仏教と批判的合理主義

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日蓮思想の現代的意味

leaf 日蓮思想の現代的意味

  そろそろ新しい記事を書かないとまずいなと思っているのですが、そううそさんのところでの回答がまだ終了していませんので、もうしばらくは無理のようです。そこで、そううそさんのご質問に対してあちらに書かせて頂いたわたしの回答を、苦し紛れに、このブログにもはりつけておくことにいたします(ただし、一部省略しています)。日蓮思想の現代的意味について興味をお持ちの方には、もしかしたら、少しは参考になるかもしれません。

  以下にはりつけるわたしの説明がうまくいっているかどうかは別としまして、日蓮思想の現代的意味についてきちんと説明された方というのは、今までほとんどおられなかったとおもいます。日蓮の思想の骨格を正確に理解したり、また、その現代的な意味を考えたりすることは、わたしには、文献学などよりもよっぽど重要なことのように思えます(もちろん、「文献学は不要である」という意味ではありません)。しかし、残念ながら、そういう発想で研究をされている先生は、あまり多くはないように思います(少なくとも、松戸行雄先生、花野充道先生、伊藤瑞叡先生のお三方はそういう発想をお持ちの先生方だと認識しています)。


leaf 「創価教学」と『法華経』
投稿日時:2006-12-10 16:50:17
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85

3.「創価教学」と『法華経』
  如来の唯一の仕事は《如来の知見を衆生たちに得させること》であって、《超人的な力で衆生の欲望を満たすこと》なんかではそもそもないんです。
一大事因縁(『法華経』)
http://fallibilism.web.fc2.com/130.html

  「如来の知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

『法華経』における縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

  「一念三千説」も「縁起=空=無我」の思想の解説です(中身にちがいはありません)。

一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

  縁起の思想に苦しみを滅ぼす力なんて本当にあるのかどうか。それは人によって評価がわかれるでしょう。しかし、それを信じるのが仏教です。もっと別の救いがほしいという人は別の宗教をさがすしかありません。

  ちなみに、「ジャイナ教の聖典では仏弟子サーリプッタの言が伝えられているが、かれは知慧を重視し、知慧のはたらきによって苦しみを滅ぼすことができると説いていた」そうです。

『スッタニパータ』vs.『ダンマパダ』(袴谷憲昭)
http://fallibilism.web.fc2.com/008.html

  創価学会でいうと、たとえば、友岡雅弥さんなんかは、縁起の思想に「呪縛から人々を解放する力」があると信じておられます。

呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/042.html
ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/080.html
『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

  ところが、婦人部のおばちゃんたちの一部は、縁起の思想などはどうでもいいようです。「創価教学」にも2つあるということですね。以下に出てくる、婦人部のおばちゃんたちと友岡さんの考えのちがいを比べてみてください。

友岡雅弥さんのセミナーです。1
http://plaza.rakuten.co.jp/karagura56/diary/200604070000/

  「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてあるわけですが、それは法華経のメインテーマではないとおもいます。「陀羅尼品」は別にあってもなくてもいい章だとおもいます。

  「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」なんて、ありえないでしょう。法華経の内容も無視して、意味も無視して、それをただくりかえし唱える(発音する)だけで何かが起こるなんてこと、ありえません。冷静に考えたらわかります。

題目は呪文ではない
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

  お題目を唱えることによって苦しみが滅びるということがもしあるとすれば、それは、お題目に凝縮されている縁起の思想の力のなせるわざでしょう。

leaf 回答(その1)
投稿日時:2006-12-14 02:14:41
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.チギと日蓮はともに中観派
  龍樹の説を支持し、『中論』をよりどころとする学派を「中観派」といいます。

  チギ(天台大師)は「龍樹師に稽首〔帰命〕したてまつる」といっていますから、当然、龍樹の説を支持しています(以下を参照)。

http://fallibilism.web.fc2.com/122.html#2

  チギは、他の宗派を批判するときに、「龍樹に違う」という言いかたをしています。ということは、自分は「龍樹に違」わないという認識なのでしょう。実際、内容の面でも、チギは「縁生はすなわち主なし」というように、龍樹と同じことをいっています。「主なし」というのは「自性を有していない」ということです(以下を参照)。

一念三千説は一切法のあり方を無自性と説く(新田雅章)
http://fallibilism.web.fc2.com/122.html

  いちおう、「自性」の説明もあげておきます(いちばん上が最も簡単な説明で、一番下は専門的な説明)。

「自性」「性」「本性」(『岩波仏教辞典』)
http://fallibilism.web.fc2.com/088.html
「自性」の否定─『根本中論偈』の「自性の考察」(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/086.html
『中論』における「自性」の二つの語義(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/087.html

  チギは、『中論』をよりどころとして、円融三諦説を説いています(以下を参照)。

http://fallibilism.web.fc2.com/123.html#2

  以上から、チギは中観派といってよいとおもいます。

  日蓮はチギの説を支持していますから中観派でしょう。

2.煩悩即菩提と初期仏教の思想的距離
  煩悩即菩提というのは、《煩悩を乗り越えていく絶えざるそのプロセスがまさに菩提である》ということでしょう。煩悩を離れて菩提というものが別にあるわけではないと。

  さて初期仏教ではどうでしょうか。三枝先生はシャカの「ニルヴァーナのプロセス」を「たえざる否定と二重否定とのうちに、どこまでも上昇し、あるいは深化する」「立体的な螺旋」と説明されています(以下を参照)。

生き続ける「形のない釈尊」(三枝充悳)
http://fallibilism.web.fc2.com/020.html

  友岡さんの「常に自らを相対化し、自らの立場を突破しつづける」というのも同じことではないでしょうか。

『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

  こう考えると、煩悩即菩提と初期仏教は思想的には遠くないとおもいます。遠いですか?

