仏教と批判的合理主義

ウィトゲンシュタインの自己撞着

leaf小野氏のご返事について

  前回の記事「真理という名の迷宮」では、小野不一氏のブログ「斧節」を読んでいて、賛成できなかった点のいくつかについて書いてみた。

  そして、本日、久しぶりに「斧節」を拝見して、小野氏からご返事があったことを確認した。

  わたしが確認したご返事は「反証可能性について」と「「絶対正義」が意味するもの」の2つである。

  時間がなかったので、検索機能を使ってピックアップしたので、もしかしたら読み落としているものがあるのかもしれない。

  わざわざご返事をブログに書いて下さった小野氏に心より感謝し、レスポンスが遅れたことをお詫びする。

  以下に、小野氏の今回のご返事について簡単にコメントする。

  なお、小野氏に対する今後のレスポンスも、今回のように遅れるであろうことをあらかじめ小野氏にお詫びしておく。


leafウィトゲンシュタインの自己撞着
  小野氏によれば、ウィトゲンシュタイン「が明らかにしたのは『言葉の限界性』である」 とのことだが、わたしはそのようには全く思わない。

  ウィトゲンシュタインの『論考』の文脈を正しく理解しさえすれば、『論考』自己撞着に陥っていることは明らかであろう。

  というのも、彼は、「哲学の正しい方法は、自然科学の命題以外は何も語らないことである」とはっきりと言っているのであるが(6.53)、どうひいきめに見ても、彼の『論考』の諸命題は「自然科学の命題」などではないからである。

  ウィトゲンシュタインじしんは、当初、その自己撞着を誇らしげに宣言していたが(6.54)、最終的には、『探究』の序文において、「重大な誤りを認めざるをえなくなった」と言っている。

  わたしは、『論考』の諸命題には十分に意味があると思うので、命題6.54は偽であると思うし、哲学の正しい方法が「自然科学の命題以外は何も語らないことである」などは全く思わないので、命題6.53も偽であると思う。

  前回の記事に書いたとおり、「語りえないことについては、沈黙しなければならない」という命題7は、何が語りえて、何が語りえないかをいわなければ全く何の意味もなさないし、ウィトゲンシュタインはそれをいうことに全く成功していないから、小野氏のように命題7を珍重するのは全くもって馬鹿らしいと思う。

  〔2012.02.05 補足:ウィトゲンシュタイン研究者によれば、ウィトゲンシュタインの「安易な神秘主義」は「自己の哲学的目標に対する重大な背信」なのだそうだ(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』、講談社、2003年、p. 83)。〕

leaf「霊山浄土変」は学術用語
  「霊山浄土変」は学術用語である。

  「霊山浄土」も「浄土変」も『岩波 仏教辞典』の項目に選定されている。一部を引用すると、以下の通りである。

霊山浄土[りょうぜんじょうど] 法華経が永遠に説き続けられる霊鷲山[りようじゆせん] を浄土とよぶこと,またその浄土.

(中村元 他編『岩波 仏教辞典』、岩波書店、1989年、p. 834)

〈浄土変〉とは,したがって浄土の姿を画図などに表現したものをいい,〈浄土変相〉〈浄土図〉などともいう.また本来の曼荼羅[まんだら]の語義からはずれて〈浄土曼荼羅〉と称することもある.

(同上、p. 442)

  小野氏は、「『日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?』という言説が有意味かね? 」とコメントされているが、「日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?」という言説が有意味であることは明らかであろう。有意味であるからこそ、以下のような対話が実際に成立したのである。
問答迷人さんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html

leaf「絶対的正義」は誤っている?
  「「絶対正義」が意味するもの」を拝読したが、わたしにはさっぱり理解ができなかった。これはもう、自らの理解力の貧困さを恨むしかないのかもしれないが、もしも小野氏に余裕があれば、さらにわかりやすく理由を述べて頂ければ幸いである。

leaf蛇足
  小野氏は、わたしのことを「山中講一郎氏もネットから撤退したので、2000年前後から活躍しているのは、もう彼くらいしかいない」と書いて下さっている。

  たしかに、わたしは、細く長くネットでやってきているし、これからもこんなスタイルだろうと思う。

  しかし、これは、わたしが、ネット以外の場からは(そして、おそらくはネット内においても)ほとんど無視され続けているというだけの話であって、なんら他人に自慢できることではないということをわたしは十分に自覚している。

  なので、小野氏の上の文中の「活躍している」という部分は誤っている。

  山中講一郎氏のようにきちんと業績を残していけば、ネット以外に活躍の場が広がっていくのは不可避であるし、そうなれば、相対的に、ネットに割ける時間もなくなっていかざるをえないのだ。

  しかし、わたしは、山中講一郎氏がホームページを完全にやめてしまわれたことには正直言って不満を感じている。

  ホームページなどは無料でいくらでもできるのであるから、紙媒体に発表したものをそのままホームページに公開することくらいはやろうと思えばできるはずである。

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  1. 2012/02/04(土) 05:21:05|
  2. その他
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
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コメント

ひとまず休憩(笑)

Libra君や、ひとまず休憩しよう。進展が望めそうにないから。

一つはね、ある言葉を別の言葉に置き換えることを我々は「説明」と称しているわけだが、こうした行為自体がトートロジーを避けられないわけだよ。

宗教の根源的なテーマとしては思考(言葉)と悟りをどう捉えるかが大事だと思う。

時間があったら、この辺を読むといいよ。
http://sessendo.blogspot.com/2012/02/blog-post_4259.html

尚、山中さんの苦衷が俺には何となく理解できるよ。組織からの軋轢(無視も含めて)は生半可な根性で乗り越えることができないからね。
  1. 2012/02/13(月) 20:03:27 |
  2. URL |
  3. 小野不一 #IOg9bXQk
  4. [ 編集]

Now it's your turn!

 小野さん、コメントありがとうございます。

 今は小野さんのターンですから、ゆっくり休憩されてもいいですよ。

 さて、「ある言葉を別の言葉に置き換えることを我々は『説明』と称している」という小野さんの言説は「説明」なのだろうか?

 「説明」でないとすれば、何なのだろうか?

 「説明」であるとすれば、上の言説は「トートロジーを避けられないわけ」なのだろうか。

 ところで小野さん、「創価仏法研鑚掲示板」がすっかり別ものになっているのはどういったわけなのでしょうか。よさそうな掲示板があったら参加しようと思っているんですけど(笑)
  1. 2012/02/15(水) 19:46:34 |
  2. URL |
  3. Libra #-
  4. [ 編集]

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