仏教と批判的合理主義

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宮田幸一説批判──日蓮は法本尊のみを本尊としているわけではない

leaf宮田幸一さんの主張

 宮田幸一さんは、次のように述べて、【法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えである】と主張されています。

創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。〔中略〕
 日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。
正統性は血脈にではなく重要な教えをそのまま実行しているかどうかで判断するという論点は日興の立場でもある。


(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(5) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-5.html

 宮田さんのこのようなお考えに対しては、当ブログの記事にてすでに批判を加えておりまして(Libra「創価学会教義の形成の試み」、2011/01/23、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-26.html)、宮田さんご本人にもそのことはメールでお伝えしておりますが、今のところ返答はございません。きっとお忙しいのだろうと思います。

 今回は、法本尊以外に人本尊を立てることが『本尊問答抄』の議論に反することになるのかという点について、もう少し深く考えてみたいと思います。


leaf久遠実成釈尊が「法華経の題目」を修行???

 宮田さんは次のように言われています。

私は「法華経の題目」を本尊とするということは、久遠実成釈尊が修行した究極の能生の法である「法華経の題目」を本尊とするということだと解釈しているから、「法華経の題目」=勝、「久遠実成釈尊」=劣という関係が生じていると解釈している。もちろんこの解釈が日蓮の文献資料によって正当化されるとは考えないが、否定されるとも考えていない。

(宮田幸一「『本尊問答抄』について(3)」の「(2012.1.30 付加)」の部分、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html

 まず、第一の問題点は、久遠実成釈尊が「法華経の題目」を修行することはありえないということです(少なくとも日蓮にとっては)。法華経によりますと、久遠実成釈尊が修行して到達した法(日蓮の言葉で言えば「内証」)が、五百塵点劫という長い間、『妙法蓮華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)』という名前(題目)でいろんなところで説かれているということになります。久遠実成釈尊が最初に成仏した後に法華経が説かれはじめたということになります。よって、久遠実成釈尊が「法華経の題目」を修行したということはありえません(少なくとも日蓮にとっては)。

 たしかに、一般論として、どの仏も「法華経より出生し給へり」(「本尊問答抄」)と言うことを日蓮は言いますが、それは、久遠実成釈尊によってはじめて法華経が説かれたということを前提とした議論です。現代の学者の表現で言うならば、「如来寿量品の久遠の成仏(釈尊がはるかな過去に成仏したと説く)に見られる諸仏の時間的統一」(菅野博史『法華経入門』、http://fallibilism.web.fc2.com/131.html)ということでしょう。日蓮は、久遠実成釈尊が「法華経の題目」を修行したなどとどこにも書いておりません。久遠実成釈尊は、その内証である一念三千の法門を「法華経の題目」に包んで「末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(「観心本尊抄」)という言い方をしています。

 【久遠実成釈尊によってはじめて法華経が説かれたということを日蓮は前提としている】というのは「日蓮の文献資料によって正当化される」(宮田「『本尊問答抄』について(3)」の「(2012.1.30 付加)」の部分、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html)でしょう(日蓮が法華経の説相を真実と受け止めているということさえ正当化できればいいわけですから容易でしょう)。

 したがって、【久遠実成釈尊が『法華経の題目』を修行した】という解釈を前提とする宮田さんの本尊思想については、日蓮個人の本尊思想とは異なるということが「日蓮の文献資料によって正当化される」でしょう。宮田さんの本尊思想は、「日蓮ならびに『法華経』が許容する『お話の世界』(universe of discourse 論議領域)」(宮田「『本尊問答抄』について(3)」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html)をすでに逸脱しており、すでに別の「お話の世界」になっています。

