仏教と批判的合理主義

「依法不依人」を正しく理解しましょう

leaf依法不依人」を正しく理解しましょう

 涅槃経に「依法不依人」という言葉があるということじたいはよく知られているようであるが、その意味を誤解している人が多いようである。仏教研究家ですら誤解しているようである。本記事では、涅槃経を引用して、その誤解を正したいと思う。
 涅槃経を引用して説明する前に、ある仏教研究家の「人」と「法」に関する見解を引用することからはじめてみよう(その部分の見解が間違っていると言いたいわけではない)。

 次に、普遍的真理と特定の人格に対する態度の比較をしてみよう。インドでは、具体的な人格性としての「人」と普遍的真理としての「法」が対にして論じられた。この場合、「人」は「ヒト」と読まないで「ニン」と読む。英語で言えばパーソナリティーに近い。それに対して、「法」は普遍的な真理ということである。その両者の関係について、釈尊自身は次のような言葉を残している。
ヴァッカリよ、実に法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。ヴァッカリよ、実に法を見ながら私を見るのであって、私を見ながら法を見るのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第三巻、一二〇頁)
 前述のように、ブッダ(仏陀)とは「真理に目覚めた人」のことであり、「法」(真理)に目覚めればみんなブッダなのだ。「人」をブッダたらしめるものは「法」であり、「法」こそが根源にある。
 それを大前提とした上で、「人」と「法」の一体性が強調された。「法」は、人格に反映されて初めて意味があるし、その人格そのものも、「法」に裏付けられて初めてその価値を生ずる。

(植木雅俊『仏教、本当の教え』〔中公新書 2135〕、中央公論新社、2011年、p. 169)


leaf「人」と「法」の一体性

 上の引用中、「「法」こそが根源にある」という表現はちょっとどうかと思うものの、目くじらを立てるほどのことではないだろう。アーガマにおいては、「人」と「法」の一体性が確かに強調されているので、上に引用した部分で示されている見解は妥当である。
 しかし、この引用には欠けている認識がある。それは、「真理(法)は深遠で、難解であり、この世の人々には見がたい」という認識である。法がそのようなものであることは、アーガマにおいてもはっきりと述べられている。例えば、以下に引用するとおりである。

わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.83)

leaf真理は深遠で見がたい
 そもそも、ブッダたるために見る必要がある「法」が、ブッダでない人々にとって見やすいものであるのなら、ゴータマがブッダとなるためにあれほど苦労する必要などなかったのである。実際、次のような言葉がゴータマの言葉としてアーガマに残されている。

苦労してわたしがさとり得たことを、今説く必要があろうか。貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理をさとることは容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.84)

 ゴータマのような聡明な人間でさえかなり苦労したのである。ノーヒントで法に到達するというのは凡人には絶望的に困難だということであろう。『法華経』もこのようなアーガマの思想を継承している。すなわち、方便品に「佛の成就したまへる所は、第一希有難解の法なり」とある。方便品は創価学会員にはおなじみであろうが、あえて該当部分を引用しておこう。

〇漢文

爾時世尊從三昧安詳而起。告舍利弗。諸佛智慧甚深無量。其智慧門難解難入。一切聲聞辟支佛所不能知。所以者何。佛曾親近百千萬億無數諸佛。盡行諸佛無量道法。勇猛精進名稱普聞。成就甚深未曾有法。隨宜所説意趣難解。舍利弗。吾從成佛已來。種種因縁。種種譬喩。廣演言教。無數方便引導衆生。令離諸著。所以者何。如來方便知見波羅蜜。皆已具足。舍利弗。如來知見廣大深遠。無量無礙力無所畏。禪定解脱三昧。深入無際。成就一切未曾有法。舍利弗。如來能種種分別巧説諸法。言辭柔軟悦可衆心。舍利弗。取要言之。無量無邊未曾有法。佛悉成就。止舍利弗。不須復説。所以者何。佛所成就第一希有難解之法。唯佛與佛乃能究盡諸法實相。所謂諸法如是相。如是性。如是體。如是力。如是作。如是因。 如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

(大正蔵第9巻、p. 5b-c)

