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仏教と批判的合理主義

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観心を正しく実践しましょう

leaf観心を正しく実践しましょう

 日蓮は、本尊抄で、「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」といっている。しかし、ここで言われている「観心」を正しく実践している人がどれだけいるであろうか。わたしには大いに疑問である。
 上の引用からも明らかなように、日蓮の「観心」は、チギの十界論にもとづくものであり、このことじたいはよく知られていると思う。チギの十界論を正しく理解すれば、日蓮がいうところの「観心」を正しく実践することができるのであるが、それができている人が少ないのは、チギの十界論の中身まで正しく理解している人が少ないからなのであろう。
 というわけなので、今回は、菅野博史さんの解説にもとづいて、チギの十界論について復習することにする。


leafチギの十界論
 まず、チギの十界論についての菅野博史さんの解説を引用する。少し長い引用となるがご容赦いただきたい。
 智顗が十界を十界としてまとめることができたのは、すべての生命体を統一的な基準にもとづいて、ランクづけできたからでした。その基準とはどんなものでしょうか。
 それは衆生が諸法(自己を含むすべての存在)をどのように見るかによるといわれます。つまり、諸法を有(永遠不変に実在する固定的実体)と見ると六道となり、空(固定的実体の無いこと)と見ると声聞・縁覚となり、仮(固定的実体は無いが、諸原因・条件に依存してかりの存在として成立していること)と見ると菩薩となり、中道(空と仮のどちらか一方に偏らず、両者を正しく統合すること)と見ると仏となると説明されます。
「見る」ということは、衆生の一切の行為を集約して表現したものであり、ただ単に「見る」だけにとどまるものではありません。衆生の生き方全体が「見る」ことに深く関わっているのです。たとえば、六道の衆生は諸法を有としか見ることはできませんし、また有と見ることにおいて六道の衆生のあり方が成立しているのです。有と見ることは、対象が永遠不変に実在するものと捉え、その対象に必然的に執着することを意味します。そこで、六道の衆生のあり方が成立するのです。六道の衆生は煩悩に駆り立てられて対象に執着しますが、彼らは対象を有と見ているのです。
 さらに六道の中では、善悪とその程度によって六種を区別しています。つまり、上善は天、中善は人、下善は阿修羅となり、大悪は地獄の衆生、中悪は餓鬼、小悪は畜生となるというものです。
 空と見ることは、対象が固定的実体を持たないものと捉えることであり、そこにおいては対象に執着するということはありません。そこで、声聞と縁覚の二乗のあり方が成立するのです。しかし、この空に一方的に偏れば、衆生救済や仏国土の建設に何ら積極的な意味を見いだすことができず、あらゆる行為の意味を否定するニヒリズムに陥ってしまいます。そこで、次に現象界は固定的実体は無いが、いま現にあるような仕方で成立しているという一側面を正しく捉え、凡夫と仏の厳然たる差別を看過することなく、凡夫を導いて仏にならせる利他行に生きるあり方が菩薩として要請されるようになります。しかし、この菩薩も仮に一方的に偏れば、つねに凡夫に退落する危険にさらされているのであり、そこで空と仮を正しく統合する、より高次な中道が仏のあり方として立てられます。


(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、pp. 217-218)

leaf諸法をどのように見ているかによって衆生を分類する
 つまり、十界論というのは、諸法をどのように見ているかによって衆生を分類するわけである。「我が己心を観じて十法界を見る」ということは、自分が今、諸法をどのように見ているかということを観察することになる。これは、ようするに、自身のものの見方(有、空、仮、中道のうちのどのような見方で諸法を見ているか)をモニタリングするということである。
 このようなモニタリングを日常的に続けていくことによって、諸法を中道と見る見方が習慣的に身についていくのである。諸法を中道と見る見方が習慣的に身についている人を仏というのであり、そうなることが仏道の目標である。

leaf無自性であるから心は変転する
 いかなるものも無自性であり、従って、心もまた無自性である。さまざまな縁によって実際の心は常に変転していく。よって、その変転していく心を常にモニタリングし、中道と見る見方からのズレを修正していくことが常に必要となる。これが自己を整えるということであり、仏教において伝統的に強調されてきたところである。「自灯明」とも言われるように、自己を制御できるのは自己のみなのである。
 菅野さんは以下のように言う。

 心はめまぐるしく変転しますが、自分の心のあり様はいったい十界のどの界に位置するのかを考えることは、深い宗教的な反省につながり、さらに最も尊い仏界を自己の心に実現する道に直結しているのではないでしょうか。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 221)

 菅野さんは明確には述べていないが、ここで言われている「深い宗教的な反省」とは、要するに、自分が今、諸法をどのように見ているかということについての反省であろう。
 世の中には、十界論を聞きかじっていながらも、ひたすら「煩悩に駆り立てられて対象に執着」し、「深い宗教的な反省」など全く行わない人たちが多いのが実情である。
 以上の復習により、そういう人が一人でも少なくなることを切に願う。

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  1. 2018/04/16(月) 14:32:24|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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