仏教と批判的合理主義

釈尊は「まじない信仰」を否定

leaf 釈尊は「まじない信仰」を否定した

  前回の記事では、『スッタニパータ』第1146詩の「信仰を捨て去れ」というフレーズについて考察し、そのフレーズの意味するところは《既存の宗教を捨て去れ》ということであることを確認しました。
  実際、「釈尊は、当時世俗一般に流布していた呪術・呪文・迷信・密法の類いを禁止し、また批判・攻撃」したのでした(以下の資料を参照)。

釈尊は祈祷や呪術に応じて魔力をふるう神秘を退けた(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/028.html

  このように、仏教の創始者である釈尊は「まじない信仰」を否定したわけですが、これに反して、すでに部派仏教の時代に「除災のために唱える呪文」である「パリッタ」が仏教にもちこまれています(以下の資料を参照)。また、そのような呪文のたぐいを大乗経典では「陀羅尼(サンスクリット語:dhAraNI)」といっています(原語表記についてはこちらを参照)。

比丘たちは呪術禁止のいましめを守りとおせなかった(松長有慶)
http://fallibilism.web.fc2.com/038.html

  このような「パリッタ儀礼」は、現在も、上座仏教(テーラワーダ仏教)で「一般的に行なわれる」ものです(以下の資料を参照)。

パリッタ儀礼に見られる deva の考察(亀山健志)
『印仏研』54-2、2006年、http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/CiNiiLog_Navi?name=nels&lang=jp&type=abstract&id=ART0007450636

  しかしながら、仏教の創始者である釈尊が否定したこのような呪文のたぐいは、仏教徒としては素直に否定すべきだとわたしは考えます。そのような考えから、先日、そううそさんのブログ「創価学会員とのやりとり その9」という記事にコメントを書かせて頂きました。その一部を以下にはりつけておきます(ただし、一部省略しています)。


leaf 罰と福
投稿日時:2007-02-08 01:45:16
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/3c5be4c7a9bc39a937b02315139da76a

  「罰」は、初期経典の中にもいろいろな形で説かれています。たとえば、『ダンマパダ』の第72詩節では、以下のように説かれています。

○『ダンマパダ』第72詩節

七二 愚かな者に念慮が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮はかれの好運を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 20)

○中村先生の注

  頭を打ち砕く──悪いことをすると、その報いとして、その人の頭が砕けてしまうという教えが古ウパニシャッドのうちにしばしば述べられているが、それを受けているのである。

(同上、p. 86)

  また、相応部経典には、《悪いことをした人間は死後に地獄に行く》という趣旨の説法があります(相応部経典42・2、同42・6)。

 しかしながら、このような説法は、《説法を受ける側に存在する観念》を有効に利用(逆用)することにより、相手を、よりよい方向により速やかに導くという、いわばショック療法的なものだったのだろうとわたしはおもっています。

  「福」も初期経典に説かれています。たとえば、『スッタニパータ』第2章の「大いなる幸福」(第258~第269詩節)などがあります(以下の資料を参照)。

スッタニパータ(正田大観訳)
http://www.j-theravada.net/sakhi/suttanipata.html#2-4

  釈尊じしんも、自分ほど真剣に「福」を求めている人間はいないといっています(漢訳『増一阿含経』、大正蔵第2巻、p. 719b)。

わたしほど真摯に幸せを求めるものはない(くまりん)
http://ngp-mac.com/~kumarin/website/modules/wordpress/index.php?p=141

leaf 釈尊は「まじない信仰」を否定
投稿日時:2007-02-08 01:48:25
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/3c5be4c7a9bc39a937b02315139da76a

  「湖の中に投げ込まれた大きな石は、いくら合掌したり、祈ってみたりしたところで、決して浮かんできたりはしない」という趣旨の有名な説法があります(これも相応部経典42・6です)。たしか、この説法は、友岡さんの本でも紹介されていたようにおもいます。
  あと、病気についてですが、「病気は医師の治療および薬によってなおる」というのが仏教徒の考えでした(以下の資料を参照)。