 「法華経の題目」を本尊とするということは、久遠実成釈尊の内証である一念三千の法門の表現として「法華経の題目」を本尊とするというふうに解釈すべきでしょう。信頼できる日蓮の遺文群を普通に読解すればそのような解釈になるとわたしは思います。「日蓮ならびに『法華経』が許容する『お話の世界』」で話をしたいならこのような解釈を採用するべきでしょう。

leaf【法華経は「広」で、題目は「要」である】という関係

 また、宮田さんは、次のようにも言われます。

しかし私は「法華経」と「法華経の題目」とは同一視できないと考えている。〔中略〕『本尊問答抄』の上記引用文では初めの部分で「法華経の題目」が本尊として挙げられるが、その後は「法華経の題目」ではなく、「法華経」が論じられている。だから村田が両者を同一視して、「法華経」が教法であるから「法華経の題目」も教法であり、それと教主久遠実成釈尊との能生所生関係は論じられていないという解釈もありうるだろう。

(宮田幸一「『本尊問答抄』について(3)」の「(2012.1.30 付加)」の部分、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html

 わたしも「『法華経』と『法華経の題目』とは同一視できない」というご意見には賛成です。わたしは、両者は、同一ではなく「広(=法華経)」と「要(=題目)」の関係にあると考えます。例えば、「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(「法華取要抄」)などという発言が日蓮にはあります。広である法華経が教法であることは明らかです。したがって、その要である題目も教法と考えるのが自然でしょう。それに関連して、宮田さんは「それでは一体久遠実成釈尊はどのような法を修行したのだろうか」という疑問を呈されているようですが、それに対しては、「一念三千の法門です」とわたしならお答えします。

leaf「一念三千の法門」と「久遠実成釈尊」との間に能生・所生関係を確定できるか?

 「能生が優れ、所生が劣る」という『本尊問答抄』の勝劣決定基準を【久遠実成釈尊によってはじめて法華経が説かれた】という日蓮にとっての主観的事実に対して適用するならば、【久遠実成釈尊が優れ、法華経が劣る】という、宮田さんとは全く逆の主張をすることが可能になります。久遠実成釈尊が法華経の生みの親なわけですから。また、久遠実成釈尊はいつでもどこでも常に「妙法蓮華経(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)」というタイトルを持つものとして法華経を説いているわけですから(使用される言語はそれぞれ異なるので、それぞれの言語でそういう意味のタイトルということになる)、同じ論法で「久遠実成釈尊が優れ、法華経の題目が劣る」という主張も可能になるでしょう。すなわち、「能生が優れ、所生が劣る」という『本尊問答抄』の勝劣決定基準を徹底すれば、法本尊以外に人本尊を立てることは、『本尊問答抄』の議論(が論理的に含意すること)に反するということには必ずしもならないでしょう。

 では、そこから、宮田さんと正反対の主張(【人本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えである】)を正当化できるかというと、それはできないと言わざるをえません。「能生が優れ、所生が劣る」という『本尊問答抄』の勝劣決定基準をさらに徹底するのであれば。

 というのも、「久遠実成釈尊を仏たらしめたのは一念三千の法門なんでしょう?一念三千の法門が能生で、久遠実成釈尊が所生ってことになりますよね?」という反論が予想されるからです。この主張には日蓮も賛成するでしょう。となると、例の勝劣決定基準を使って「久遠実成釈尊よりも一念三千の法門が優れてるのだから、一念三千の法門を本尊すべき」という主張ができることになります。

 しかしながら、それに対しては、「いやいや、久遠実成釈尊は仏になる前に一念三千の法門を仮説として頭の中でまず生み出したんでしょう?そのあと自他ともにそれを検証してみた結果、自他ともに正しいって確信が生まれて仏というものがこの世にはじめて誕生したんじゃないの?だったら、一念三千の法門の生みの親は久遠実成釈尊だということになりませんか?」っていう反論もありえるでしょう。

 議論はこのあたりでループしていくことになるように思います。要するに、「能生が優れ、所生が劣る」という勝劣決定基準だけでは、久遠実成の釈尊(人本尊)と法華経に説かれる内証(法本尊)の勝劣を決することはできないということでしょう。その勝劣を決したいのであれば、別の勝劣決定基準を持ち出す必要がありますが、日蓮が別の基準を持ち出してこの問題を解決しようと試みている信頼に足る文献はございません。

