(許容性)。もしも容疑を追及する側に【捜査権】がないとすれば、この原則によって「犯罪王国日本が誕生する」ことになりますから。
 しかしながら、レベルAにおいては、上のような必要性も許容性もみとめられないとおもいます。わめさんが、個人的に、レベルAにおいても「刑事裁判における原則である『疑わしきは被告人の利益に』の立場」をおとりになるというのはもちろんかまわないとはおもいますが、レベルAにおける一般論としては、あちらでわたしが提示した程度の解(立場)で問題はないだろうとわたしはおもいます。
 そういえば、「プロバイダ責任制限法」の施行によって、【捜査権を持たない一般人】でも、一定の要件を満たす場合には、プロバイダや掲示板管理者などに対して発信者情報の開示請求ができるようになりましたね。プロバイダが開示請求を拒んだ結果、訴えられて敗訴した裁判例がすでにいくつかあります[*2]。このあたりについては、わめさんはどのようなご意見をお持ちでしょうか。
[*1] 日本弁護士連合会「裁判員制度 どうして市民が参加するの?」、
  http://www.nichibenren.or.jp/ja/citizen_judge/about/simin_sanka.html
[*2] 岡村久道「わが国における情報ネットワーク関連判例の動向」、
  http://www.law.co.jp/cases/netcase.htm
  1. 2007/04/20(金) 00:27:04 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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ジオン・ダイクンではないけれど

 みれいさん、こんばんは。
 もしも「徹底的非合理主義者」といいうるような人々が本当に存在すると仮定しますと、合理主義者が彼らに対して直接なしうることなどは、おそらく何もないでしょう(以下の拙文を参照)。
  非合理主義者の歩く道
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-3.html
 非合理主義者と合理主義者の戦いは【両者の直接対決】によっては勝負がつかないでしょう(そもそも、議論・対話ということじたいが成立しないでしょうから)。
 もしも、非合理主義者と合理主義者の戦いに決着がつくことがあるとすれば、それは、それぞれの【淘汰圧】との勝負を介して、結果的に決着がつく(どちらかが生き残る)ということ以外にはないようにおもいます。すなわち、非合理主義者と合理主義者の戦いの決着というのは、精神構造のレベルでの【人類の進化】の問題なのではないでしょうか。精神構造レベルでの進化にどれくらいの世代交代が必要となるのかはわかりませんが、みれいさんがおっしゃるように、「一朝一夕にはいかない」ことだけは間違いなさそうです。
  1. 2007/04/20(金) 00:57:32 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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Libraさん、こんばんは。

最近のネット問題で話題となっている方(罵倒系の方)の日常のブログを拝見したら書き込みに多少毒気はあるものの職場の話題や家庭もあるような方で少なくとも徹底的非合理主義者ではないようでした。(書き込みを拝見する限り職場や生い立ちで鬱憤はあるようでした)
次に、
>精神構造のレベルでの【人類の進化】の問題なのではないでしょうか。
の話に飛びますが、そのような局面においてやはり思想の啓蒙は重要になってくるのではないかと思います。
みれいさん、こんばんは。
みれいさんの脱カルト系ブログに最近お邪魔してないですが思うことがあります。私は信仰一世ですが、二世・三世の方々は不可抗力で環境の中におられた(る)わけで私の想像できない苦労があった(ある)のではないでしょうか。私は脱カルト系ブログは馴染めないという印象を持ったことがあるのですが今では二世・三世の方々の苦労も知らず申し訳ないという感じです。
  1. 2007/04/20(金) 04:06:34 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Libraさん、Leoさん、こんにちは

Libraさん、こんばんは。
「徹底的非合理主義者」という言葉があったのですね。
失礼しました(汗)
>非合理主義者と合理主義者の戦いは【両者の直接対決】によっては勝負がつかないでしょう(そもそも、議論・対話ということじたいが成立しないでしょうから)。
同感です。
>精神構造のレベルでの【人類の進化】の問題なのではないでしょうか。
やはりそう思われますか。
簡単に解決したら、とっくにこの世から戦争なくなってますよね。
非合理さでもすすめていくのは、小脳の機能(考える前に行動に移す能力など)が関るようです。反証とか批判を調べてて、まさか脳科学にいくとは思いもしませんでしたが。
ひとつ言えるのは、元非合理主義者であった私が合理主義に転換可能であったということです。
さまざまな可能性へのアプローチは、これまた時代ごとに修正されていくかもしれません。
遠くもありますが、可能性として楽しみでもあります。
>Leoさん、こんばんは。
>一世、二世・三世
二世、三世は元々戻るべき信念体系がないわけで、新たに信念体系を得るのは苦労するところですが、
一世は一世で入会の段階で何か求めるものがあった、つまりその段階で何かしら苦悩はあっただろうと思います。
逆に二世の私は一世の気持ちは計り知れないものがあります。
なのでひょっとしたら申し訳ないのはこちらかもしれません。
>私は脱カルト系ブログは馴染めないという印象
私も以前はそうです(^^)
ひょっとすると、このへんも可能性はなきにしもあらず。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8368/1175328861/9
例えてみると、最初は私はLibraさんの提唱される反証性というのもさっぱりわからずでしたが、時間をかけて何度も同じ所を教えていただきながら理解してゆく事ができました。脱カルト論もそんな感じです。
しいていえば私は「みんなで考えよう」BBSでMC論やカルトを調べて覚えていたゆえに、入りやすいというメリットがあります。
各学分野の論文によって理論の視点は違えど、私達が思っていたより感情も科学でわかる時代になっていた、というのが正直勉強して思ったところです。
それにしてもまだまだ教わることは多いです。
今度、他宗教被害者、支援者の方にもお会いしてくる予定です。
  1. 2007/04/22(日) 14:14:12 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
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みれいさん、こんばんは。

>二世、三世は元々戻るべき信念体系がないわけで、新たに信念体系を得るのは苦労するところですが、
>一世は一世で入会の段階でか求めるものがあった、つまりその段階で何かしら苦悩はあっただろうと思います。
以前から私は信仰に興味はありましたが入会(入信)は清水の舞台から飛び降りるようなもので冒険であり賭けでした。私の元の信念体系は曖昧な信念と科学信仰を足して二で割ったようなものでしたのでシンプルに元に戻った(科学信仰に限界を感じて宗教に走ったのですが求める宗教が見当違いであったのかもしれません)のではないですが曖昧を曖昧のままにしない姿勢の他心の大切さは少しは学んだような気がします。(また科学信仰が科学でないのもよくわかりました。)
あと皆さんとお知り合いになれたことでで私の(失敗であった)冒険と賭けは有意義なものとなりました。
>逆に二世の私は一世の気持ちは計り知れないものがあります。
>なのでひょっとしたら申し訳ないのはこちらかもしれません。
信仰に限らず各々個人の苦労はお互いわかりにくいものなのかもしれません。その中で(主として各々個人の苦労の他になると思いますが)何か得るものがあるとよいと思います。
>>私は脱カルト系ブログは馴染めないという印象
>私も以前はそうです(^^)
>ひょっとすると、このへんも可能性はなきにしもあらず。
確かにそういう影響もあるのかもしれません。(大衆団体は意図的な手法としてあるいは人心掌握のための経験的に心理操作が得意のようです...)が、私は心情的には既に「脱」であるにもかかわらず「脱」以外の道はないかと考えています。(これは単に私が、うまく表現できないですが、物好きなだけかもしれません。あるいは私は自分は「脱」できていると思っていて実は「脱」できていないのでしょうか。あるいは「脱」に執着している間は「脱」でなかったり。)
  1. 2007/04/22(日) 22:44:31 |
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  3. Leo #k12f31x.
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Leoさんこんにちは

>求める宗教が見当違いであったのかもしれません
案外このひとことだけだったかもしれませんね。
>また科学信仰が科学でないのもよくわかりました。
同感です。
似非科学を調べてたらけっこういろいろあってびっくりしました。
商品化されて一般化しているからといって科学で証明されているわけではないのですね。
>冒険と賭けは有意義なものとなりました。
私も同感です。
なにせ、なんでも無駄はないなと思います。
>脱カルト
ごくごく単純にいうと、自分の自立と世間との共存ができて、自然なスマイルでいられればいれば、さして気にする問題ではないと思います。
(ただし、権威主義の共存は要注意と思います。Libraさんのサイトに関連がありました)
http://fallibilism.web.fc2.com/018.html
虐待問題の回復プロセスに詳しい方(というか経験者本人)と話していても、MC論をまったく知らない方ですが、精神的回復、心理作用のたどる過程がほぼ同じで話が通じました。
科学でも、理論の反証でも、人間の成長でも怪我でも回復でも、留まらずに次への過程をふめる、ということがなされればいいのではと思います。
  1. 2007/04/24(火) 15:32:01 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

およ

>>科学信仰が科学でない
>同感です。
>似非科学を調べてたら
すみません、話が飛んでますね。
  1. 2007/04/24(火) 22:53:38 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