3.成仏かまじないか
  同じことをもう一度書きます。『法華経』においては、「如来の唯一の仕事」は《如来の知見を衆生たちに得させること》です(寿量品の最後の言葉も思い出してみて下さい)。《超人的な力で衆生の欲望を満たすこと》は如来の仕事ではありません。で、「如来の知見」の中身は「縁起=空=無我」です。

一大事因縁(『法華経』)
http://fallibilism.web.fc2.com/130.html
『法華経』における縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

  「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてありますが、それは法華経のメインテーマではないでしょう。それと、「陀羅尼品」というのは、「法華経を受持する人は菩薩とかが守ってくれますよ」というお話なので、宇宙生命との交流がどうとかいうお話とは全く関係がありません。

  日蓮の場合には、「じぶんは法華経をこれだけ受持してるのに、なんで守られないのか」と悩みに悩んだ末、「天もすて給え諸難にもあえ」と言い放っております。守ってもらいたいがために法華経を受持してるわけじゃないんですね。

詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

(「開目抄下」、全集、p. 232)

 「日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり」(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)という発言もあります。

leaf 回答(その2)
投稿日時:2006-12-14 02:15:55
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

4.一念三千と空は同じ
  一念三千というのは、一念を例にとって、空(無自性)を説明したものでしょう。ちなみに、『摩訶止觀』の別のところには、「一念即空即仮即中」(『摩訶止觀』巻第一下、大正蔵第46巻、p. 8c)とあります。

  この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)

  一念には固有の本性のようなものはありません(無自性)。縁によって変化します。縁によっては仏にもなれます。ようするにそういうことです。わたしたちにも仏になるチャンスがありますよというのが一念三千説の希望的な側面です。

  「わたしたちにも仏になるチャンスがありますよ」というだけでは「理の一念三千」だと日蓮はいいます。どうしたら現実に仏になれるのかというところまで明かさないと「事の一念三千」ではないということでしょう。法華経に南無することによって仏になれるんだから、「南無妙法蓮華経」が「事の一念三千」なんだというのが日蓮の考えだとおもいます。

  ちなみに、日蓮は、龍樹も一念三千の法門を知っていたといっています。

一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり

(「開目抄上」、全集、p. 189)
leaf 回答(その3)
投稿日時:2006-12-14 02:17:05
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

5.仏教と宇宙生命論は矛盾する
  仏教と宇宙生命論は矛盾するというのがわたしの考えです。「万人に共通する生命の基盤」とか、そういうことを言わないのが仏教の特徴だとおもいます。たとえば、以下を参照。
原始仏教における生命観(高橋審也)
http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

6.日蓮と大日如来
  「大日天王」と「大日如来」は分けてかんがえたほうがよいでしょう。で、結局のところ、日蓮は、大日如来を重視していません。

  大日如来にもいろんなのがいるけど、その親分は法華経の多宝如来だと日蓮はいっています。で、その親分の多宝如来でさえも、寿量品の教主釈尊の子分にすぎないといっています。

大日如来〔中略〕は我等が本師教主釈尊の所従等なり。〔中略〕大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、寿量品の教主釈尊の所従也。

(「法華取要抄」、全集、p. 333)
月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)

  寿量品の教主釈尊は、菩薩の修行をしてある時点で仏になっています。これは経文からはっきりしています。だから教主釈尊は宇宙生命とかではありません。宇宙生命が菩薩の修行をして、ある時点で仏になったりとか、そんなのありえないでしょう。

釈尊が菩薩の修行をして成仏したと説かれているように、『法華経』成立の歴史的段階では、後に形成された法身仏のように理法そのものを仏と見立てた仏の観念(この法身仏は無始無終、すなわち、過去も未来も永遠とされる)はまだ成立しておらず、そのような意味では、仏は必ず菩薩の修行をして、ある特定の時間点において成仏した存在と考えるべきであるから、釈尊の寿命も無限ではなく、単に長大な時を表現しただけなのかもしれない。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 224)

  そういうわけで、此土に有縁深厚である仏がおられるのは「五百塵点の当初より以来」だというのが日蓮の認識です。

寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり

(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1022)

  「本有無作」という用語にひっかかる人は、以下のところでした説明を参考にしてみてください(「2006年08月05日(土) 07:55」で検索をかければ見つかります)。

これから元気でBLOGの記録
http://fallibilism.web.fc2.com/nblog.html

  ちなみに、『法華経の智慧』には、以下のような記述があります。

名誉会長: さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているのです。ここでは、このことを少し考えてみよう。

(池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p. 50)
斉藤: 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇める真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どのような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五㌻、趣意)と破折されています。

(同上、pp. 68-69)
leaf こちらも次回のコメントは遅れるとおもいます
投稿日時:2006-12-17 11:38:04
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

  日蓮の真蹟曼荼羅のうち、「大日如来」と書かれているものは2幅くらいしかなかったとおもいます。つまり、「大日如来」という文字がない曼荼羅のほうが圧倒的に多いということになります。

