仏教と批判的合理主義

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日蓮思想の現代的意味Ⅱ

leaf 日蓮思想の現代的意味Ⅱ

  そううそさんのところでの回答が終了いたしました。あちらでの回答は、すでに、「日蓮思想の現代的意味」という記事にまとめてあります。今回は、その続編として、残りの回答を新しく記事にしておきます(ただし、一部省略しています)。


leaf 回答(2007.01.18-01)
投稿日時:2007-01-18 04:08:35
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

【「我実成仏已来無量無辺」はフィクションの中に出てくるセリフです】
  『法華経』はフィクションですから、その中に出てくるセリフというのは、フィクションの中のキャラクターが発しているセリフであって、歴史上の釈尊(以下、「釈迦」と表記します)がその通りの発言をしたということではありません。わたしは、はじめから、『法華経』はフィクションだといっています。その上で、そこに表現されている思想の中身を問題にすべきだと主張しています(以下を参照)。

『法華経』と釈尊の思想
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

  わたしは、寿量品の思想が釈迦の思想に反するとはおもいません。初期経典の記述の中から、寿量品の内容(永遠に説法し続ける釈尊)に相当するものを挙げるとするなら、以下の2つになるかとおもいます。

アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
また比丘たちよ、たとい比丘が、わたしを去ること百由旬(由旬 yojana とは距離の単位、四十里または三十里、あるいは十六里にあたるという)のかなたに住すとも、もし彼が、はげしい欲望をいだかず、欲望のために激情をいだくこともなく、瞋恚をいだくこともなく、よこしまの思惟にかられることもなく、不放逸にしてよく知解し、道心堅固にして、よく一境に心をとどむることをうるならば、則ち彼は、わたしの近くにあるのであり、またわたしは、彼の近くにいるのである。そのゆえんは何であろうか。比丘たちよ、かの比丘は法を見るものであり、法を見るものはわたしを見るからである

(増谷文雄『仏陀 その生涯と思想』〔角川選書─18〕、角川書店、1969年、http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

  たとえ釈尊の肉体が滅びても、その教えを弟子たちがしっかりと守り伝えていきさえすれば、釈尊が説いた教えはなくならないので、《法を見る者が見る釈尊》は生き続けます。これは、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのですが、そううそさんを含め、多くの人はこの説明に満足しないようです。たとえば、三枝先生の以下のようなご説明も、わたしにとってはあまりにも明らかなことなのです。

生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  しかし、このようなことは、すでにご紹介した拙文の中で説明していることですから、このような説明は、決してそううそさんに響くことはないでしょう。

法華経について
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

leaf 回答(2007.01.18-02)
投稿日時:2007-01-18 04:14:17
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

【縁起の法をさとり、それを衆生のために説き続ける存在──久遠仏】
  もし縁起の法が普遍的な真理であるとすれば、この宇宙で最初にそれを悟った知的生命体が、《地球にお生まれになったあの釈迦》であるという可能性は限りなく0に近いでしょう。そういう感覚は、おそらく釈迦にもあったんだろうとおもいます(以下の資料を参照)。

一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)

  寿量品では、諸仏を統一するために、久遠仏という概念を提示します。これは、《縁起の法をさとり、衆生のためにそれを説く存在》の全体を一つの人格として表現したものということができるとおもいます。そして、その久遠仏を釈迦の人格で代表させようとするのが寿量品です。このような内容が釈迦の思想に反するとはわたしはおもいません。宇宙生命論を肯定することになるともおもいません。


【宇宙生命と久遠仏のちがい】
  久遠仏というのは、宇宙がはじまって、いくらか時が流れてから、ある時点で成仏しています。久遠仏の成仏よりも、宇宙の誕生が先です。ですから、論理的には、かならず宇宙生命論と矛盾します(このことはすでにご説明いたしましたので、この説明も、そううそさんに響くことはないでしょう)。戸田第二代会長のような宇宙生命論者は寿量品を理解されていないとおもいます。