またまたお返事が遅くなりました。<(_ _)>

 Libra師匠こんばんは。^^
>  「認定されている事実」という言葉の使い方に多少のズレが認められるものの、わたしが言いたかったことはほとんど伝わったようにおもいます。
 多少のズレでよかったです。汗
 ズレの認識も今はできてますです。ハイ (^^;
 私はレベルAについていつも「『疑わしきは被告人の利益に』の立場」をとっているわけではありません。
 それは「『疑わしきは被告人の利益に』の立場」の前に『こと今回の一件に関して現在のところ』と書いてあることでもわかると思いますが、これは師匠の【たしかに、言明の表明の仕方(前準備も含めて)には、個別の具体的な状況に応じて特別な配慮が必要になるでしょう。】の【個別の具体的な状況に応じて特別な配慮】や自らの関わり等々でその立場も変化しうると思うからです。
>  レベルAにおける一般論としては、あちらでわたしが提示した程度の解(立場)で問題はないだろうとわたしはおもいます。
 問題ないと思いますし、むしろ『可能性が100%(真)』ではないからとあやふやに済ますことが決して良いこととは思えませんのでよかったと思います。
 その点では私も「可能性が著しく高い」との見解を妥当であると支持する立場です。
 【「プロバイダ責任制限法」の施行によって、【捜査権を持たない一般人】でも、一定の要件を満たす場合には、プロバイダや掲示板管理者などに対して発信者情報の開示請求ができるようにな】ったことは好ましいことと思っています。
 しかしながら「一定の要件」の解釈の仕方で、度を超すこともあれば逆に認められないとするケースもありそうですので線引きが難しそうに感じます。
 私も含め掲示板やコメントを許可するブログ等の管理をする者にとっては、過去の判例や今後の動向が気になるところかと思います。
  1. 2007/04/26(木) 18:13:59 |
  2. URL |
  3. わめ #a2H6GHBU
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みれいさん、こんばんは。

>案外このひとことだけだったかもしれませんね。
確かにそのようです。ただ結局私の求める宗教「団体」はどこにも存在せずLibraさん(や皆さん)の示すものが大変参考になるという感じです。
>同感です。
>似非科学を調べてたらけっこういろいろあってびっくりしました。
>商品化されて一般化しているからといって科学で証明されているわけではないのですね。
医学や薬学のような真剣に科学的でなければならない(人の生存にかかわるもの)世界では疑似科学や非科学は処罰の対象になりますが宗教や商品や娯楽などの分野では疑似科学や非科学が許容されるようです(もしかすると宗教も人の生存にかかわるものの要素があるのかもしれませんが...)。
>ごくごく単純にいうと、自分の自立と世間との共存ができて、自然なスマイルでいられればいれば、さして気にする問題ではないと思います。
なるほどです。
>(ただし、権威主義の共存は要注意と思います。Libraさんのサイトに関連がありました)
一応権威主義はスマイルで否定です(^^;
>虐待問題の回復プロセスに詳しい方(というか経験者本人)と話していても、MC論をまったく知らない方ですが、精神的回復、心理作用のたどる過程がほぼ同じで話が通じました。
>科学でも、理論の反証でも、人間の成長でも怪我でも回復でも、留まらずに次への過程をふめる、ということがなされればいいのではと思います。
(これはあまり関係ないですが)虐待は宗教に関係ないところでもあるようですね(これは当然ですか)。あと「精神的回復」「心理作用」という言葉は知らなかったのでちょっと調べてみようと思います。「次への過程をふめる」は重要かもしれません。
# 本題からそれてしまったので続きは少し勉強してからみれいさんのサイトにお邪魔するかもしれません(いつになるかはわからないですが...)。
P.S.
>>(ただし、権威主義の共存は要注意と思います。Libraさんのサイトに関連がありました)
>
>一応権威主義はスマイルで否定です(^^;
「権威主義の共存」は心理関係の用語なのですね。私のような凡人は「権威主義否定」(のつもり)でも「権威主義の共存」心理には気をつけないといけないです。
あと(直接関係ないですが)みれいさんの掲示板拝見しました。思わぬ方(HNで判断して脱会系草分けの方とすると)がMC論やケア組織に拒否反応していたのが印象的でした。
  1. 2007/04/28(土) 00:08:09 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
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わめさん、Libraさんこんばんは。

最近こんな記事がありました。
○「学校裏サイト」管理人を書類送検 女子中学生の中傷放置 (ITmedia)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0704/27/news078.html
「「学校裏サイト」で中学生の実名を挙げた中傷書き込みを放置したとして、大阪府警が管理人の男を書類送検した。掲示板の中傷書き込みで管理人を立件したのは全国初。」
「また、管理人側はすぐには身元特定ができないような何重もの偽装工作をしていたが、解析作業を進めて男を突き止めたという。」
(産経新聞)
○ 掲示板の管理人を書類送検、中傷放置 (nikkansports.com)
http://osaka.nikkansports.com/news/f-on-tp6-20070427-190477.html
「生徒らが書き込むインターネット掲示板「学校裏サイト」で、女子中学生(13)が実名で中傷されているのを削除せず放置したとして、大阪府警南署は27日、名誉棄損ほう助の疑いで掲示板を管理していた大阪市の会社役員の男(26)を書類送検したと発表した。」
  1. 2007/04/28(土) 00:24:28 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
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長い間放置して、もうしわけありません

 いろんな方にコメントを頂いていたにもかかわらず、放置してしまう結果となってしまい、まことにもうしわけありませんでした。
 IPの問題のほうは、わめさんとの議論も収束したようですので、いちおう解決したということにしておきたいとおもいます。
 Leo さんは、みれいさんの掲示板の方に参加されていますね。いちおうロムはしていますが、わたしの場合、MC論というのがいまだに全く理解できていないので、議論についていけそうにありません(汗)。
 あと、「徹底的非合理主義者」という言葉は、わたしが勝手に作ったものです。みれいさんに誤解をあたえてしまったのでしたら、すべてわたしのせいです。ごめんなさい。
  1. 2007/05/08(火) 18:15:03 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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Libraさん、こんばんは

>Leo さんは、みれいさんの掲示板の方に参加されていますね。いちおうロムはしていまが、わたしの場合、MC論というのがいまだに全く理解できていないので、議論についていけそうにありません(汗)。
もしかするとMCの影響を受けにくい方は(も)MC論もまた理解し難いのかもしれません。(最初は抵抗感がありましたが)私の場合過去にMCの影響を受けていたフシがありMC論は知っておいた方がよいと思いました。また、MC論は批判的合理主義と相反しないのではないかというのが現在の感想です。
お勧めと思われる本を紹介します(一応念のための参考まで、あるいはこちらの掲示板の読者の方の参考までです...)。
○ 西田公昭 『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店、1995年 
http://item.rakuten.co.jp/book/743367/
○ スティーヴン・ハッサン 著、浅見定雄 訳 『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版、1993年
http://item.rakuten.co.jp/book/590695/
  1. 2007/05/10(木) 00:55:00 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
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Leo さん、こんばんは

 わたしがMC論をいまだに全く理解できていないのは、MC論に関する本をいまだに全く読めていないからでしょう。わたしがそれらをいまだに全く読んでいないのは、時間の経過とともにどんどんその優先順位が下がってきているからです。
 はじめはMC論にも少しは興味がありました(優先順位はもともと高くはありませんでしたが)。しかし、MC論に詳しいある専門家の方による Libra 分析(権威主義的パーソナリティ、ステレオ・タイプ)にふれてからは、MC論に対する興味はゼロ(むしろマイナス?)です。
 とはいえ、みれいさんや Leo さんが興味を持たれていることからしますと、MC論にとても魅力的な部分があるのはたしかなのでしょう。今後、わたしの中で優先順位が上がってくることがありましたら、ご紹介いただいた本にチャレンジする機会があるかもしれません。そのときはいろいろとご教示ください。
 興味の優先順位が最も高い本ですら容易には読めなくなっている現状を考えますと、なんでも読みたい本を好きなだけ読めた時代のありがたさを痛感いたします。いろいろ読んでおいてよかったなとおもいます。
  1. 2007/05/10(木) 18:49:54 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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Libraさん、こんばんはです。

確かに書籍は経済的にも敷居が高いです(私もMC論の本は心理的・優先順位的にやっと読む気になりました)。
「MC論に詳しいある専門家の方」がポッペリアンのLibraさんを「権威主義的パーソナリティ」に分類したとしたら「MC論に詳しいある専門家の方」の「権威主義的パーソナリティ」と「MC論に詳しいある専門家の方」の「MC論への不協和」が存在するように思えてなりません(もしかするとこれも私の単なる勘違いか何かかもしれませんが...)。
もし優先順位が上がることがありましたら下記のサイトをご参照・ご批判(もちろん理論に対してのこと)されてみるというのはいかがでしょうか。(もしかすると既に参照されたサイトかもしれませんが...)
○ 現代社会を心理学で考察するサイト (西田公昭助教授)
http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/
・マインド・コントロール論再考
http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
○ 『マインド・コントロールとは何か』(紀伊国屋書店)西田公昭 (RMCサイト、抜き書き)
http://iwatachi.com/whatmc.html
○ 『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)スティーヴン・ハッサン (RMCサイト、抜き書き)
http://iwatachi.com/mcsogo.html
P.S.
みれいさんのところのブログは一部のスレで議論が進んで私のペース的には(うまく表現できないですが、自分的表現では自分は晴耕雨読状態なので)追従できなくなってしまいましたが書籍を読むのと時々ROMする予定です。では、では。
  1. 2007/05/11(金) 01:53:06 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
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Leo さん、ありがとうございます