  日蓮は、法華経の多宝如来を「両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏」といっており、そこでは、多宝仏のことを「此の大日如来は…」といっています。曼荼羅でも、大日如来の親分として多宝如来を書いているのだとおもいます。
月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)

leaf 回答(2007.01.06-02)
投稿日時:2007-01-06 09:58:14
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.同じ事を異なる言葉で表現するということはありえる
  ある一つの事を言葉で表現しようとする場合であっても、それをなしうる言葉が常に一通りしかないということはないとおもいます。たとえば、「x-1=0」と「x=1」は表現は異なっていますが、別のことを表現しているわけではないとおもいます。ですから、「言葉が違う」からといって、その言葉が表現しようとしている事態(内容)に「違いがある」ということには必ずしもならないでしょう。

2.空と一念三千の関係
  一般論と具体論の関係です。「一切は空である」というのが一般論としての「空」。「一切」といっても漠然としているので「修行者の一瞬の心」に的をしぼって観るのが一念三千。

  この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)
一念三千説とは、我々の一瞬の心に三千世間〔中略〕として示される、生命体の取りうるあらゆる可能性、たとえば地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏となる可能性を備えるという思想である。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 106)

3.文底について
  「文の底にしづめたり」というのは、要するに、ドラマ的な表現の底に流れているテーマとして読み取れるということでしょう。作者のねらいといってもよいでしょう。

  たとえば、「諸教の統一・諸仏の統一」も『法華経』の「文の底にしづめ」られているとおもいます(以下の資料を参照)。

『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
http://fallibilism.web.fc2.com/131.html

leaf 回答(2007.01.06-03)
投稿日時:2007-01-06 16:28:15
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

  「密教論」については、今回、先回りしてコメントしておきたいとおもいますが、その前に、「空=縁起」について補足しておきましょう。

Ⅰ.空(=無自性)と縁起は同じ
 「空(=無自性)と縁起は同じである」ということは、先に示した「自性」についての3つの資料を読みさえすればお分かりになると思います。これらの資料が分かりにくいのであれば、以下の、佐倉さんの説明を読まれることをお勧めします(二章の前半部分だけでもよいでしょう)。

空の思想(一章 自性論)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
空の思想(二章 縁起論)
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

Ⅱ.「密教論」について(先回りコメント)
  「もし一切が空であり、本性をもたず縁起しているならば、何ものか一者から一切が生ずるということ」などはありえません。しかし、密教では「一切万物の展開する根源である」ところの「絶対者」を妄想します(そして、それと自己との合一を妄想します)。この時点ですでに仏教(縁起説)ではなくなっています。「空を言説の及びえない、神秘的なもの、特殊な行法によって直接体験されるのみの深遠なる真理、と見なすことはむしろ我々には易しい」のですね。「その時、もはや言葉は及ばないのであるから「空」が何を意味していたのかは捨象されてしまう。それは空と呼ばれなくともよい。或いはそれが一切法の根源ともなれば、「空」と呼ぶことはむしろ躊躇され」ましょう(以下の資料を参照)。ようするに、無内容をありがたがるような、そんな宗教になってしまうわけです。

タントラ仏教はブラフマニズム的宗教(吉水千鶴子)
http://fallibilism.web.fc2.com/022.html

  「龍樹の空性というのはそのようなことではないのです。私たちの存在、生滅変化している存在は、なにひとつ自性をもって生じたり、滅したりしているものではないということが空性ということであって、生じもしない滅しもしないような、なにかわけのわからない真実在があり、その基盤のうえに生滅変化する私たちの存在があるというようなことではないのです。」(以下の資料を参照)。

「不生不滅の法性」─「空」についての大きな誤解(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/052.html

  無内容な「根源」を妄想し、それと自己との合一を妄想してしまうというのは宗教の典型的なパターンの一つともいえます。日本の新宗教もすべてこのパターンです(以下の資料を参照)。

新宗教における生命主義的救済観(対馬路人他)
http://fallibilism.web.fc2.com/041.html

  しかし、「根源的生命」などは妄想であり、作り話でしょう(以下の資料を参照)。少なくとも、仏教(縁起説)とは両立しません。矛盾します。

密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

  だから、仏教(縁起説)は、「根源的生命」などを説かなかったのです(以下の資料を参照)。

原始仏教における生命観(高橋審也)
http://fallibilism.web.fc2.com/059.html

leaf 回答(2007.01.06-04)
投稿日時:2007-01-06 18:27:41
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.縁起を空と言い換える必要性
  龍樹が縁起を空(無自性)と言い換えて、それを強調したのは、当時の一般的な仏教理解の誤りを的確に指摘して、批判するためだったとおもいます。

アビダルマ論師たちによれば、存在を構成している諸々のダルマには必ず自性があり、〔中略〕自性は、原因もなく無条件的にダルマに存在し、未来・現在・過去を通して存在する恒常的かつ不変的な何かです。ここには、まさに、ナーガールジュナが批判する自性の恒常性、不変性、不滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められます。

(佐倉 哲「空の思想 --- ナーガールジュナの思想 --- 第一章 自性論」、http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html
「自性・無自性について」「2005年12月25日 01:32」
http://fallibilism.web.fc2.com/bloglog3_001.html

2.円融三諦(縁起=空)を一念三千として展開する意義
  天台大師チギが円融三諦を一念三千として展開したのは、その方が具体的なイメージをつかみやすいので修行方法として有効だと考えたからです。自分の一瞬の心を例にとって観るわけですから、これ以上の具体論はないでしょう。
  一念三千説の付随的な効果としましては、より「深い宗教的な反省につなが」りやすいということがあるとおもいます。