 そもそも、日蓮には、法華経と久遠実成の釈尊の勝劣を決したいという意識などありませんでした。このことは、「日蓮個人は久遠実成釈尊像をも本尊として容認していた」(宮田「SGI各国のHPの教義紹介の差異について」、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/sgihp.html)ことからも明らかでしょう。「本尊問答抄」の成立後に日蓮が久遠実成釈尊像を本尊として容認しなくなったという事実もありません。日興も「御遷化記録」において、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像を「御本尊一体」と書いていますから(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p.184)、日蓮滅後の本弟子六人の共通認識としても、久遠実成釈尊像が本尊として許容されていたというのが事実です。

 日蓮にとって、法華経と釈尊は同体です(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、http://fallibilism.web.fc2.com/120.html)。このように法華経を釈尊と同体とみる思想は法華経じたいに存在します(松本史朗『法華経思想論』、大蔵出版、2010年、http://fallibilism.web.fc2.com/137.html)。

leaf真理と実在

 ちなみに、「理論と実在が一致するとき、その理論は真であると考える」というのが最も素朴な真理観(対応説)です(Libra「真理について」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html)。実在と一致している(と現在思われている、今のところあらゆる批判に耐えている)理論を(暫定的に)真理というにしても、まずは理論(仮説)をどこかで誰かが生み出さないとはじまりません。実在の方が理論を生み出してくれるわけではありません。そういう意味では、真理というものは、実在とともに無始無終にあるというようなものではなく、ある時点である人によって生み出されるものなのです。初期仏教では、その「ある人」を釈迦としますが、その「ある時点」を古代インドのある時とします。法華経も、その「ある人」を釈迦としますが(特殊な言い回しで)、その「ある時点」を「五百塵点劫」とします。どちらでも真理は「縁起」(=「空」)です。日蓮も、その「ある時点」を「五百塵点劫」としますが、その「ある人」のことを「本門の教主釈尊」といい、真理は「一念三千の法門」だといいます。「一念三千の法門」も「縁起」も内容的には同じでしょう(Libra「縁起と一念三千」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-11.html)。「一念三千の法門」と「空」も内容的には同じでしょう(新田雅章「中国天台における因果の思想」、仏教思想研究会編『因果』〔仏教思想3〕、平楽寺書店、1978年、http://fallibilism.web.fc2.com/122.html)。

leaf日蓮の「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」の思想は人本尊と両立している

 あと、宮田さんの文章には、日蓮が重視した「依法不依人」という思想をご自分の人本尊否定説に結び付けようとしているかのようなご発言があります(「『本尊問答抄』について(3)」の「(2012.1.30 付加)」の部分、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html)。しかし、日蓮は「不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり」(「報恩抄」)と言っています。「仏を除き奉りて」と言っていますので、日蓮の「依法不依人」という思想を人本尊否定説に援用することは不可能です。

 日蓮は、「宝軽法重事」において、「人軽しと申すは仏を人と申す法重しと申すは法華経なり」と述べていますが、同じテキストにおいて「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。」と述べています。つまり、「人軽しと申すは仏を人と申す」といっている時の「」の中には第一番成道の寿量品の釈迦仏は含まれていないことが明らかです。つまり、日蓮は第一番成道の寿量品の釈迦仏を別格に扱っているということです。そして、その別格の仏を(第二番成道以降の仏よりも重いとされる)法華経と同等視していることもそこから容易に読み取ることができるでしょう。日蓮にとっては「法重しと申すは法華経なり」という思想と「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。」という思想は連続していて矛盾がないということなので、そのように解釈する以外にないと思います。もっとも、「日蓮は支離滅裂な人である」という前提で解釈しようというのであれば別ですが。

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  1. 2017/04/18(火) 14:59:03|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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