 せっかくなので、ご紹介いただいたサイトを少しながめてみました。以下のサイトを読んだりもしてみました。
  西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』
  http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm
  
 【マインド・コントロールという概念の広狭の問題】というのが、わたしが乗り越えなければならない最初のハードルであるように感じました。
 西田先生の以下の発言は、最も狭義の「マインド・コントロール」ということなのでしょうか。
───────────────
 ある集団や個人、社会にとっては困ったことをする集団なんですが、そういう人たちが自分たちの都合のいい目的のために、人の心をこっそりと操って自分たちの目的を達成する、というような手法について呼ぶものです。そういうふうに限定して使っていただきたいと思います。正式には、カルト・マインド・コントロールと言っていたんですが、長いもんですからカルトが取れたんです。
 カルトとは、ある熱狂的信念を持ち合った集団のことを指します。カルトそのものは、悪いものではありません。〔中略〕ところが、ある種のカルトには危険な共通性をもつものがあります。専門的にはその集団のことを破壊的カルトと分類しています。カルト・マインド・コントロールをもっと正確に言うと、破壊的カルトのマインド・コントロールということになります。
(西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』、
http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm
───────────────
 この部分を読みますと、「マインド・コントロール」という用語は「破壊的カルトのマインド・コントロール」「に限定して使っていただきたい」というのが西田先生のご主張であるように感じます。
 ところが、以下の部分では、「あるおもちゃ屋さん」が「大仕掛けなマインド・コントロールを使うんです」というような使われかたをしています。「あるおもちゃ屋さん」というのは「破壊的カルト」なのでしょうか。
───────────────
 例えば、1つの例として、あるおもちゃ屋さんの戦略なんですね。皆さん、おもちゃが何月にいちばん売れて何月にいちばん売れないかご存じですか。答えは、いちばん売れるのが12月です。クリスマスがあり、そしてお正月の準備がある。しかもボーナスが入る。こういう条件が12月です。いちばん冷え込むのは2月くらいなんです。そうすると、何とかして冷え込みを押さえたいですね。2月に売りたいんです。どうするか。ここで大仕掛けなマインド・コントロールを使うんです。まず、12月の頭ぐらいに、ボーナスをめがけてコマーシャルを打ちます。さまざまな形で。小さいところだったらチラシを配るかもしれないし、マスコミのセールス広告を使うかも知れません。売りたい商品めざして広告を打つわけです。
(西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』、
http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm
───────────────
 この部分でいわれている「マインド・コントロール」というのは、「社会心理学の基本にある考え方を逆手に利用し」、「状況をうまく利用して、ある特定の状況を用意する」こと「によってある行動を導き出す」ための手法(「社会心理学的誘導テクニック」とでもいうべきものか)のことのように感じました。
 このような広義のマインド・コントロール(社会心理学的誘導テクニック)じたいには、善も悪もないようにおもいます。たんに【人間の脳の仕様】がそうなっているということでしょう。
 現時点でのわたしのMC論の理解を箇条書きにしてみますと以下のようになります(各命題の真偽判断については保留します)。
1.社会心理学的に有効であると認められる体系的な誘導テクニック(以下、このような「広義のマインド・コントロール」のことを「社会心理学的誘導テクニック」ということにします)が存在する。
2.社会心理学的誘導テクニックは「社会にとっては困ったことを」実現するための手段としても使うことが可能である。
3.「社会にとっては困ったことを」実現しようとする集団の中には、社会心理学的誘導テクニックを熟知しているものが存在する。
4.社会心理学的誘導テクニックは、まだ一般に広く知られているとはいえない。
5.社会心理学的誘導テクニックについて無知な人間は、社会心理学的テクニックを熟知している者に誘導されてしまう危険が大きい。
6.3~5により、「社会にとっては困ったことを」実現しようとする集団によって、多くの人が誘導されてしまう危険が大きい。
7.あらかじめ社会心理学的誘導テクニックについて十分に理解しておけば、当該テクニックよる誘導は回避できる。
8.6~7により、社会心理学的誘導テクニックを、より広く一般的に知らしめる必要がある。
9.8のためには、「社会にとっては困ったことを」実現しようとする集団によって実際に使われている社会心理学的誘導テクニックを分析し、それを体系的に説明してみせる理論(MC論)が役に立つ。
 現時点でのわたしの最大の関心は、【すでに誘導されてしまった後でも、社会心理学的誘導テクニックについて十分に学ぶ機会や動機が存在しうるのか】という点です。すなわち、【MC論は、予防だけでなく、治療までも可能なのか】という点。これは、もしかしたら、【非合理主義者は議論によって変わりうるか】という問題(以下を参照)と同型なのかもしれません。
  非合理主義者の歩く道
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-3.html
  1. 2007/05/17(木) 19:40:55 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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櫻井義秀先生のご主張も参考になりました

 西田先生のご主張から少し距離をとって、今度は、櫻井義秀先生のご主張をながめてみました。
 どうやら、西田先生のご主張の対極に位置しているのがアイリーン・バーカー先生のご主張のようです。海外では、アイリーン・バーカー先生のご主張もかなり有力視されているようです(以下を参照)。
  マインド・コントロール論の現在とセクト批判への展望-国際宗教社会学会にてー(櫻井義秀)、
  http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf/cyugaisekuto-99.pdf
 アイリーン・バーカー先生の『統一教会信者になる─選択か洗脳か─』というご著書は「古典的名著としての評価が西欧では確立されてい」るそうですが(以下を参照)、邦訳はなされていないようです。
  反社会的教団をどのように批判していくか-宗教社会学の立場からー(櫻井義秀)、
  http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf/higaisyabengo0515.pdf
 櫻井先生のこの発表では、マインド・コントロールの概念定義が5つに類型化されています。これはとても参考になりました。また、島薗先生の「マインド・コントロール論が十分説得的でない」とのお考えも紹介されていました。
  1. 2007/05/18(金) 18:53:24 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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櫻井義秀先生のご発言メモ

 以下は、その他に参考になった部分の引用です。
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マインドコントロール自体は全然特殊な技術でない。これは『マインドコントロールとは何か』の著者である西田公昭氏も述べているが、簡単にいえば、セールスのテクニックと同じだ。店員が歩いている客に話し掛け、10分、15分と会話を続ければ、客は店員の勧めを断りにくくなる。宗教団体の場合も、いきなり「信仰しなさい」「買いなさい」とは言わず、何気なく訪れ、関係ができたところで初めて「これはどうですか」となる。
(櫻井義秀「BNNニュース「カルト問題」の近況」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2003/BNNnews0305.pdf
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───────────────
私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。しかし、調査や臨床的ケアにおいて、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない。新宗教研究者は、新宗教への理解と寛容を社会に求めるし、脱会者支援の側は、「カルト」批判と対策を社会に求めるようになる。客観的・価値中立的研究は実証的に難しい。
(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/ISCA050803%20revised%20again.pdf
───────────────
───────────────
…筆者は「マインド・コントロール論」による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コントロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきたし、そのような教団を批判する場合の方法に関して、「カルト」「マインド・コントロール」論に代わる批判の論点を持つべきであるという議論を展開してきたつもりであった。それは宗教社会学を専攻しているものとしてはごくありふれた学問的立場であるといえよう。
(櫻井義秀「『マインド・コントロール』論争と裁判-『強制的説得』と『不法行為責任』をめぐって」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2003/bulltinemindcontrolandlawsuit2003.pdf
───────────────
───────────────
…宗教社会学の言い分は、社会心理学的影響力の行使、或いは心理操作という概念だけでは入信行為の説明は十分ではないという論理に尽きるのであって、不正確で不適切な情報の提示による布教行為により信者になるものがいるという可能性までを否定したものではない。
(櫻井義秀「『カルト』問題と社会秩序(2)-脱会カウンセリングと信教の自由-」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/exitcounselingkiyo060219.pdf
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  1. 2007/05/18(金) 18:55:27 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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こんにちは~

Libraさん
>この部分を読みますと、「マインド・コントロール」という用語は「破壊的カルトのマインド・コントロール」「に限定して使っていただきたい」というのが西田先生のご主張であるように感じます。
限定というほどガチガチに固めているようには感じませんが、おっしゃるように心理的に影響を及ぼす(及ぼされる)テクニック全般をマインドコントロールとし、そのなかで、悪影響を及ぼす(及ぼされる)ものを「破壊的カルトマインドコントロール」とすればいいように思います。そして、カルト問題で語られる際は、後者を採用していると理解すればいいのではないかと思います。
>ところが、以下の部分では、「あるおもちゃ屋さん」が「大仕掛けなマインド・コントロールを使うんです」というような使われかたをしています。「あるおもちゃ屋さん」というのは「破壊的カルト」なのでしょうか。
>この部分でいわれている「マインド・コントロール」というのは、「社会心理学の基本にある考え方を逆手に利用し」、「状況をうまく利用して、ある特定の状況を用意する」こと「によってある行動を導き出す」ための手法(「社会心理学的誘導テクニック」とでもいうべきものか)のことのように感じました。
おっしゃるとおり、心理的影響力操作のなかで「状況のコントロール」の例をあげているだけで、そのテクニックを使用しているおもちゃやさんを破壊的カルトとしているわけではないと思います。
>このような広義のマインド・コントロール(社会心理学的誘導テクニック)じたいには、善も悪もないようにおもいます。たんに【人間の脳の仕様】がそうなっているということでしょう。
そうゆうことです。なので物理学からもマインドコントロールと脳の影響という視点から研究可能なようです。
私の認識では
・破壊的カルトの悪影響に対しての予防と対策
・破壊的カルトに関って被害が及んだ方やその関係者への理解と行動の科学(心理学を行動科学と解釈して)
といった感じです。
櫻井教授の「宗教社会学」の視点は、あくまでも社会学からの視点なので、社会心理学だけでなく心理学のジャンルすべて、またマインドコントロールを肯定するか否定するかそれらも距離を置いて観察してゆく立場ではなかと思います。
なので、とても客観的な意見が参考になります。
そしてここ数年でも少しずつ変わってきているように思います。
あと、マインドコントロール論と判例に関しては、まだ論文にもなっていないと思いますが、日本では今年の2月26日がおそらくはじめての法廷での採用だと思います。
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-23.html
  1. 2007/05/19(土) 20:26:37 |
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  3. みれい #unfRF2B2
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Libraさん、こんばんは。