  十界のなかで人界は中間的な存在です。地獄界と仏界の中間にあるからです。その人界のなかに、他の九界が存在しているということは、他の九界の存在を架空の神話的な存在と見るのではなく、自己自身の心のあり方として見るということです。
  心はめまぐるしく変転しますが、自分の心のあり様はいったい十界のどの界に位置するのかを考えることは、深い宗教的な反省につながり、さらに最も尊い仏界を自己の心に実現する道に直結しているのではないでしょうか。


(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 221)

3.チギにとっての「諸法の真実の様相(実相)」とは
  「諸法実相を把握することこそが成仏することである」というのがチギの考えです。諸法実相を把握するための実践修行が「止観」であり、その「正行」を解説する中で一念三千説は説かれています。

諸法をどのように見るかということによって、衆生の十法界のあり方が規定されるという考え方は、実は後に述べるように、諸法の真実ありのままの様相、すなわち諸法実相を観察、把握することが仏道の究極の目的であるとする『法華経』の思想に強く動機づけられた智■〔豈+頁〕の思想の大きな特色である。智■〔豈+頁〕はこの諸法実相を究め尽くすことがとりもなおさず成仏することであると考え、本来言語表現を越える諸法実相をさまざまな仕方で表現しようと努力している。上に述べた中道もその一つであり、また、空、仮、中道の三者が一体となって円融しているとする三諦円融もそのような表現の一つである。そして、これから考察する一念三千説もこの諸法実相の内実を表現したものなのである。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 38)

  チギにとって、諸法実相とは円融三諦です。この円融三諦は、内容的には縁起と等しいのです。このことは、以下の記事の中ですでに述べたとおりです。

『法華経』と釈尊の思想
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

leaf 回答(2007.01.06-05)
投稿日時:2007-01-06 18:29:17
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.『法華経』は単純に楽しめばよいと思います
  『法華経』は演劇だと思って、まずは単純に楽しまれたらよいと思います。たとえば、『マトリックス』とかのSF映画をみるみたいに。すると、出てくる仏教用語とかにも自然と興味が出てきます。勉強は後からついてくるでしょう(私の体験談)。
  しかし、そもそも、みたくない映画を無理にみることはありません。ドキュメンタリー映画(初期経典)が好きな人はそっちをみればよいとおもいます。また、いったん『法華経』をみはじめたとしても、おもしろくなければ途中で退席すればよいとおもいます。実際、『法華経』では、本題に入る前に、いきなり五千人が退席します。その退席を釈尊は無言で許した後、彼らが去ったことは良かったことであると言います。

2.わたしはできるだけ断言し批判していきたい
  そううそさんにとっては、「断言しない」ということは褒め言葉のようですね。しかし、わたしにとってはそうではありません。ここでいう「断言する」とは、すなわち、自らの主張を「主張命題として明確に表明」するということです(以下の資料を参照)。

真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://fallibilism.web.fc2.com/011.html

  もちろん、自らの主張が誤りであると分かれば、それを気づかせて下さった方に感謝しつつ、主張を改めます。その時、わたしは、真理に一歩近づいたことになります。

  また、「批判しない」ということも、わたしにとっては褒め言葉ではありません(もちろん、「批判」と「誹謗」は全く異なります)。

日蓮と批判精神2
http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/e/01199c7a03c95081f92aaf8198f36e25
  どんな理論であれ、その理論がたしかに真であるということを確実に根拠づける(正当化する)ことなどは不可能だとわたしはおもいます。しかし、それでも、知識の探求には意義があるとおもいます。わたしたちは、だれひとりとして真理を所有することなどできませんが、自分たちが誤っている可能性が常にあるということを深く自覚しつつ、みんなで協力して、おたがいに理論を厳しく批判しあっていくことによって、無限に真理へ接近していくことができると信じるからです。

(「真理について」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html

  スマナサーラ長老がおっしゃるように、「仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長する」ことができるのではないでしょうか。

世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。
その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。
「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。
キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。
しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。


http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html

leaf 回答(2007.01.06-06)
投稿日時:2007-01-06 19:51:06
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.龍樹の空の思想はチギの一念三千を含意する
  龍樹の空の思想は、理論としては、チギの一念三千を含意します。すでに説明しましたように、空と一念三千は、一般論と具体論の関係にあるからです。

  たとえば、「人間は必ず死ぬ」(一般論)は「ソクラテスは必ず死ぬ」(具体論)を含意します。「人間は必ず死ぬ」ということを知っている人は、「ソクラテスは必ず死ぬ」ということを知っていることになります。

  そういう意味では、龍樹は一念三千を知っていたといえるでしょう。龍樹は一念も空であることを知っていたわけですから。

2.日蓮の一念三千説に対する評価
  具体論として、一念を観察の対象とする修行方法をあみ出したのはたしかにチギの功績です。日蓮はこの功績を高く評価しており、龍樹とチギは「内証は同じ」だけど、説明はチギの方が優れていると理解しています。

内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)

  学問は進化していくものですから、そういう意味では、日蓮の理解は一般論としては妥当だといえるでしょう。しかし、日蓮には行き過ぎた表現がみられます。たとえば、日蓮は、『中論』の三諦偈は「法華開会の三諦」を説いていないと言っています。