●訓読

爾の時に世尊、三昧從り安詳として起つて、舍利弗に告げたまはく、『諸佛の智慧は、甚深無量なり。其の智慧の門は、難解難入なり。一切の聲聞、辟支佛の知ること能はざる所なり。所以は何。佛曾て百千萬億無數の諸佛に親近して、盡くして諸佛の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名稱普く聞こえ、甚深未曾有の法を成就して、宜しきに隨つて説きたまふ所は、意趣解り難し。  舍利弗、吾成佛して從り以来、種種の因縁、種種の譬喩をもつて、廣く言教を演べ、無數の方便をもつて、衆生を引導して、諸の著を離れしむ。所以は何。如來は方便、知見波羅蜜、皆已に具足せり。舍利弗、如來の知見は、廣大深遠なり。無量、無礙、力、無所畏、禪定、解脱、三昧あつて、深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。  舍利弗、如來は能く種種に分別して巧みに諸法を説き、言辭柔軟にして、衆の心を悦可す。舍利弗、要を取つて之を言はば、無量無邊未曾有の法を、佛悉く成就したまへり。止みなん、舍利弗、復た説く須からず。所以は何、佛の成就したまへる所は、第一希有難解の法なり。唯佛と佛とのみ、乃し能く諸法實相を究盡したまへり。所謂諸法の如是相、如是性、如是體、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。』

(国民文庫刊行会編『国訳大蔵経 経部 第1巻』、国民文庫刊行会、1935年、pp. 30-31)

leaf「仏」と「法」との一体性
 以上の説明から明らかなように、仏教において強調される「人と法の一体性」というのは、正確に言えば、「仏と法の一体性」なのである。これに対して、涅槃経で「依法不依人」といわれる場合の「人」というのは、仏ではない人のことである。従って、「仏と法の一体性」と涅槃経の「依法不依人」は全く矛盾しない。矛盾しないどころか、全く同じことを言っているのである。

leaf涅槃経からの引用(1)
 では、涅槃経の「依法不依人」の文脈を具体的に確認していくことにしよう。まず「依法不依人」を言いだすのは迦葉菩薩である。迦葉菩薩が次のように言い出す。

〇漢文

迦葉菩薩復白佛言。世尊。善哉善哉。如來所説眞實不虚我當頂受。譬如金剛珍寶異物。如佛所説是諸比丘當依四法。何等爲四。依法不依人。依義不依語。依智不依識。依了義經不依不了義經。如是四法應當證知非四種人

(大正蔵第12巻、p. 401b-c)

●訓読

迦葉菩薩、復佛に白して言さく、『世尊、善い哉善い哉、如來の所説眞實にして虚ならず。我當に頂受すること、譬へば金剛の珍寶異物の如くすべし。佛の所説の如く、是の諸の比丘、當に四法に依るべし。何等をか四つと爲す。法に依りて人に依らず、義に依りて語に依らず、智に依りて識に依らず、了義經に依りて不了義經に依らず。是の如きの四法、應當に證知すべし、四種の人に非ず。』

(国民文庫刊行会編『国訳大蔵経 経部 第8巻』、国民文庫刊行会、1935年、p. 185、※引用にあたって旧字体の一部を新字体に改めた)

leaf涅槃経からの引用(2)
 それに対する仏のコメントはこうである。

〇漢文

佛言善男子。依法者。即是如來大般涅槃。一切佛法即是法性。是法性者即是如來。是故如來常住不變。〔後略〕
(大正蔵第12巻、p. 401c)

●訓読

佛の言はく、『善男子、依法とは即ち是如來の大般涅槃、一切の佛法、即ち是法性なり。是の法性即ち是如來なり。是の故に如來は常住不變なり。〔後略〕

(国民文庫刊行会編『国訳大蔵経 経部 第8巻』、国民文庫刊行会、1935年、p. 185、※引用にあたって旧字体の一部を新字体に改めた)

leaf涅槃経からの引用(3)
 仏はまた次のようにもコメントしている。

〇漢文

依法者即是法性。不依人者即是聲聞。法性者即是如來。聲聞者即是有爲。如來者。即是常住。有爲者即是無常。

(大正蔵第12巻、p. 401c)

