仏教と批判的合理主義

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「真実は一つか否か」という議論について

leaf「真実は一つか否か」という議論について

 「真実は一つか否か」という議論について、対応説という真理観の立場から考えてみる。たとえば、互いに両立しない理論A、理論B、理論Cがあるとする。理論とはわれわれが生きているこの世界を説明する試みのことであり、その意味では仮説といってもよいだろう。

 ある理論がわれわれが生きているこの現実世界を正しく説明しているとき、つまり、その理論がこの世界にぴったりと対応しているとき、その理論を真である理論とする。これが対応説という考え方である。これはもっとも素朴な真理観であるとおもわれる。

 先に3つの理論(理論A、理論B、理論C)について述べたが、もちろん、論理的には無数の理論がありうる。しかし、それらの無数の理論のうち、真である理論はただ一つである。この世界というのは、いってみれば無数にありうるパラレルワールドのうちのただひとつのユニークな世界なのであるから。

 真であるただ唯一の理論を理論Tと呼ぶことにしよう。永遠に存在し進化し続ける知的な存在が無限の時間をかけて探索しても理論Tに到達できるかは分からないが、そのような到達可能性をひとまずおいておくとするならば、論理的には、理論Tはたしかに存在することになるだろう。


leaf対話とは消去法の相互適用である

 理論Aを正しいと思っているAさんと、理論Bを正しいと思っているBさん、この二人の対話というものを考えてみることにしよう。Aさんが、有限の手続きで、「理論Aこそが理論Tである」と正当化することは不可能である(全称命題の検証不可能性などを想起せよ)。Bさん(理論B)についても同じだ。

 すなわち、誰であれ、どんな理論も正当化などできないのである。その意味で、どんな理論も、もしかしたら誤っているかもしれないのである。このような考えを可謬主義という。もっとも、理論を反証したり批判したりすることなら有限の手続きで可能であると考えることはできる。

 Aさんにできることは、理論Bを反証したり批判することである。もちろん、Bさんからの理論Aに対する反証や批判をまじめに受け取るべきである。仮に、Aさんによる反証や批判によって理論Bが誤りであるということが明らかになったとしても、そのことで理論Aが正しいということにはならない。

 ここで行われていることは、AさんとBさんの共同作業としての消去法の適用なのである。つまり、無限に存在する理論群のうちの部分集合である【理論Aと理論B】を探索領域として、その中に理論Tがあるのかどうかを協力して調べているのである。


leafただ一つの真理という概念は対話という営みにおいてはすでに論理的に前提されている

 AさんとBさんは理論Tを探求しているという意味で目的を共有している。対話の目的が理論Tの探求であり、探求は消去法の適用によってしかなしえないのだとすると、対話によってどちらの理論も消去しえなかったというのが最悪の結果であるといえよう。

 もし、対話によって、理論Aも理論Bもともに消去することができて、しかも、それぞれの理論の欠陥を含まないような理論Cが産み落とされることになるとすれば、それ以上の結果はないと思われる。もちろん、理論Cとて、さらなる消去法の適用という無限の営みの中に投げ込まれざるをえないわけだが。

 以上のように考えるならば、ただ一つ存在するはずの理論T(真理)という概念は、対話によって人々が協同してよりよい理論を探求していくという営みを支える、いってみれば、論理的な前提のようなものになっているとわたしには思われるのである。

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  1. 2017/05/23(火) 21:49:21|
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