竜樹菩薩の流天竺に七十家あり七十人ともに大論師なり、彼の七十家の人人は皆中論を本とす中論四巻二十七品の肝心は因縁所生法の四句の偈なり、此の四句の偈は華厳般若等の四教三諦の法門なりいまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず。
 疑つて云く汝がごとくに料簡せる人ありや、答えて云く天台云く「中論を以て相比すること莫れ」又云く「天親竜樹内鑒冷然して外は時の宜きに適う」等云云


(「撰時抄」、全集、pp. 267-268)

  『法華玄義』の「莫以中論相比」(大正蔵第33巻、p. 713c)という個所をこのような文脈で引用することが妥当といえるのか非常に疑問ですが、百歩譲って、そのことはなんとかこじつけることができたとしても、日蓮の主張はやはり行き過ぎでしょう。というのも、チギじしんが、一心三観(法華開会の三諦)は『中論』の三諦偈に説かれているとはっきり言っているからです。しかも、チギがそのことを明言しているのは、日蓮じしんが「一代聖教の肝心」と評価した『摩訶止観』においてであり、しかも、その中でも最も重要な第七正観章においてです。以下にその個所を菅野先生の現代語訳とともに引用しておきます。日蓮が『摩訶止観』を高く評価している部分もあわせて引用しておきましょう。

『摩訶止観』の原文

若一法一切法。即是因縁所生法。是為仮名仮観也。若一切法即一法。我説即是空空観也。若非一非一切者。即是中道観。一空一切空無仮中而不空。総空観也。一仮一切仮無空中而不仮。総仮観也。一中一切中無空仮而不中。総中観也。即中論所説不可思議一心三観。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 55b)

菅野先生の訓読

一法一切法なるが若きは、即ち是れ「因縁所生の法、是れ仮名と為す」にして仮観なり。一切法即ち一法なるが若きは、「我れ即ち是れ空なりと説く」にして、空観なり。非一非一切の若きは、即ち是れ中道観なり。一空一切空にして、仮、中として空ならざる無きは、総空観なり。一仮一切仮にして、空、中として仮ならざる無きは、総仮観なり。一中一切中にして、空、仮として中ならざる無きは、総中観なり。即ち中論に説く所の不可思議の一心三観なり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 266)

菅野先生の現代語訳

一法が一切法であるというのはとりもなおさず「因縁によって生じた法は仮名である」であり、仮観である。一切法はとりもなおさず一法であるというのは、「私はとりもなおさず空と説く」であり、空観である。一でもなく一切でもないというのは、とりもなおさず中道観である。一空は一切空であり、仮の中に空でないものは無いのは、総空観である。一仮は一切仮であり、空の中に仮でないものは無いのは、総仮観である。一中は一切中であり、空仮の中に中でないものはないのは、総中観である。(これらは)とりもなおさず『中論』に説く思議を越えた一心三観である。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 191)

日蓮の『摩訶止観』に対する評価

されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)
leaf 回答(2007.01.06-07)
投稿日時:2007-01-06 21:44:54
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

  佐倉さんが引用されているように、龍樹は「ものはすべて自性が空である」と言っています。空でないなにものもありません。ものはすべて空(無自性)ですから、当然、「思惟」だろうと、「一念」だろうと、すべて空(無自性)です。このことを龍樹は知っていたでしょう。

leaf 読者サービス
投稿日時:2007-01-07 20:21:01
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.三論宗は「正規の中観系」ではないとおもいます
  松本史朗先生や伊藤隆寿先生の議論に賛成します。わたしには、三論宗が「正規の中観系」だとはどうしてもおもえません(たしかに彼らの自己解釈はそうだったのでしょうが)。もっとも、松本先生はチギまで含めて「正規の中観系」ではないとお考えのようですが、チギは「正規の中観系」だとおもいます(そううそさんに対する回答の中ですでに説明したとおり)。

結論より言えば、インド中観派の「空の思想」は、厳密な意味では、中国には正確に移入されなかったのである。換言すれば、中国系の仏教には、「空の思想」の正確な理解は存在しなかったということである。
  ナーガールジュナの『根本中頌』は、確かに青目の註釈を伴った形で、羅什によって、五世紀初頭に、『中論』として漢訳され、この『中論』と『百論』『十二門論』の思想を研究する人々が三論宗という有力な学派を形成し、彼等がいわば、中国における中観思想、「空の思想」の継承者となったのである。しかるに、彼等三論宗の人々の「空」の理解は、根本的な誤解を含んでおり、そのために、インド中観派の「空の思想」は、中国には正確に伝わらなかったのである。
  
〔中略〕驚くべきことに、インド中観派の「空の思想」の継承者たるべき三論宗の大成者とされる吉蔵(五四九-六二三)でさえも、如来蔵思想を積極的に容認し、〔中略〕「有の思想」を説いたのである。

(松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、p. 412)
中国仏教の底流─万物一体の思想(伊藤隆寿)
http://fallibilism.web.fc2.com/081.html

2.正規の中観にも主張はあります
  「正規の中観は〔中略〕積極的な立論というものはない」という発言にも違和感を感じました。たしかに『廻諍論』の第29詩節にはそんな感じのことが書いてありますが、この部分は、「正当化可能なものとしての主張などはわたしにはない」というように理解するしかないとおもいます。なぜなら、「ものが他によって存在することが空性の意味である、とわれわれはいうのである。他による存在に実体はない。」(『廻諍論』第22詩節、梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 138-139)というように、龍樹は明確に《主張》しているからです。龍樹に主張があることはあまりにも明らかです。たしかに、龍樹は、主張を積極的に正当化(自立論証)できるとはおもっていなかったとおもいますが、龍樹に主張がなかったというのは事実として誤りだとおもいます。

leaf 回答(2007.01.09-01)
投稿日時:2007-01-09 01:20:57
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