  日蓮は「久遠仏が五百塵点劫の当初に証得した法門は一念三千である」と理解していますから、そこには具体的な内容がきちんとあります。戸田第二代会長は「空」も「一念三千」も理解されていないとおもいます(以下の資料を参照)。また、「虚空会の儀式」の意味も理解されていないとおもいます。宇宙生命論は、思想としては無内容だとおもいます。

タツノコさんとの対話2─戸田先生の宇宙生命論について─
http://fallibilism.web.fc2.com/z016.html
  したがいまして、「久遠を肯定する事は仏法=宇宙生命論を肯定しやすい」ということは、論理的にはありえないとおもいます。

leaf 回答(2007.01.18-03)
投稿日時:2007-01-18 04:18:10
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

【日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました】
  日蓮は釈迦が無常無我を重視したことを理解していました。これは以下の発言から明らかです。

人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり、例せば仏より前の一切の人天外道は二天三仙の弟子なり、九十五種まで流派したりしかども三仙の見を出でず、教主釈尊もかれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが苦行楽行十二年の時苦空無常無我の理をさとり出してこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて無師智とはなのらせ給いしか、又人天も大師とは仰ぎまいらせしか

(「開目抄」、全集、p. 208)

【釈迦と天台の修行方法】
  釈迦は縁起の法を理解して、その思想に苦を滅する力があると信じたのでしょう。それで、人々にもすすめたのでしょう。釈迦が縁起の法を理解する以前に行っていた修行は、「集中して心を落ち着けて考える」というものだったのでしょうが、縁起の法を理解した後は、それが意味するところをもっと深く考えること、および、考えたことを人に話すことだったとおもいます。

  すでにご説明しましたように(これも伝わっていないようです)、天台の修行方法は「止観」であり、「一念三千」です。


6.現実の仏教史と五時八教
  「現実の仏教史を発展史として捉えるのは、五時八教が崩れていますから無理」というのは、わたしには意味がわかりません。釈尊の縁起の思想は、『法華経』に空思想として継承されています。『法華経』の内容が初期経典に劣っているということはないでしょう。
 
  釈尊の縁起の思想を龍樹は空思想として発展させました。それをチギは一念三千という具体論に発展させました。五時八教が崩れようが崩れまいが、このように現実の仏教史を発展史として捉えることは可能だろうとおもいます。

leaf 回答(2007.01.18-04)
投稿日時:2007-01-18 04:22:50
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

【釈迦も日蓮も神ではない】
  釈迦も人間ですから色々間違えているでしょう。日蓮も同様です。


【「唱題によって勉強もしていないのに智慧を授かる」???】
  わたしはそのようなことは言っていませんが(以下の資料を参照)、これも伝わっていないようです。

題目は呪文ではない
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

  日蓮はたしかに「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし〔中略〕愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず」といっています。日蓮の時代に、ふつうの庶民全員に仏教学を勉強しなさいなどというのは現実的ではなかったでしょう。それでも、日蓮は、「其の志あらん人は必ず習学して之〔一念三千〕を観ずべし」といっています。

常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

(「唱法華題目抄」、全集、p. 12)

  そもそも、唱題だけで智慧を授かれるというのであれば、『法華経』を毎日読んだり(勤行)、十如是の文を三転読誦したりする必要なんてないとおもいます。日蓮は「勤行なんてしなくてもいい」などといっているでしょうか。

さんてんどくじゅ【三転読誦】 法華経方便品第二の「所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」([法]一五四㌻)の十如是の文を、三種の読み方の意義を踏まえて三遍読むこと。法華玄義巻二上([大正]三十三巻六九三㌻)には空転(是相如、是性如などと読むのは空の義)、仮転(如是相、如是性などと読むのは仮の義)、中転(相如是、性如是などと読むのは中の義)を表すとある。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 603)

leaf 回答(2007.01.18-05)
投稿日時:2007-01-18 04:54:53
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

【曼荼羅本尊は虚空会の儀式】
  日蓮の曼荼羅が『法華経』(フィクション)に描かれている「虚空会の儀式」を表現したものであるということは、「信仰」ではなく「事実」です。これは、すでにお示しした日蓮の遺文からそういえるとおもいます(日蓮じしんは、「虚空会の儀式」をフィクションとはおもっていなかったでしょう)。