  当時一般の考えとしては、病気などもすべて悪魔鬼神の仕業であるとせられたから、これを祈■〔示+壽〕やまじないによって治すことが盛んに行われた。勿論病気の中には、精神面から生ずるものもあるのであるから、原始仏教でもこれを精神的に治癒させたという例はあるけれども、多くの病気に対しては、その病状や病因に応じて、正しい科学的薬物治療を施すべきことが、律蔵の中に具体的に詳しく規定せられている[8]。釈尊自身が病気の時は、名医ジーワカに診察治療を受けられ、仏教教団の比丘達もこの名医に頼っていた。然しマガダ王家と仏教々団以外の人達は、ジーワカの治療を受けることが出来なかったので、信仰や求道の心からではなく、この名医に難病を治して貰う目的で教団に入る者が現われたと云われている[8〔ママ:9〕]。
  とにかく律蔵に規定されている病気の治療法は、当時としては最も進んだ合理的な科学的療法であったに相違ない。今日なお新興宗教などの中には、病気に対して薬物や科学的治療法を否定し禁止するものがあるのに比すれば、二千五百年前の仏教がいかに進歩的であったかが知られるであろう。

  ⑧ 例えばパーリ律蔵大品第六、薬■〔牛+建〕度の中には当時のあらゆる薬の名が掲げられており、また病気に応じて薬や治療法が述べられている。
  ⑨ 例えばパーリ律蔵■〔牛+建〕度部大品受戒篇三九参照。五種の難病を治療して貰う目的で教団に入り、病気が治れば還俗して教団を去る者があったとせられる。


(水野弘元『原始仏教〈サーラ叢書4〉』、平楽寺書店、1956年、pp. 257-258)

  ちなみに、『法華経』寿量品の良医治子の譬喩においても、子供の病気は《良薬》で治るのです。父親が魔術的に治してくれるわけではありません。そして、《良薬》で病気が治った子供には父親が見えるのです。ようするに、《法を見るものは仏を見る》ということです。

leaf 業説は仏教の基本
投稿日時:2007-02-08 01:50:16
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/3c5be4c7a9bc39a937b02315139da76a

 わたしは、生まれ変わりを説く輪廻説は否定します。

輪廻説は仏教ではない(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html

  しかし、《本来の業説》は「仏教の基本となる考え方」だとおもっています。わたしがいうところの《本来の業説》というのは、たとえば『ダンマパダ』第165詩節に説かれているような説のことです。

一六五 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

(中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p.33)

  「業」の原語は、パーリ語では「カンマ(kamma)」であり、サンスクリット語では「カルマ(karma)」ですが、それは、「行為」を意味する語です。人はみずからの行為によって、みずから汚れたり、浄まったりするということです。誰も他人に自分を浄めてもらうことなどできません。他人を浄めることなんて、釈尊にもできません(『スッタニパータ』第1064詩節を参照)。

一〇六四 「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 224)

  《釈尊の口から出る声(教法)》をよく聞いて、最上の真理を知ることにより、《みずからがんばって》、「自己の安らぎ(ニルヴァーナ)」を学び、煩悩の激流を渡ることを志すのが仏教です。

一〇六二 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世において賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたくしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、p. 223)

  仏教というのは、《釈尊におまかせで救ってもらえる》というような「他力主義」でもなく、また、《自分の力だけがたよりだ》というような「自力主義」でもありません。いってみれば「善知識主義」です(以下の資料を参照)。

「われを善き友として」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/012.html

leaf 仏教を学ぶには
投稿日時:2007-02-08 01:52:18
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/3c5be4c7a9bc39a937b02315139da76a

  そううそさんの場合には、いきなり『法華経』を学ばれるよりも、まずは初期仏教部派仏教とイコールではありませんのでご注意ください)をしっかりと学んでみられたほうがよいとおもいます。今、無理して『法華経』を学ばれた結果、『法華経』をますます嫌いになられるということを、わたしは最も恐れています。
  そういうわけなので、『法華経入門』よりも先に、以下の本を読まれることをお勧めしておきたいとおもいます(税込で1680円、国内送料無料)。先にご紹介した「相応部経典42・2、同42・6」の訳もこの本にのっています(pp. 213-215, pp. 216-219)。

増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕
http://www.bk1.co.jp/product/335540/p-movement

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  1. 2007/02/12(月) 13:59:32|
  2. 仏教 [ 一般 ]
  3. | コメント:1
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仏教の解説資料

記事と直接は関係ないですが...面白い資料を見つけました。読者の方の便宜になるかもしれないので紹介してみます。

○ 東洋の心を語る①~⑫
東方学院院長 中村元
駒沢大学教授 奈良康明
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/Page-12.htm

○ 釈尊の最後の旅
東方学院院長 中村元
評論家 森本哲郎
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-167.htm

○ 仏典のことば①~⑫
駒沢大学教授 田上太秀
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/PAGE-4.HTM
  1. 2007/09/15(土) 00:49:25 |
  2. URL |
  3. Leo@隠居 #k12f31x.
  4. [ 編集]

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