レスありがとうございます。
>西田先生のご主張から少し距離をとって、今度は、櫻井義秀先生のご主張をながめてみました。
>どうやら、西田先生のご主張の対極に位置しているのがアイリーン・バーカー先生のご主張のようです。
なるほどです。対極の両者を読み比べてみる必要がありそうです。
>マインドコントロール自体は全然特殊な技術でない。
確かに、マインドコントロール自体特殊な技術ではないようですが、「「社会にとっては困ったことを」実現しようとする集団」が
勧誘や寄付を無限連鎖講的に行うこと、勧誘や寄付のインフォームド・コンセントを行わない点は依然問題と思いました。
  1. 2007/05/19(土) 21:47:47 |
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  3. Leo #k12f31x.
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破壊的カルトマインドコントロール?

 みれいさん、こんばんは。
 わたしが理解(誤解?)したところによりますと、西田先生は、「心理的に影響を及ぼす(及ぼされる)テクニック全般を〔広義の〕マインドコントロール」とおっしゃっているわけではなくて、そのようなもののうち、「ある特定の状況を用意する」こと「によってある行動を導き出す」という性格のもの(いってみれば、「社会心理学的誘導テクニック」とでもいうべきもの)に限定して、広義のマインドコントロールとおっしゃっているのではないでしょうか。
 「破壊的カルトマインドコントロール」という概念がいまいち理解できません。たとえば、包丁なんかは、料理にも殺人にも使おうとおもえば使うことが可能なわけですが、「殺人的包丁」というものは存在しないとおもいます。殺人に使われた場合には、その包丁は「凶器」と呼ばれるわけですが、それはその包丁じたいの性質によってそのように呼ばれるわけではなくて、その包丁の具体的な使われ方によって、結果的にそのように呼ばれるにすぎません。
 これに対して、社会心理学的誘導テクニック(広義のマインドコントロール)の場合には、その中に含まれる個々の具体的なテクニックじたいの性質によって、「破壊的」なものとそうでないものとに分けることが可能なのでしょうか。それとも、包丁の場合と同様に、そのテクニックの具体的な使われ方によって、結果的に、「破壊的カルトマインドコントロール」と呼ばれる場合がありうるということなのでしょうか。
 櫻井先生のご主張や、マインドコントロール論を採用した下級審の裁判例についても少し議論してみたいとおもうのですが、わたしの場合、上に示しましたように、基本的な理解がままならない状態です。
  1. 2007/05/20(日) 00:27:33 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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Leo さんへ(1/3)

 いつもいつもレスが遅くなってもうしわけありません(汗)。
 アイリーン・バーカー先生のご著書については、まだ邦訳すらされていないようですし、これから邦訳される可能性もきわめて低いのではないでしょうか。「宗教社会学の研究者でカルト問題を研究しているものは極めて少なく、わずかに5、6人しかいない」そうですから(以下を参照)。
  BNNニュース「カルト問題」の近況(櫻井義秀)、
  http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2003/BNNnews0305.pdf
 ある具体的な宗教団体が用いているとされる「マインドコントロール」が、実際にどれくらいの影響力を行使しえているのか(いないのか)を、厳密な意味での科学的な調査によって明らかにすることなどは、そもそも不可能なようにわたしは感じます。「じゃあ、今度は、1年ほど、マインドコントロール使わないで布教活動してみて下さい」とか、そんなのはどうかんがえても無理でしょうから。もっとも、科学的理論とはいえないからといって、その理論が偽であるということになるわけではありませんから、研究する意義はもちろんあるとおもいます。
───────────────
…調査や臨床的ケアにおいて、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない。新宗教研究者は、新宗教への理解と寛容を社会に求めるし、脱会者支援の側は、「カルト」批判と対策を社会に求めるようになる。客観的・価値中立的研究は実証的に難しい。
(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/ISCA050803%20revised%20again.pdf
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マインド・コントロールを信者の心理状態との関連で理論化すると、マインド・コントロールされたのか、されなかったのか、されたとしてもどの程度されたのか、これを決定することが難しい。信者がある行為をなした時点に遡って、心理状態を確定するのは無理です。行動の動機として語られることは、回顧的な評価を含んだ動機の説明であり、事実そのものではありません。
(櫻井義秀「反社会的教団をどのように批判していくか-宗教社会学の立場からー」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf/higaisyabengo0515.pdf
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 バーカー先生のご研究がどの程度「科学的理論」といいうるのかについては、科学哲学的な観点から興味がありますが、今後、わたしがバーカー先生のご著書に接する機会などはおそらくないでしょう(笑)。
  1. 2007/05/20(日) 01:47:55 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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Leo さんへ(2/3)

 島薗先生は「特定の宗教集団の説得戦術の実際について、十分な実証的記述とそれに基づく比較分析」の必要性を指摘されているようですが、櫻井先生がおっしゃるように、この問題についての「客観的・価値中立的研究は実証的に難しい」としますと、そもそも、「特定の宗教集団の説得戦術の実際について」の「十分な実証的記述」などは困難なのではないでしょうか。ましてや、「研究者でカルト問題を研究しているものは極めて少なく、わずかに5、6人しかいない」となると、「比較分析」なんてお手上げ状態なのでは?
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島薗先生は、マインド・コントロール論が十分説得的でないとし、「マインドコントロールという語の限定的で的確な使用が見られない大きな理由は、これらの研究が特定の宗教集団の説得戦術の実際について、十分な実証的記述とそれに基づく比較分析を行っていないからである。」と述べます。
(櫻井義秀「反社会的教団をどのように批判していくか-宗教社会学の立場からー」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf/higaisyabengo0515.pdf
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───────────────
私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。しかし、調査や臨床的ケアにおいて、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない。新宗教研究者は、新宗教への理解と寛容を社会に求めるし、脱会者支援の側は、「カルト」批判と対策を社会に求めるようになる。客観的・価値中立的研究は実証的に難しい。
(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/ISCA050803%20revised%20again.pdf
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 ネットでも「創価学会はマインドコントロールをしている」というような話をする人をよく見かけますが、創価学会が用いているテクニックのうち、具体的にどのようなものをさして「マインドコントロール」といっているのか不明なことが多いとおもいます。
 周知のとおり、創価学会においては、「池田名誉会長が名誉博士号をまたもらいました!」というようなことが機関紙等で毎日のように宣伝されています。これは、「説得の社会心理学的技術の初歩」である「『権威』を用いて同意を促すやり方」といいうるでしょうから、少なくとも、最も広い意味でいうなら「創価学会はマインドコントロールをしている」といえそうです。
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 説得の社会心理学的技術の初歩で、「権威」を用いて同意を促すやり方ですね。それを魚住氏が実演してくれたというのは、やはりそのような説得方法を統一協会は用いているのかと考えざるを得ないわけです。
 しかし、このような論法は統一協会に限らず、世間一般のありふれたものでして、学会というアカデミズムの牙城のようなところですら、「定説」であるとか、「先行研究の知見」は人を納得させるものなのです。これはある意味で、「思考のエコノミー」として大事なことでもあり、森羅万象についていちいち原点から考えてはいくら時間があっても足りないし、日常生活を送れません。ですから、殆どの事柄に関して、私たちは「常識」やその筋の「権威」、専門家の話に基づいて、物事を認識し、判断しているわけです。要は、人の頭を借りて、考えてみたことにしているのです。
 しかしながら、エコノミー・モードでは研究にならないのは当然として、日常においても、時々、原点に立ち返って考え直して見るというのは必要なことです。
(櫻井義秀「札幌『青春を返せ』訴訟にみるカルト問題の行方」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf/nigata2001.pdf
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  1. 2007/05/20(日) 01:49:24 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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Leo さんへ(3/3)