  一方、そこに描かれている「虚空会の儀式」(フィクション)にわたしが感動を覚えるのは、たしかにわたしの信仰です。わたしは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むと涙がでます。しかし、全く同じものを読んでも何も感じない人がいます。中村元先生は『般若心経』を毎日読誦されていたそうですが、わたしは『般若心経』に感動したことはありません(「四弘誓願」には感動しますが)。それと同じことでしょう。

東洋思想研究の世界的権威として知られた中村元博士は、仏陀の教えに深く帰依し、私生活において毎朝欠かさず「三帰依文」「般若心経」「四弘誓願」、浄土真宗で唱える「生活信条」を読誦し続けていたことが死後に明らかにされた。これが中村博士の「日課経」として印刷され、会葬者に配られた。遺言にしたがい、遺影を前にして参列者全員が声をそろえてこの「日課経」を唱えたとき、会葬者は中村博士の温もりのある息づかいに触れる思いを味わった。

(2001年3月15日付『中外日報』の社説)

【「密教的な本尊や唱題」???】
  「本尊」という用語を用いているだけで密教になるということはないでしょう。

礼拝の対象として尊崇する仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと、密教の経典である大日経や瑜■〔示+氏〕経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた。

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 751)

  そううそさんに伝わらなかったことは申し訳なく思いますが、日蓮の本尊の内容についてはすでにご説明いたしました。本尊は三大秘法の一つですが、内容的には全く密教ではありません。

 題目の意味は『法華経』を読みさえすれば理解できます。それは、すなわち「縁起=空」です。そのもっとも発展した形態(一念三千)において日蓮は題目の意味を理解しているだけのことですから、間違いではありません。題目は無内容ではありません。

  三転読誦により円融三諦(=縁起)を毎朝毎晩確認し、題目を唱えてくりかえし『法華経』の肝心(=一念三千=縁起)を復習するということが、なぜ「密教的」だということになるのでしょうか。そのようなことはわたしにはさっぱり理解ができません。想像するに、わたしは、密教の説明すらろくにできなかったということになるのでしょう。なんとも、なさけないかぎりです。

  以上で回答は終了です。

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  1. 2007/01/24(水) 16:42:12|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
  3. | コメント:4
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コメント

大乗仏教は(も)それなり現代的意味があるようですね...

Libraさん、こんばんは。
今回も記事を興味深く読ませていただきました。
羅什が法華経を訳した時期は丁度仏教が唯識や
密教が流行る前の中観の傾向の強いもので
(五時八教とは違った意味で、実際の歴史的に)
仏教の中心思想がよく伝わっている傾向
があったと思います。
唯識はアビダルマの大乗的展開でありますし...
密教は何をいわんや...
Libraさんが竹を割ったように明快に解説されて
こられたので私も少し掴めてこれましたが自分
だけではなかなかわからなかったと思います。
  1. 2007/01/31(水) 01:02:32 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