●訓読

法に依るとは即ち是法性、人に依らずとは即ち是聲聞なり。法性とは即ち是如來、聲聞とは即ち是有爲、如來とは即ち是常住、有爲とは即ち是無常なり。

(国民文庫刊行会編『国訳大蔵経 経部 第8巻』、国民文庫刊行会、1935年、p. 186、※引用にあたって旧字体の一部を新字体に改めた)

leaf涅槃経の「依法不依人」は「仏と法の一体性」を説いている
 以上の引用から明らかなように、涅槃経が「依法不依人」という場合の「依法」というのは、「法性と如来に依る」ということである。そして、そこでいわれている「不依人」というのは、「(如来に至らざる)聲聞には依らない」ということである。法性と如来(仏)の一体性がそこで強調されていることも明らかである。
 「依法不依人」という涅槃経を含めて、アーガマ以来、仏教においては、一貫して、仏と法の一体性を強調していることが以上の説明により明らかになったであろう。

leafある仏教研究家の誤解
 しかるに、この記事の最初に引用した仏教研究家は、その引用に続けて以下のように述べているのである。

ただし、あえてどちらか一つの選択を迫られる場面では、「依法不依人」が強調された。これは『涅槃経』や『維摩経』に出てくる言葉で、「法に依って人に依らざれ」と読む。最終的には、「人」よりも「法」を重視しなければいけないというのがインド仏教だったのである。

(植木雅俊『仏教、本当の教え』〔中公新書 2135〕、中央公論新社、2011年、pp. 169-170)

 おそらく、この方は、『涅槃経』の「依法不依人」という言葉が具体的にどのような文脈で説かれているのかを確認せずに上のように述べてしまったのであろう。しかし、このような見解は誤りである。「依法不依人」という涅槃経を含めて、アーガマ以来、仏教においては、一貫して、仏と法の一体性を強調している、というのが正しい見解である。

leaf依法不依人」と「依智不依識」はセット
 すでに引用しておいたように、『涅槃経』において「依法不依人」とセットで説かれているものに「依智不依識」がある。『涅槃経』は仏と法の一体性を説いており、「法に依り、仏には依らない」などとは主張していないということは、「依智不依識」の内容を確認することによっても理解されるであろう。以下に引用しておく。

〇漢文

依智不依識者。所言智者即是如來。若有聲聞不能善知如來功徳。如是之識不應依止。若知如來即是法身。如是眞智所應依止。

(大正蔵第12巻、p. 401c)

●訓読

智に依つて識に依らずとは、言ふ所の智とは、即ち是如來なり。若聲聞、善く如來の功徳を知ること能はざる有らば、是の如きの識依止すべからず。若如來即ち是法身と知らば、是の如きの眞智は依止すべき所なり。

(国民文庫刊行会編『国訳大蔵経 経部 第8巻』、国民文庫刊行会、1935年、p. 187、※引用にあたって旧字体の一部を新字体に改めた)

leaf日蓮の理解
 最後におまけとして、「依法不依人」と「依智不依識」についての日蓮の理解を引用により示しておく。日蓮の本尊をどのように解釈するかという問題に、「依法不依人」を持ち出す人がいるからである。

涅槃経に云く_依法不依人 依智不依識〔法に依て人に依らざれ~智に依て識に依らざれ〕[已上]。依法と云うは法華・涅槃の常住の法也。不依人とは法華・涅槃に依らざる人也。設い仏菩薩為りと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てを乎。依智とは仏に依る。不依識とは等覚已下也。

(「守護国家論」、https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/

 日蓮じしんは、上記の仏教研究家のような誤解はしていない(涅槃経をちゃんと読んでいるのであたりまえではあるが)。日蓮は、仏教の伝統に従って、法と仏によるのであるが、その場合の法とは法華経の法(実相=円融三諦)であり、仏とは「寿量の仏」(開目抄、本尊抄)である。
 日蓮は、法と仏の関係を天台学の三身説で理解しているのであるが、天台学の三身説については、以下の資料を参照されたい。

天台学の三身説を理解しましょう
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-37.html

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  1. 2018/04/13(金) 16:20:14|
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