 「マインドコントロール」と「インフォームド・コンセント」は分けて考えるべきだとおもいます。「個人の人生や財産をかけるような決断」「を迫る」にもかかわらず、「十分な情報を与え」ないような布教活動については、そのような行為じたいに対して(「マインドコントロール」に相当するか否かを問題とするまでもなく)、不法行為責任を追及しうると解釈するのが妥当ではないでしょうか。むしろ、「マインドコントロール」の有無を争点にしてしまうと、不毛な「マインド・コントロール論争」が法廷に持ち込まれることになってしまって、困ったことになるのではないかと想像します。すでに、「マインドコントロール」を認定した下級審の裁判例が出たようですが、控訴審でどういう判断が下されるか注目ですね。今回の下級審では、不毛な「マインド・コントロール論争」が法廷に持ち込まれることはなかったのでしょうか。
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教団の布教手法に関する不法行為責任を追及する、或いは社会的批判を行うという目的からすれば、DIMPACレポート、及び法廷助言書で議論の争点になっている「強制的説得」と呼ばれる布教方法により、ある人が入信し、活動を継続したのかどうかを、事実的因果関係のレベルで証明せずともよいのではないかと思われる。〔中略〕インフォームド・コンセントという権利の概念を導入すると非常に分かりやすくなるが、個人の人生や財産をかけるような決断には相応の情報が必要であり、そのような決断を迫るものは十分な情報を与える必要がある。その後で決断した行為であれば当人が責任を負うべきであり、そうでなければ教団が責任を一部なりとも負うべきであろう。
(櫻井義秀「『マインド・コントロール』論争と裁判-『強制的説得』と『不法行為責任』をめぐって」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2003/bulltinemindcontrolandlawsuit2003.pdf
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私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。しかし、調査や臨床的ケアにおいて、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない。新宗教研究者は、新宗教への理解と寛容を社会に求めるし、脱会者支援の側は、「カルト」批判と対策を社会に求めるようになる。客観的・価値中立的研究は実証的に難しい。
(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/ISCA050803%20revised%20again.pdf
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  1. 2007/05/20(日) 01:51:06 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

こんにちは

Libraさん
>>心理的に影響を及ぼす(及ぼされる)テクニック全般を〔広義の〕マインドコントロール」とおっしゃっているわけではなくて
西田氏の場合、主には社会心理学の視点から心理的な影響力をみるのがMC論です。
それがひとつの特定のジャンルと言われればそうです。
個人心理学、応用心理学、などなど、ジャンルの違う心理学ではその「影響力の捉え方」が違うので、心理学科全般で捉えている、とは言えないと思います。
また、そのなかでどれくらいテクニックがあるのかな、といえば、リフトンやシャインの洗脳の話から発展し、ロバートチャルディーニの影響力における研究、フィリップジンバルドの研究などが採用されていると思います。
また、何をもって悪用とするのか、というのが宗教社会学の櫻井教授の視点ではと思います。
また、島薗教授も宗教学なのでジャンルが違います。
なのでMC論を理解するために社会学・宗教学を参考にすることはあっても、それらをもってMC論を理解するのは、ちょっとお門が違います。
>①その中に含まれる個々の具体的なテクニックじたいの性質
>②包丁の場合と同様
う~ん、②かな
ごく一般的な営業マンが使う心理テクニックも悪用すれば悪徳商売も出来てしまいます。
また、その悪徳商法の破壊的カルト員もCMCの配下にあると考えていくのがMC論です。
お客さんに売るだけでなく、売る側のスタッフを”悪用してると意識させることなく”悪徳商法をさせることが可能だったりします。
それから、櫻井教授の論文ですが、2003年の論文と、最近のものでは、たぶんMC論の扱いは変化してきていると思います。(とはいっても、立場が違うので俯瞰はしていると思います。)
参考になるかわかんないけど、拾い物です。
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2004/higaibenrenAFF2003report.pdf
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/1001/1/%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91117.pdf
バーカーも出てきます。
先にひとつ注意点を話してしまうと、昔々ポパーと個人心理学者アドラー(MC論とは関係ないです)が会話した時に、ポパーに「心理学は、反証不可能ゆえ科学じゃない」とつっこまれたことがあるようです。「臨床実験で肯定的要素がたくさんあっても反証にはならないじゃないか」と。これは、どうやら精神医学、脳科学、心理学など、心を扱うジャンルに言えるようです。
さすがに心の分野を扱うので精密な反証という意味ではなかなか難しいところでもありますし、それを言ってたら精神医学全部なりたたないことになります。
逆にいうと、現状の中の精一杯のカバーが現代の精神科学の範囲、といえるかもしれません。
ポパーの反証性も踏み込めない分野があるともいえるのではと思いました。
  1. 2007/05/20(日) 18:42:30 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

Libraさん、こんばんは。

>いつもいつもレスが遅くなってもうしわけありません(汗)。
いえいえ。
>「マインドコントロール」と「インフォームド・コンセント」は分けて考えるべきだとおもいます。
そのようですね。「マインドコントロール」自体でなくその使われ方やその他の不正が問題なのですね。
  1. 2007/05/20(日) 23:00:21 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

MC論は個人の脱カルトに有用と思いますが、宗教集団が不正をし続けることへの抑止には効果がない可能性があり、Libraさんのご指摘は重要な示唆になるのではないかと思いました。(後者は裁判の推移等ウォッチも必要そうです)
  1. 2007/05/20(日) 23:05:00 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Leoさん こんばんは

>MC論は個人の脱カルトに有用と思いますが、宗教集団が不正をし続けることへの抑止には効果がない可能性があり
う~んと、オウム真理教の例を考えていただくとわかりやすいと思うのですが、MC論やカルトの定義があるゆえにカルト団体の抑止力になっている部分もあると思います。
ただ、主義思想的な部分は、それだけではおさまりきりませんよね。
世界中のテロが相変わらず続いていることなども考えると、MC論以外の視点や論点も必要であるとは当然ながら思います。
  1. 2007/05/20(日) 23:14:09 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

 みれいさん、こんばんは。
 科学的理論とはいえないからといって、その理論が偽であるということになるわけではありませんから、そのような理論であっても研究する価値はもちろんあるとわたしは考えています(ポパーも同様です)。
 わたしが参照した櫻井先生のご議論は、以下のページで紹介されていたものです(すべてに目を通した上で今の議論をしています)。
  カルト問題、マインド・コントロール論
  http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/karuto.htm
 「教団への入信をめぐる『マインド・コントロール論争』は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない」と論じられている「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」は、その中ではわりと新しく、「2005/8/23」という日付が付されていました。
 「社会学・宗教学を」「をもってMC論を理解するのは、ちょっとお門が違います」とのご主張が、わたしのコメントとどう関係するのかが理解できないでいます。
 今のところ、わたしは、西田先生のMC論しか知りません。そして、西田先生は「社会心理学的誘導テクニック」とでもいうべきものに限定して広義のマインドコントロールとおっしゃっていると理解しています。この理解は西田先生のご説明に基づくものです。
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社会心理学では、個人を取り囲む「状況」の拘束力を分析し、そのメカニズムを説明してきた。「マインド・コントロール」もそこで見出されて合意のある諸原理のシステム的応用なのだ。
(西田公昭「マインド・コントロール論再考」、
http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
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人間というのは、感情の成分と、認知の成分(理性的、知性的な成分)、そして行動する(手足を動かすような)成分と、その三つの成分というのが、うまくバランスをとり合って生きている-というのが心理学の大きな考え方なんです。
 三成分をもっている人間というものに、もう一つ大きな要因を持ち込もうじゃないかというのが、社会心理学です。もう一つの大きな要因というのは、状況というものなんです。人間の行動というものは、個人の内面的にあるものと、そしてその人の周辺にある状況というものとの関数関係=掛け算によって、行動というものは決まっているんです。〔中略〕
 〔中略〕社会心理学というのは、まずは状況から分析しようじゃないか、いうふうな形でものごとの解明に臨んでいくというアプローチがあります。
 〔中略〕マインド・コントロールというのは、この社会心理学の基本にある考え方を逆手に利用していけばできるということになります。状況をうまく利用して、ある特定の状況を用意する訳です。それによってある行動を導き出すわけです。
 〔中略〕この行動パターンというのは、100人が100人同じ行動を引き起こすことはできません。それはなぜかと言うと、個人には個人差があります。したがって、100%予測することはできないわけですね。ただ、個人と状況を完全に把握することができれば、行動を予測することができるということになります。しかし、人間そんなに簡単じゃないですから、外から完璧に理解することは非常に難しい。でも、徐々に徐々に、うまくやっていけば、この2つ(個人と状況)をうまくつかむことに成功していきます。
(西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』、
http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm#heisasei
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  1. 2007/05/21(月) 01:58:01 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Leo さん、こんばんは。

 Leo さん、こんばんは。
 「MC論は個人の脱カルトに有用と思います」とのことですが、もしこの場合の「個人の脱カルト」というのが【現役のカルト信者がカルトから脱退する】という意味なら、【すでに誘導されてしまったカルト信者にも、MC論について十分に学ぶ機会や動機が存在しうる】ということになるとおもうのですが、そういう意味でおっしゃっているのでしょうか。
 あるいは、そこでいわれている「個人の脱カルト」というのは、【すでに形式的にはカルトから脱退できたものの、精神的にはまだ十分に呪縛から解放されたとはいえない個人が、精神的にも十分に呪縛から解放される】という意味なのでしょうか。
 MC論が「宗教集団が不正をし続けることへの抑止」に全く効果がないとはおもいませんが、どれくらいの効果が期待できるのかを実際に評価するのは難しいとおもいます。しかし、評価するのが難しいからといって、少しの効果しか期待できないということになるわけではないのですから、MC論を論じておく意味は十分にあるだろうとおもいます。もちろん、より効果が期待できる別の理論が存在する可能性がありますから、そういうのを新規に開拓する方向にも人的資源(研究者)が割り振られることが望ましいとおもいます。研究者は有限なわけですから、「MC論はどれくらいの効果が期待できるのか?」というような論争に多くの研究者が巻き込まれてしまうという状況は社会にとって得策ではないとおもいます。
  1. 2007/05/21(月) 02:44:57 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