大乗仏教こそが普遍的であり現代的意味がある

 Leo さん、こんばんは。
 批判的合理主義関連の記事を構想していましたが、どんどん後回しになっていますね(汗)。
 大乗仏教(「大乗仏教」と呼ばれているものの中には仏教〔縁起説〕に反するものがありますが、そのようなものはここでは除きます。そんなのは、そもそも仏教ではありませんから)と部派仏教なら、大乗仏教の方が普遍的であり現代的意味があるとわたしはおもいます。中村元先生のお考えにはついていけないところも多いですが、以下のお考えには賛成です(現代版の大小相対?)。
───────────────
伝統的・保守的仏教、いわゆる小乗仏教ではですね、修行僧もいたし、在家の信者もいたわけですが、ただ、達しうる境地が違うとされていたわけなんです。
 片一方はとにかく修行すればやがて涅槃に入る、ニルヴァーナに入れる。ところが在家の者は、せいぜい天の世界に生まれることができると。要するに落差があったわけですね。格付けが違っていたわけです。
(中村元「〈インタビュー〉仏教思想の普遍性」、『東洋学術研究』第28巻第1号、1989年、pp. 12-13、http://www.totetu.org/h/pdf/t117_004.pdf
───────────────
 ちなみに、中村先生は『法華経』を「お経の中の王者」といわれてます(現代版の権実相対?)。それなら日課経にされればよかったのに。
───────────────
 これはもう、経王ですね。お経の中の王者といってよい。これはもう大変なものです。ですから非常に捉えにくいですね。けれど、まさにそこに盛られている教えというものを我々が生かそうと思えばいいんじゃないですかね。
 しかし、なかなか西洋の小説を読むようなわけにはいかないのですよ。中に書いてある法理、教えが途方もなく巨大なものですからね。
(同上、p. 15)
───────────────
 もちろん、部派仏教と初期仏教はできる限り分けて考えるべきですし、わたしも、初期仏教まで否定すべきだとはおもっていません。ただ、初期仏教そのままの姿というのは抽出が困難ですからやっかいです。
────────────────────
 釈尊がみずから説いた仏教、もしくは少なくとも釈尊をとりまく仏弟子と、さらにそのあとを二代・三代云々と数えて、およそアショーカ王のころまでの仏教を、総じて初期仏教と呼ぶ〔中略〕場合に、そこにおこなわれていたそのままの姿すなわち原型を忠実に伝える資料は現存していない、と断言してさしつかえない。それは失われたのではなくて、伝承の過程に多くの手が加えられて変えられてあり、それらが上述の初期経典を成している。良心的な仏教研究者は、この変形された資料からそれらの古型を求めて精励するけれども、しかしその古型が原型どおりでは決してないということも、深く自覚している。
(三枝充悳「経の定義・成立・教理」、『東洋学術研究』第22巻第1号、1983年、p. 8、http://www.totetu.org/h/pdf/t104_001.pdf
────────────────────
 あと、全然関係ありませんが、2002年以降の駒澤大学の研究論文がPDF形式で公開されているのでお知らせします(もしかしたらもうご存知かもしれませんが)。
  駒澤大学 紀要検索画面
  http://www.komazawa-u.ac.jp/~toshokan/el/ronbun1.html
  