1.『法華経』は菩薩行を重視します
  『法華経』は別名「教菩薩法」ですから菩薩行を重視します。〔中略〕しかし、信者獲得のために、「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことも書いてあります。このことを以下のように表現しました。

「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」的なことは、たしかに法華経の「陀羅尼品」に書いてあるわけですが、それは法華経のメインテーマではないとおもいます。「陀羅尼品」は別にあってもなくてもいい章だとおもいます。

(「法華経非仏説 覚え書きメモ」、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85

2.法華経には作者たちの体験および誓願が演劇的に表現されているとおもいます。

3.わたし自身は「お題目を唱えるだけで祈りが叶う」なんて、全くありえないと思っています。このことを以下のように表現しました。

「お題目を唱えるだけでも祈りは叶う」なんて、ありえないでしょう。法華経の内容も無視して、意味も無視して、それをただくりかえし唱える(発音する)だけで何かが起こるなんてこと、ありえません。冷静に考えたらわかります。

  
題目は呪文ではない
  http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html

  お題目を唱えることによって苦しみが滅びるということがもしあるとすれば、それは、お題目に凝縮されている縁起の思想の力のなせるわざでしょう。

(同上)

leaf 回答(2007.01.10-01)
投稿日時:2007-01-10 19:21:38
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

日蓮における一念三千の位置づけと「文底」

  日蓮の主観においては、「一念三千の法門はチギによって発明されたものではなくて、釈尊が五百塵点劫の当初に証得したものである」ということになっています。「チギは一念三千の法門を妙法蓮華経の五字の中から取り出した」というのが日蓮の理解です。

寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり

(「三大秘法禀承事」、全集、p. 1023)
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし、仏法漢土に渡つて五百余年南北の十師智は日月に斉く徳は四海に響きしかどもいまだ一代聖教の浅深勝劣前後次第には迷惑してこそ候いしが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり

(「兄弟抄」、全集、p. 1087)

  日蓮がこのように理解したのは、次の2つの命題を信じたからでしょう。

  A.釈尊が五百塵点劫の当初に証得した法門は仏教における最深の法門である。
  B.仏教における最深の法門は一念三千である。


  これら2つの命題は、(ア)釈尊を絶対視しつつ、(イ)現実の仏教史を発展史として捉える、以下の日蓮の考えに対応するとおもいます。

(ア)釈尊御領観

娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり、大地虚空山海草木一分も他仏の有ならず、又一切衆生は釈尊の御子なり、〔中略〕又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし〔中略〕此の国の人人は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし、〔中略〕国主父母明師たる釈迦仏を捨て乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず是れ豈不孝の者にあらずや

(「一谷入道御書」、全集、pp. 1327-1328)
(イ)発展史観
内証は同じけれども法の流布は迦葉阿難よりも馬鳴竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり、例せば軽病は凡薬重病には仙薬弱人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。

(「報恩抄」、全集、p. 328)

  日蓮は、「もっともすぐれているのは釈尊である」という大前提の下に、インド・中国・日本の三国における現実の仏教史を発展史観でとらえたのでした。このような日蓮の視点に立って寿量品を読んでみますと、たしかに、「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」ということになるとおもいます。

一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり

(「開目抄上」、全集、p. 189)

  ちなみに、《五百塵点劫より已来ずーっとこの娑婆世界で説法しつづけている釈尊》というのは、日蓮にとっては、まさに『法華経』そのものなのでした(以下の資料を参照)。

日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
leaf 回答(2007.01.10-02)
投稿日時:2007-01-10 19:22:35
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

唱題という行為は虚空会の儀式への参加を意味する

  曼荼羅(御本尊)というのは、虚空会の儀式の表現です。
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが

(「新尼御前御返事」、全集、p. 905)
こくうえ【虚空会】 法華経説法の会座の一つ。法華経説法の場所(処)と会座を二処三会といい、二処とは霊鷲山と虚空、三会とは前霊鷲山会・虚空会・後霊鷲山会をいう。すなわち法華経見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの十二品は虚空会、前後の十六品は霊鷲山会、合して三度の会座となる。

(『仏教哲学大辞典 第三版』、創価学会、2000年、p. 457)

  1.で書いたようなことをきちんと理解しておかないと、「曼荼羅に向って題目を唱える」ということの意味(虚空会の儀式への参加)も正しく理解できないとおもいます。

  曼荼羅に向って唱題するということは、虚空会の儀式に実際に参加して、釈尊に合掌し、五字につつまれている智慧(一念三千)を釈尊から授かるということなのです。

  曼荼羅本尊というのは、宗祖が法華経の中に入り込んで体験された《虚空会の付嘱の儀式》を表現されたものだと私は思っています。私が曼荼羅本尊に向かって唱題するのは、宗祖とご一緒に《虚空会の儀式》に参加して〔中略〕、釈尊から五字(ご承知のとおり、五字というのは法華経のエッセンスを表わしたもので、そこには釈尊の因行果徳の二法が具足しているとされます)を授かるためです。

(「創価学会をみんなで考えよう」での発言[ 3 ]、http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_03.html
一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 254)
法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり

(「唱法華題目抄」、全集、p. 13)