おはようございます~

Libraさん
>科学的理論とはいえないからといって、その理論が偽であるということになるわけではありませんから、そのような理論であっても研究する価値はもちろんあるとわたしは考えています(ポパーも同様です)。
そうなのですね。承知しました。
そちらのお手持ちのサイトの資料だけでは、心理学の背景が薄いように感じました。
社会学から論じるMC論と、宗教学から論じるMC論では、議論の前提がちょいと変わるでしょうし、導く結論も変わってくると思います。
(ちなみにLibraさんはどこの分野からアプローチされどこの結論を仮定しようとしているでしょうか)
また、脱会後に関しては、デプログラミングの問題とかとかカウンセリング要項が別立てで必要ではないかと思います。
一応、MC論とカルトの話の載っているサイトを紹介しておきます。
(お二人とも脱会後のケアも行っている方達です)
http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/
とはいえお上記サイトのお二人も西田さんも、過去のさまざまな資料から導き出した案だと思うので、それらを議論しようとすると、
各人の扱った資料まで遡らないとならないかもしれません。
  1. 2007/05/22(火) 08:51:28 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

みれいさんへ

 みれいさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
 「そちらのお手持ちのサイトの資料だけでは、心理学の背景が薄いように感じました」とのことですので、わたしが参照している【社会心理学者の西田先生のサイト】や【西田先生の講演を記録したサイト】以外に、この問題を考える際に参照すべき心理学に関するサイトがありましたらご教示いただければさいわいです。
 「社会学から論じるMC論と、宗教学から論じるMC論では、議論の前提がちょいと変わるでしょうし、導く結論も変わってくると思います」とのことですが、【理論の理解】と【理論の真偽判断(評価)】がごっちゃになってはいないでしょうか。ある理論を理解しようとする場合には、あくまでもその理論そのものにそくして理解しなければならないとおもいます(あたりまえですが)。理論の真偽判断(評価)は、評価者が属している学問領域などに依存することなく客観的に行いうる場合もありますが(厳密な意味での科学的理論の場合)、そうはいかない場合もあるとおもいます。
 わたしは、いまのところ、MC論を社会心理学の応用理論として認識しています。よって、当然のことながら、MC論をあくまでも社会心理学の応用理論として理解しています(社会学者の櫻井先生も、宗教学者の島薗先生もMC論を社会心理学の応用理論として認識し理解されているのではないでしょうか)。
 そして、そのMC論は、残念ながら、厳密な意味での科学的理論とはいえないと感じています。MCが【宗教教団への入信】という行為に実際に寄与している度合いというのは、櫻井先生がおっしゃるように「教団ごとケースバイケース」なのでしょうが、仮に、【ある具体的な教団が用いているMCの効果】に議論の範囲をしぼったとしても、「調査…において、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない」とおもいます。誰もが納得せざるをえないような理想的なサンプリングができればよいのですが、それは現実にはとても困難でしょう。理想的なサンプリングが困難であるとすれば、MC論についての現実の調査結果というのは「片寄ってしまうのが当たり前ていうかしょうがない部分がある」ということになってしまうとおもいます。理想的なサンプリングが困難である以上、「情報というか、起こっている現象、出来事を説明するのに集めてくる材料ですね、その材料の集め方というのが、本人と見ている人、立場が違うと同じにならない」(西田先生)という【社会心理学じしんの考え】をMC論についての具体的な調査結果に自己適用すれば、そのような結論にならざるをえないのではないでしょうか。
───────────────
 実は私たちがいろんな場所に行ってその場の中で集めてくる情報ていうものには客観性をいくら持とうとしても限界があるんだということなんですね。要するに片寄ってしまうのが当たり前ていうかしょうがない部分がある。
(西田公昭講演『マインドコントロールとは何か』、
http://www.asahi-net.or.jp/~am6k-kzhr/nisida.htm#heisasei
───────────────
───────────────
私の宗教社会学関連で言えば、「カルト」の定義、教団への入信をめぐる「マインド・コントロール論争」は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない。つまり、布教・教化における本人の自己選択と組織による影響力の度合いは、基本的に程度問題であり、個人ごと、教団ごとケースバイケースである。100%の自由意志も100%の強制もない。しかし、調査や臨床的ケアにおいて、現役信者を対象にするか、脱会信者を対象にするかで、彼等の語りに依拠した調査の知見は異なったものとならざるをえない。新宗教研究者は、新宗教への理解と寛容を社会に求めるし、脱会者支援の側は、「カルト」批判と対策を社会に求めるようになる。客観的・価値中立的研究は実証的に難しい。
(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」、
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~n16260/pdf2005/ISCA050803%20revised%20again.pdf
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 もちろん、西田先生のMC論はとても学問的だとおもいます(世界的にも著名な社会心理学者の理論なのであたりまえですが)。もしも、数多くの教団に対して、西田先生が望まれるとおりの理想的なサンプリングを自由に行って調査するということが現実に可能なのであれば、厳密な意味での科学的理論といいうるかもしれません。わたしが現時点で西田先生のMC論について「厳密な意味での科学的理論とはいえない」という印象を抱くのは、西田先生の理論構成に学問的な欠陥があると感じているからでは決してなくて、その理論を検証するための調査に際しては理想的なサンプリングなど現実的には不可能だと思うからです。
 「MC論とカルトの話の載っているサイト」としてご紹介いただいたサイトのうち、パスカル・ズィヴィーさんのほうは、「洗脳」と「マインド・コントロ-ル」を混同されているように感じました(以下のページを参照)。
  マインド コントロ-ルの事例の研究(パスカル・ズィヴィー)
  http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub5-2.htm
 「『マインド・コントロール』は、広い概念として通俗的に使われすぎ」であり、「多くの人が混同して用いているが、洗脳と異なるものとして認識すべきだ」という西田先生のご主張(以下のページを参照)にわたしは賛成します。
  
  マインド・コントロール論再考(西田公昭)
  http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
 【洗脳までをも含めて「マインド・コントロ-ル」と認識する】というお立場も学問的にはありえるのかもしれません。しかし、もしそういう立場をおとりになるのであれば、西田先生のようなお立場はきちんと否定すべきだとおもいます。矛盾する2つの理論の両方を肯定するというような態度は【理論的に破綻している】といわざるをえないとおもいます。
 みれいさんが先に言及された「リフトンやシャインの洗脳の話」というのは、やはり、「マインド・コントロ-ル」とは異なる話であると認識すべきなのではないでしょうか。また、みれいさんが言及されたチャルディーニやジンバルドの研究というのは、社会心理学の代表的研究なのではないでしょうか。だとすれば、これらは、西田先生の整理(MC論)からはみ出るものでは全くなく、むしろ、西田先生のMC論の基礎になっている研究であるというべきなのではないでしょうか。
 ご紹介いただいたサイトのうちのもう1つのほうは、西田先生と全く同じお立場であるように感じました。すべてのページに目を通したわけではありませんので、もし、西田先生の整理と異なる部分がありましたら具体的にご教示いただければさいわいです。
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 マインド・コントロール理論は、社会心理学という学問から生み出された理論です。社会心理学というのは、一言で言って、人間がどれくらい周囲の影響を受けているかを研究している学問で、心理学の中でも新しい分野に位置します。
(「『マインド・コントロール』を取り巻く2つの誤解」、
http://www.geocities.jp/recoverycult2005/gokai.html
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  1. 2007/05/22(火) 19:14:21 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさん、こんばんは。

>あるいは、そこでいわれている「個人の脱カルト」というのは、【すでに形式的にはカルトから脱退きたものの、精神的にはまだ十分に呪縛から解放されたとはいえない個人が、精神的にも十分に呪縛から解放される】という意味なのでしょうか。
一応そちらの意味です。
一方で問題のある宗教集団に適応してしまった人(所謂勝ち組)はMC論を適切に学ぶ機会や動機が存在しえないと思います。
(またMC論を学ぶとしても捻じ曲げて解釈し自己正当化に使用されるようです)
>MC論を論じておく意味は十分にあるだろうとおもいます。
了解しました。
  1. 2007/05/22(火) 22:21:22 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

>う~んと、オウム真理教の例を考えていただくとわかりやすいと思うのですが、MC論やカルトの定義があるゆえにカルト団体の抑止力になっている部分もあると思います。
予防になっているかもしれないですが、カルト団体の廃止や正常化までには至っていないと思います。
ひとつのゴールは脱カルトに関連する法制化などだろうと思います。
私がLibraさんにMC論の批判をお願いしたのでみれいさんに心配おかけしたのではないかと気にしていますが、MC論の批判点は将来宗教集団等(MC否定派やMC乱用派)からもツッコまれる可能性もありそうな点なので検討する意味はあると思います。
  1. 2007/05/23(水) 00:47:41 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