 お勧めは以下の3つです(1.には、わたしの名前がちょこっとだけ出ています)。
1.袴谷憲昭「松本史朗博士の批判二篇への返答」
2.花野充道「(公開講演)本覚思想と本迹思想 -本覚思想批判に応えて-」
3.松本史朗「如来蔵思想と本覚思想」
 どうやら、松本先生の学説を「批判仏教」と呼んではいけないみたいです(汗)。勝呂先生の論文(1966年)を読んでからは、松本先生の基体説にほとんど独創性を感じなくなったので、いっそのこと、勝呂先生の学説として「基底説」という語を勝手にわたしが作って広めてみようかと思ったり(広まらないけど)。もともと、松本先生のご意見には賛成できないところが多いし、賛成できる部分は「基底説」だけなのかもしれないのでそのほうがいいような気がしてます。
 袴谷先生の外在主義には共感できるけど、浄土教はやはり行き過ぎだろうとおもう。はやく『法華経』に帰ってきて欲しい。
 花野先生には理即成仏と名字即成仏の差異をもっと強調してほしい。成仏の階位のひき下げを肯定する方向性はよいとおもう。しかし、それなら、日本天台よりも、むしろ慧思の「頓覚」に遡ったほうがよいのではないのか(菅野博史先生の路線?)。慧思の『法華経安楽行義』は日蓮の『注法華経』にもちゃんと引用されてるから、日蓮宗の学者さんからも文句が出にくいと予想。
(ア)慧思『法華経安楽行義』
────────────────────
法華経者大乗頓覚。無師自悟疾成仏道。一切世間難信法門。凡是一切新学菩薩。欲求大乗超過一切諸菩薩疾成仏道。須持戒忍辱精進勤修禅定。専心勤学法華三昧。観一切衆生皆如仏想。合掌礼拝如敬世尊。亦観一切衆生皆如大菩薩善知識想。
(慧思『法華経安楽行義』、大正蔵第46巻、p. 697c)
────────────────────
(あ)菅野先生の現代語訳
────────────────────
『法華経』とは、大乗のなかのたちどころに悟る法門であり、師がなく自然に悟る法門であり、速やかに仏の悟りを完成する法門であり、すべての世間(の人々)の信ずることの難しい法門である。およそすべての新しく学びはじめた菩薩が大乗を求め、(他の)すべての菩薩よりも速やかに仏道を完成しようとするならば、戒を保持し、忍耐し、精進し、熱心に禅定を修め、心を集中して熱心に法華三昧を学び、すべての衆生を観察してみな仏のようであると思い、世尊を尊敬するように合掌し、礼拝し、またすべての衆生を観察してみな偉大な菩薩・善知識のようであると思う必要がある。
(菅野博史「慧思『法華経安楽行義』の研究(1)」、『東洋学術研究』第43巻第2号、2004年、p. 177、http://www.totetu.org/h/pdf/t153_176.pdf
────────────────────
(イ)慧思『法華経安楽行義』
────────────────────
覚諸法如故名為如来。非独金色身如来也。得如実智故称如来。
(慧思『法華経安楽行義』、大正蔵第46巻、p. 699b)
────────────────────
(い)菅野先生の現代語訳
────────────────────
諸法の真如を悟るので、如来と名づける。金色の身だけが如来であるわけではないのである。真実の智を得るので、如来と呼ぶ。
(菅野博史「慧思『法華経安楽行義』の研究(1)」、『東洋学術研究』第43巻第2号、2004年、p. 188)
────────────────────
  1. 2007/01/31(水) 19:54:49 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさん、こんばんは。

>批判的合理主義関連の記事を構想していましたが、どんどん後回しになっていますね(汗)。
いえ、以前はどちらかというと批判的合理主義関連の記事を期待していましたが、今回の記事や最近の「信仰を捨て去れ」の記事もよいですね。
(法華経、初期仏教、批判的合理主義はどの関係の記事も興味深いです)
現代版の大小相対、権実相対の指摘も面白いです。
>あと、全然関係ありませんが、2002年以降の駒澤大学の研究論文がPDF形式で公開されているのでお知らせします(もしかしたらもうご存知かもしれませんが)。
これも参考になります。
(私は以前ほど仏教関係を検索してないのでリンクの紹介はとても助かります)
>賛成できる部分は「基底説」だけなのかもしれないのでそのほうがいいような気がしてます。
おー、そのようなのですね。
>花野先生には理即成仏と名字即成仏の差異をもっと強調してほしい。成仏の階位のひき下げを肯定する方向性はよいとおもう。しかし、それなら、日本天台よりも、むしろ慧思の「頓覚」に遡ったほうがよいのではないのか(菅野博史先生の路線?)。
これは私の知らなかったポイントです。チェックしてみます。
  1. 2007/02/11(日) 23:25:58 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Leo さん、こんばんは。

 コメントありがとうございます。夢中になってブログをいろいろといじっていたら、返事が遅くなってしまいました(汗)。
 新しい記事も書きましたので、ぜひそちらもご覧下さい(そううそさんのところに書いたコメントのコピペにすぎませんが)。
 仏教学関連の資料は、PDF形式でどんどんウェブ上に公開されています。今後、この流れは、ますます加速していくとおもわれます。個人的には、『印仏研』の公開が一番ありがたいです。
  印度学仏教学研究
  http://www.inbuds.net/jpn/media/0-00001/index.html
 あとは、『南伝大蔵経』(パーリ三蔵の和訳)をウェブ上で読める環境がはやく実現してほしいですね(英訳のサイトはすでにありますが)。どこかのお金もちの教団が全部の権利を買い取って、ウェブ上に公開したらいいのにとおもいます。そういう偉大な教団は、後世まで語り継がれることでしょう。
  1. 2007/02/12(月) 17:37:02 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

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