  そううそさんは、一念三千説が縁起説の発展形態であるということをすでにご理解なさいました。だとすれば、「妙法の二字に一念三千がおさまっている」という日蓮の主張の妥当性についても、少しくらいはお認めになられるのではないでしょうか。なぜなら、「妙法の二字には縁起説がおさまっている」といえるのですから(以下の資料を参照)。

『法華経』と釈尊の思想
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

leaf 回答(2007.01.10-03)
投稿日時:2007-01-10 19:24:00
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

現在の創価学会の教学に対する批判

  池田名誉会長は、勤行の意義を「大宇宙と自分の生命の交流の儀式」などと説明されていますので、残念ながら、本日の回答1と2に書いたようなことは理解しておられないのだろうと思います。

勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
http://fallibilism.web.fc2.com/063.html

  ちなみに、曼荼羅が虚空会の儀式の表現であることは『大白蓮華』でも説明されていましたが、残念ながら、その説明も日蓮本仏論に毒されており、正確な説明にはなっていませんでした(以下を参照)。

本尊観について
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html

leaf 回答(2007.01.11-01)
投稿日時:2007-01-11 02:16:16
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

文底について
  文底については、昨日(←日付が変わってしまったので)の回答1をお読みください。しかし、その前に、一般論として以下の資料をまず読まれたほうがよいかもしれません。

経典に向かうものは熟練した潜水者であることが必要(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/084.html

日蓮と密教
  日蓮の時代には、天台宗はすでに密教化していました。日蓮はその密教化した天台宗から出発しています。したがって、日蓮には密教からの影響が確実にあります(ないほうがおかしいでしょう)。しかし、密教は、日蓮の中心思想として取り込まれているわけではありません。せいぜい形式面における影響だとおもいます。

  わたしは、日蓮の中心思想を支持しますが、日蓮の思想のすべてを支持するわけではありません(以下のところで表明したとおりです)。

法華経について
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

  密教にかぎらず、日蓮の主張のうち、現代においてはもう通用しないような部分は、弟子の責任として、きちんと修正していく必要があるとおもいます。日蓮じしんが「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp. 1055-1056)といっています。

  もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。

(日蓮考察、http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html

  あと、日蓮が読んだのは、ほとんど漢文の仏典だとおもいます。

アビダルマについて
  アビダルマにもいろんな内容のものがあるのでしょう(わたしは読んでいないのでよく知りません)。もちろん、円融三諦に反さない部分は肯定してもよいとおもいます。ちなみに、龍樹が批判している有部の考えについては、スマナサーラ長老も同じく批判的なようです。

http://www.j-theravada.net/qa/qahp47.html

説一切有部ー
この方々が考えている「三世実有」論はPali聖典に全くも異質なものです。私さえもさっぱりその意味は解りません。Pali Abhidhammaでも諸々の法の本質、実質は何ですかと説明しますが、それは一つの法を別の法から区別して理解するための努力です。
しかし、全ての法は瞬間で消えて行くという立場ですので、三世実有思考とは関係がありません。(自性と言う言葉がAbhidhammaでは必ずも使います。乳にそれなりの特色があってチーズには乳にはない自分だけ持っている特色があります。それが「自性」ということです。ですから、自性は区別認識の働きです。それは三世実有だと言われると乳はチーズになれないのでは?と思ってしまいます。)
説一切有部との同じ点は「自性」(svabhava)と言う単語を使うとことです。異なる点はその自性は瞬間だけのことだと言うところです。
Pali仏教では三世実有論は邪険だ、正見ではありませんと詳しく論じてあります。
Abhidhammaの中にあるKathavatthuppakaranaと言うテキストの第五章-Sabbamatthikathaをお読みになってください。

leaf 回答(2007.01.11-02)
投稿日時:2007-01-11 02:17:38
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

人の幸福とは
  たとえば、物質的に満たされたときに感じる幸福とか、健康であることや健康になることに対して感じる幸福などもたしかに幸福といえるでしょう。しかし、実際には、これらは宗教でどうにかできるものではありません。諸天善神は物語の中に出てくる架空の存在であって、リアルに実在するわけではないのですから。また、初期経典にも、「ブッダが『超人的な力で病を治した』などとは書かれていない」のですから(以下の資料を参照)。

『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://fallibilism.web.fc2.com/016.html

  しかし、これらとは全く別種の幸福というものがあります。たとえば、「人類の運命や世界のなりゆきについて」、自分が「せめて石ころの一つでも貢献した」と思えるような時に人が感じる幸福です。

  死んでから結ぶ果などというものは、どうでもよいではないかという者もあるかもしれないが、それはあまりに見解のせまい、まったく現実的で、利己主義な考え方だとしなければなるまい。そんな考え方では、結局、真に生きるに値するような人生は送れるはずがないのである。けだしわたしどもには、みんな子供もあるし、隣人もあるし、同胞というものもある。わがなきあとには、そんなものはどうなってもよいという訳のものではあるまい。
  さらに、眼をあげていえば、わたしどもは、いかに微力であろうとも、なおかつ人類とか世界とかの運命と、まったく無関係ではないかもしれない。わたしは与謝野晶子さんの歌一首を感銘ふかく記憶しているのであるが、それはこうである。
    劫初より造りいとなむ殿堂に
    われも黄金の釘ひとつうつ