こんばんは~

Libraさん
>この問題を考える際に参照すべき心理学に関するサイト
>ある理論を理解しようとする場合には、あくまでもその理論そのものにそくして理解しなければならないとおもいます
より具体的かつ正確なものでご批判を、というのであれば、ネット上のサイトの数ページの情報だけではなおのこと不十分かもしれません。
現段階のLibraさんの質問だけでも、そう思います。
本で読んでみることをオススメします。
「マインドコントロールとは何か」西田公昭著
「マインドコントロールの恐怖」スティーブン・ハッサン著
「影響力の武器」ロバートチャルディーニ著
どうやら三つは基本らしいです。
ハッサンのサイトもありますが、英語なので私はよくわかりません。
http://www.freedomofmind.com/
また今年、新刊が発売されるそうです。
>誰もが納得せざるをえないような理想的なサンプリングができればよいのですが、それは現実にはとても困難でしょう。
そうですね。これは前にお話したように、心理学各ジャンルや精神医学というジャンルにはいえることなのだろうと思います。
また、社会心理学の理論が、他の心理学ではぜんぜん通用しなくなったりもするようです。
心理学の専門的用語にはなっていません。
西田さんもおっしゃるとおり、冷静な視点だと思います。
>(櫻井義秀「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」
世界では宗教の基盤も違えば捉え方も歴史も法律も文化も違うので、いくつか共通項はもしあったとしても、世界標準のMC論という考えはありえないですし、世界共通のカルトの定義はどうやら存在していません。
なので、宗教社会学の立場から俯瞰して書かれている話ですね。
ヨーロッパなどの各国のセクト定義などはあります。(ちょっと古いですが抜粋資料あります)
>「MC論とカルトの話の載っているサイト」としてご紹介いただいたサイトのうち、パスカル・ズィヴィーさんのほうは、「洗脳」と「マインド・コントロ-ル」を混同されているように感じました
ぜんぜんそんなことありません。
なぜかも、西田氏のご本を読めばそこについても書いてあるのですぐわかります。
抜粋でよければお送りします。
>みれいさんが先に言及された「リフトンやシャインの洗脳の話」というのは、やはり、「マインド・コントロ-ル」とは異なる話であると認識すべきなのではないでしょうか。
これも上記のとおりです。
MCと洗脳は別のものですが、心理操作に関してMC論を組み立てるための基礎には含まれるので異なる話ではないです。
>チャルディーニやジンバルドの研究というのは、社会心理学の代表的研究なのではないでしょうか。だとすれば、これらは、西田先生の整理(MC論)からはみ出るものでは全くなく、むしろ、西田先生のMC論の基礎になっている研究であるというべきなのではないでしょうか。
はいそのようです。
加えて、スティーブンハッサンはかなり基礎になっているのではと思います。
>西田先生の整理と異なる部分がありましたら具体的にご教示いただければさいわいです。
パスカルさんは、いかにカルト脱会者をCMCから解放されて社会復帰をさせるかという「脱会者のカウンセリング」に重点を置かれて書かれています。本を出されていますが、西田氏推薦文がこの方の著書の中にもあります。
「ズィヴィ氏は、破壊的カルトがはびこる日本社会の問題点を、ご自身の救出カウンセリングの経験をとおして、的確に理解しておられる。」
(「マインドコントロールからの脱出」パスカル・ズィヴィ著から一部抜粋)
もうひとりの方は、カルトの元信者で一世の視点が多く含まれているように思います。また、社会心理学の視点だけでなく、臨床心理士でもあるので、現場の臨床例やご本人の信者体験は元になっていると思います。
なぜMC論が日本にあるのか、というのは私が思うに、結局のところ脱会者のために、ということではないかと思っています。
日本だけがカルト宗教団体によりケミカルテロで国の滅亡を実践されようとした国です。
その信者が同じ国に住む自分の家族である人もいるわけです。
ちょっと遡れば二次大戦では日本国自体が神道を悪用したカルトと言えると思います。おかげで原爆落とされています。
その「信者達」をいかに考えていくか、という点ではとても役に立つと思います。
  1. 2007/05/23(水) 02:03:03 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

もういっちょ こんばんは~

>Leoさん
>予防になっているかもしれないですが、カルト団体の廃止や正常化までには至っていないと思います。
アーレフの例などみてると、だいぶ頑張っているように思うのですが。
http://mirei2007.blog88.fc2.com/blog-entry-42.html
ちなみにカルト団体をなくすための理論ではないと思います。
そして、個人的にはカルトは完全にはなくならないと思います。
そして、毎回新たな詐欺が横行するように、新たな形式をもってカルトも出没すると思います。
>ひとつのゴールは脱カルトに関連する法制化などだろうと思います。
法に関しては、難しいでしょうね。法制化するのがカルト側だったりすると怖いです。
でも平成に入って犯罪被害者に関する法整備がなされました。
宗教被害に関しても法整備や支援がちょっとずつ進むかもしれません。
>私がLibraさんにMC論の批判をお願いしたのでみれいさんに心配おかけしたのではないかと気にしていますが、MC論の批判点は将来宗教集団等(MC否定派やMC乱用派)からもツッコまれる可能性もありそうな点なので検討する意味はあると思います。
多少私も批判に関してチェックする事が出来るようになってきました。
たぶん、批判点に関しては、とっくに各教団においても各学者においてもなされていると思います(ただし各団体や各学者の背景なんかも知っておくと、批判の理由も見えてきたりすると思います)。
心を扱うものに100%の理論なんてみいだすほうが難しいと思うので、いくらでも出来るのではないでしょうか。
私がカルト信者だったら、心理学やあらゆる資料を引っ張り出してめいっぱい批判します(笑)
でもいずれにしても、検討してみるのはとてもいいことだと思います。
的確な批判を期待しています。
  1. 2007/05/23(水) 02:05:52 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

 みれいさん、こんばんは。
1.本のご紹介、ありがとうございました。ご紹介いただいた本は、いつか、機会がありましたら読んでみたいとおもいます。
2.みれいさんは「心理学の理論はすべて科学的理論とはいえない」とおっしゃりたいのでしょうか。わたしはそんなことはないとおもっています。心理学の理論の中には、理想的なサンプリングによる検証が現実に可能なものが存在するとおもいます。しかし、MC論の場合には、理想的なサンプリングによる検証というのは現実には不可能だとおもいます。
3.「社会心理学の理論が、他の心理学ではぜんぜん通用しなくなったりもする」とのことですが、「他の心理学ではぜんぜん通用しなくなったりもする」「社会心理学の理論」とは具体的にはどのような理論なのでしょうか。
4.「心理学の専門的用語にはなっていません」とのことですが、何が「心理学の専門的用語にはなって」いないのでしょうか。「マインド・コントロール」という用語でしょうか。
5.「世界では宗教の基盤も違えば捉え方も歴史も法律も文化も違う」としても、【人間の脳の仕様】は人類共通なのではないでしょうか。MC論が【人間の脳の仕様】についての理論なのだとすれば、「世界標準のMC論」というのはありえるのではないでしょうか。
6.「カルトの定義」の困難性という問題は、今議論しているMC論とは別の問題だとわたしは認識しています。
7.先に引用した櫻井先生の「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」におけるご主張のうち、「教団への入信をめぐる『マインド・コントロール論争』は殆ど不毛であり、イデオロギー対立の次元を越えない」という部分は、「MC論は厳密な意味での科学的理論とはいえない」というのと同じことだとおもいます。これは、【○○学の領域内でのみそうなる】というようなものでもないし、【××国内でのみそうなる】というものでもないとおもいます。また、前回も書きましたように、【社会心理学じしんの考え】をMC論についての具体的な調査結果に自己適用することによっても、そのような結論にならざるをえないとおもいます。
8.パスカル・ズィヴィーさんは「マインド コントロ-ルの事例の研究」の中に「洗脳の研究」を含めておられます(以下のページを参照)。
  マインド コントロ-ルの事例の研究
  http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub5-2.htm
 ということは、この方は、「マインド・コントロ-ル」には「洗脳」が含まれていると考えておられるわけでしょう。【洗脳までをも含めて「マインド・コントロ-ル」と認識】されているわけです。しかし、みれいさんのおっしゃるように「MCと洗脳は別のもの」でしょう。西田先生がおっしゃるように、「マインド・コントロ-ル」は「洗脳と異なるものとして認識すべき」でしょう。やはり、パスカル・ズィヴィーさんは、「洗脳」と「マインド・コントロ-ル」を混同されているというべきなのではないでしょうか。
9.「MCと洗脳は別のものですが、心理操作に関してMC論を組み立てるための基礎には含まれるので異なる話ではないです」とのことですが、ほんとうに両者を「異なる話ではない」といってよいのでしょうか。『マインドコントロールとは何か』(1995年)よりも少し後に書かれた西田先生の以下のご説明(2000年)を読む限りでは、両者は「まったく別の影響力」というべきであり、両者は【異なる話】というべきなのではないでしょうか。
───────────────
洗脳の特徴は、身体的拘束であるが、その意味は、本人に吹き込まれる思想に抵抗する意志と知識がある状況だということであり、破壊的カルトの問題ではそのような状況にないので、洗脳の研究成果は意味をもたない。実際には、現在の日本人の場合、入信するときには、守るべき強い信念もなかった人がふつうだし、「自由意思」のように見せているから、その影響力は、洗脳のような戦争捕虜の例ではなじまない。まったく別の影響力として再評価するべきだし、人民寺院やブランチ・ダビディアン、オウム真理教などと積極的に比較検討することが科学的な態度といえる。
(西田公昭「マインド・コントロール論再考」、
http://nursing.u-shizuoka-ken.ac.jp/~nishidak/MCrevise.htm
──────────────
 