  人類がはじまってからこのかた、ずっと続けて造りいとなんできた殿堂とは、晶子さんの意味するところでは、たぶん、文学というものであろうかと思われる。その殿堂のすぐれた造営のために、わたしもまた黄金の釘ひとつでも貢献したいという。それが晶子さんの願いというものであり、また意気ごみであったにちがいあるまい。
  そんな能力はわたしにはないけれども、なおかつ、わたしだって、人類の運命や世界のなりゆきについて、まったく無関心ではありえない。それをもまた「劫初より造りいとなむ殿堂」ということをうるならば、たとえ「黄金の釘」ではなくとも、せめて石ころの一つでも貢献したいものと思う。それが、この歌一首によせる私の感慨なのであり、この心あって人ははじめて、真に生きるに値する人生を見出だすことをうるであろうと思うのである。
  とするならば、わがなきのちに結ぶであろう果こそ、もっとも心しなければなるまいと思えてならない。


(増谷文雄『業と宿業──新しい自己の発見のために』〔講談社現代新書244〕、講談社、1971年、pp. 74-75)
  仏教を信仰することによって得られる幸福というのは、このような種類の幸福だろうとおもいます。物質的に満たされることとか、健康であること(健康になること)などを求めるのであれば、むしろ、宗教活動なんてやめておいたほうがよいとおもいます。牧口初代会長の以下のようなお考えも参考になるでしょう。
英雄は四面楚歌の苦境に堅忍奮闘して漸く勝利を得る(牧口常三郎)
http://fallibilism.web.fc2.com/026.html

  また、日蓮も、「心の財をつませ給うべし」と言っています。

蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし

(「崇峻天皇御書」、全集、p. 1173)

『法華経』にノンフィクション的な記述を求めるのはそもそも無理
  『法華経』のようなファンタスティックなドラマの中に、『テーリーガーター』のようなノンフィクション系のものに見られる「具体的な体験談」の記述を求めるのはそもそも無理があります(断言します)。「具体的な体験談の記述がないものには価値がない」とお考えの方には、『法華経』は向かないでしょう(断言します)。そのような方には、ノンフィクション系のものをおすすめいたします(断言します)。

日蓮の発展史観の行き過ぎ
  日蓮が「三諦偈は法華開会の三諦を説いていない」と言っているのは、発展史観(昨日の回答1を参照)の行き過ぎだとおもいます。「龍樹の『中論』よりも、チギの『摩訶止観』のほうがすぐれている」という認識が、あのような表現になったのではないでしょうか。

leaf 回答(2007.01.11-03)
投稿日時:2007-01-11 02:19:38
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

釈迦もチギも日蓮も法が本尊(1/2)
  日蓮の本尊(曼荼羅)について正しく理解すれば、これはお分かりになるでしょう。まず、昨日の回答2をお読みください。その後に、以下をお読み下さい。釈迦→『法華経』の作者→チギ→日蓮の順に発言等を引用しておきます。釈迦も、『法華経』の作者も、チギも、日蓮も、根本的には、法が本尊です。日蓮の場合、仏教における最深の法門である一念三千がつつまれている「題目」が本尊です。

○釈迦の考え:『サンユッタ・ニカーヤ』第一集、第六篇、第一章、第二節

 そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。──「他人を尊敬することなく、長上に柔順でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしは、いかなる〈道の人〉またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。

 そのとき尊師は次のように思った、──「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。


(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.87-88)
 まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱したと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。──わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。

 むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

 そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。

一〇 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向って合掌し、尊師に向って次のように言った、──

一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」


(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
○上記の第八に対する中村先生の訳注
これは仏教の立場を示す非常に重要な文句である。〔中略〕この箇所ではダルマはブッダよりも上位に位置する最高原理と見なされている〔中略〕。仏教は本来ダルマに準拠する教えであり、ブッダを崇拝することは付随的に遅れて成立したという基本的性格がここにはっきりと示されている。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.339-340)

leaf 回答(2007.01.11-04)
投稿日時:2007-01-11 02:20:24
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447

釈迦もチギも日蓮も法が本尊(2/2)

○『法華経』の作者の考え:菅野先生の解説

このように、釈尊の根本の悟りについて、原始経典には、ダンマを悟り、ダンマを尊敬することを明らかにしています。ダンマに正しいという意味の形容語を付けたものがサッダンマであり、正法と漢訳されます。
 『法華経』のサンスクリット語のタイトルはサッダルマプンダリーカ・スートラ
〔中略〕といい、竺法護訳では「正法華経」、鳩摩羅什訳では「妙法蓮華経」といいます。釈尊の悟りの原点であるサッダンマをそのまま経典のタイトルに用いていることに気がつきます。名は体を表わすといいますが、タイトルはたいへん重要なものです。『法華経』という経典が釈尊のダンマの悟りを何よりも重視していることがわかります。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 18)

○『法華経』の作者の考え:「法師品」

また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)賛美するとしよう。〔一二〕
彼は私を賛美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は、前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。〔十三〕


(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)

○チギの『法華文句』

法是聖師能生能養能成能栄莫過於法。故人軽法重也。

〔法は是れ聖の師。能生・能養・能成・能栄、法に過ぎたるは莫し。故に人は軽く法は重きなり。〕

(『法華文句』、大正蔵第34巻、p. 143c)

○日蓮の『法華文句』解釈

天台云く「人は軽く法は重きなり〔中略〕、人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり

(「宝軽法重事」、全集、p. 1475)

○日蓮の本尊観

  問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、〔中略〕其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、〔中略〕、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)

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  1. 2007/01/13(土) 19:14:47|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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