 「西田氏のご本を読めばそこについても書いてあるのですぐわかります」とのことですが、1995年の時点では、西田先生ご自身も、「洗脳論はMC論を組み立てるための基礎に含まれる」とか、「MCと洗脳は同じ話である」といったようなことをいわれていたのでしょうか。もしいわれていたのであれば、該当個所を引用していただけないでしょうか。
  1. 2007/05/23(水) 20:00:40 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

>ちなみにカルト団体をなくすための理論ではないと思います。
>そして、個人的にはカルトは完全にはなくならないと思います。
>そして、毎回新たな詐欺が横行するように、新たな形式をもってカルトも出没すると思います。
>法に関しては、難しいでしょうね。法制化するのがカルト側だったりすると怖いです。
>でも平成に入って犯罪被害者に関する法整備がなされました。
>宗教被害に関しても法整備や支援がちょっとずつ進むかもしれません。
(前にもお話したかもしれませんが...)
『小説人間革命』で気が付いたのですが「公布の予行演習」として当時の総理大臣を戸田氏が招くという場面があります。
(結局総理は来ず秘書の方がこられました)
当時から与党との太いパイプがあったということですね。ちなみに当時は左翼運動が盛んで冷戦もありましたし、当時の総理は統一教会など他の宗教勢力も含めでもなんでも利用しようとしたのでしょう。
(秘書の方だけ訪問したのは他の宗教勢力を考慮してのことと推測はされます)
そういう借りがあるから(でまた現在は政党を持つ団体が一定の勢力ともなっていますし)宗教勢力を制限するようなことは難しいとは思います。
宗教勢力が存続したいのならば堅気になって頂く方がスマートではあるとは思いますが...
  1. 2007/05/24(木) 01:08:04 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

こんにちは

Libraさん
2.みれいさんは「心理学の理論はすべて科学的理論とはいえない」とおっしゃりたいのでしょうか。わたしはそんなことはないとおもっています。
え?私もそんなことないと思いますよ。
心理学は「行動科学」という意味でMC論もわけていないです。
ただ、アカデミックとポップの差はあるようですね。
そこは混同しないほうがいいと思います。
>3.「他の心理学ではぜんぜん通用しなくなったりもする」「社会心理学の理論」とは具体的にはどのような理論なのでしょうか。
社会心理学の中のどれか具体的な何かの話ではなくて、各心理学の分野によって、理論の建て方が変わるという話です。
ものすごい数がありますが、学部が変わると話にならない、なんてことも起こるそうです。
http://dir.yahoo.co.jp/Social_Science/Psychology/Branches/
心理学の分野は実に多岐にわたり、さすがに私はきちんと学部で習ったわけではなく、また学者ではないので、心理学会の幹や枝葉の具体的な理論の建て方まではわかりません。各学部創始者の考えによるのだろうと思います。
フロイト、ユングは基本ですが、その扱いさえも変わってきそうです。
仏教各宗派みたいに分かれていると考えればわかりやすいのではないでしょうか。
4.「マインド・コントロール」という用語でしょうか。
そうです。
5.MC論が【人間の脳の仕様】についての理論なのだとすれば、「世界標準のMC論」というのはありえるのではないでしょうか。
そうですね。
脳の仕様からみるのは心理学の視点ではなくて、物理学あるいは脳医学でしょう。
そちらの研究もこないだ実験をみせていただきましたが、さらに進めばもしかしたら可能かもしれません。
6.「カルトの定義」の困難性という問題は、今議論しているMC論とは別の問題だとわたしは認識しています。
なるほど。
7.先に引用した櫻井先生の「スペイン・国際カルト研究学会大会報告」
なるほど。そう捉えられるのですね。
8.9.
4、6、8、9、に関しては、先に抜粋を送りますね。
MC論の基本の部分なんです。
  1. 2007/05/24(木) 08:30:52 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

こんにちは~

Leoさん
>当時から与党との太いパイプがあった
そうですね。
統一教会、霊友会など、大きな団体は資金面でも選挙の票集めもとても便利でしょうね。
もっといえば、政治のほうは、いろんな団体とも関節でも少しつながることで保たれているものがあるのかもしれません。
(クーデターとか?)
とある方のご意見では右翼に対して真紀子さんの力がものすごくあったと伺っていますが、真偽のほどはわかりません。
ひょっとしたら父と子の間で何か受け継がれたものがあったかもしれないですね。
  1. 2007/05/24(木) 08:35:17 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

今晩は読書

 みなさん、こんばんは。
 みれいさんから資料を頂戴しましたので、今晩は、それを熟読する予定です。
 みれいさんの最新のコメントに対しましては、いただいた資料をよく読んだ上で、明日以降にレスしたいとおもいます。
  1. 2007/05/24(木) 18:17:51 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

>もっといえば、政治のほうは、いろんな団体とも関節でも少しつながることで保たれているものがあるのかもしれません。
>(クーデターとか?)
岸元総理や佐藤栄作氏(後日総理)も当時の左翼系が暴れているのに思いつめ一時期はギブアップしそうになったとのことです。
昔の左翼系は大学封鎖とか内ゲバとか浅間山荘事件とかあったように結構カルトチック(破壊的)であったと思います。
昔の政府がうまかったのは軍隊など強権を出動せずに機動隊だけで対処しました(鉄砲は使わずに楯と放水)。浅間山荘事件などはテレビ中継しました。内ゲバやリンチ事件もどんどん報道しました。左翼系はだんだん白けていったと思います。(強権を発動すれば政府が悪者になったでしょう)
とはいえ昔は今よりも全体が左よりでした。たとえば昔の政府は野党の意見を取り入れて戦闘機の爆撃照準装置と空中給油装置を取り外しましたが、対艦防衛的には戦闘機から爆撃照準装置を外すのは得策ではないのです。今はその当時の戦闘機もお古で(予算が厳しいので改修して)使ってますが爆撃照準装置は付けてます。(他国への侵略能力は爆撃機能があるかよりは航続距離があるかです)
>とある方のご意見では右翼に対して真紀子さんの力がものすごくあったと伺っていますが、真偽のほどはわかりません。
>ひょっとしたら父と子の間で何か受け継がれたものがあったかもしれないですね。
田中角栄氏は言論弾圧事件の時力になったそうなので受け継がれるものと受け継がれないものがあったのではないでしょうか。
田中真紀子氏が外務大臣になってから名誉会長が海外訪問しなく(できなく)なったという話もあるようです(真偽の程は不明)。(で後日田中真紀子氏は小泉元総理から解任されます...)
小泉元総理を思い出すのですが、小泉元総理は国外では北朝鮮の領袖とにこやかに会談し、国内ではK党の会合に出席し名誉会長の写真展がどうのこうのおめでとうございますというニュースを見たことがあります。で靖国参拝です。政治家は誰とでも八方美人的につきあえなければならないし、必要な勢力は(どんな勢力であれ)キープしなければならないようです。
で面白いのが中国は外国の宗教の布教を許可しないのに親中国勢力ののS学会とは付き合いがあるのです。(中国本国は無理でもマレーシアその他の華僑(マレーシアでも華僑は非イスラム)への布教はあるようですが...)
S学会は新年のSGI提言ではやはり親中国、親韓国がうたわれ北朝鮮とも対話をすすめるとのことでした。
宗教の世界だけでなく政治の世界も摩訶不思議のようですね。
  1. 2007/05/25(金) 23:48:57 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

こんにちは

Leoさん
ミラクルですね~
そういえば、日経サイエンス7月号臨時増刊が、こころのサイエンス特集で、暴力と脳に関する話など組まれていました。
とっても興味深い内容です。
また、合理的行動理論に対してファジートレース理論などという、ちょっとLibraさんにも話したら面白そうな記事もありました。うちのBBSでもあつかうかもしれません。今後、凶悪犯の脳のCTスキャンが法廷に行く日がくるのか、こないのか。
  1. 2007/05/28(月) 11:42:04 |
  2. URL |
  3. みれい #-
  4. [ 編集]

みれいさん、こんばんは。

>そういえば、日経サイエンス7月号臨時増刊が、こころのサイエンス特集で、暴力と脳に関する話など組まれていました。
>とっても興味深い内容です。
書籍類のご紹介は参考になるのでとても助かります。
いや~、それに実にタイムリーでホットなテーマです。
ミラクルの実はその実態は私自身がミラクル状態なんですが(笑)、そんなんじゃダメダメなので色々学びたいです。
>今後、凶悪犯の脳のCTスキャンが法廷に行く日がくるのか、こないのか。
直接関係ない話ですが、脱カルト前と後の脳のCTスキャン違いありそう。(少なくとも血流量は違うでしょう...)
  1. 2007/05/29(火) 23:47:25 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

MC論に対する興味はもとのレベルに

 すでに別のものに興味が移ってしまいました(汗)。MC論については、またいつか、機会がありましたら考えてみたいとおもいます。
  1. 2007/05/30(水) 19:47:59 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

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