仏教と批判的合理主義

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真理という名の迷宮

leafウィトゲンシュタイン批判

  ずっと忙しくてブログを更新する暇が全くなかったが、ちょっとだけ時間に余裕ができたので、小野不一氏のブログ「斧節」を読んでいて、思っていたことを書いておくことにする。

  小野氏の意見に賛成できる点を書いてみたところで何の役にも立たないし、何も生み出さないので、賛成できない点についてのみ書くことにするが、それとて、そのすべてを書く余裕など全然ありはしないので、以下に記すことは、賛成できない点のごく一部にすぎない。

  さて、小野氏は、「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの説を高く評価しておられるようであるが(http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111205)、わたしから見れば、このような説を珍重するのはとても馬鹿らしく思える。

  これは、わたしがポッペリアンである以上、当然の判断だとも言えるが、いちおう、以下に、わたしなりの解説を試みてみたいと思う。

  〔2012.02.05 補足:ウィトゲンシュタイン研究者によれば、ウィトゲンシュタインの「安易な神秘主義」は「自己の哲学的目標に対する重大な背信」なのだそうだ(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』、講談社、2003年、p. 83)。〕


leaf語りえるもの=客観的事実

  「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」というような言説は、何が語りえて、何が語りえないかをいわなければ全く何の意味もなさないが、わたしの知る限り、ウィトゲンシュタインがそれを語った形跡はどこにもありはしない。おそらく、彼にとっては、「何が語りえて、何が語りえないか」ということじたいが「語りえない」ことのように思えていたのであろう。

  とにかく、「何が語りえて、何が語りえないか」を言うことなく、「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」などと言ってみたところで、そのような言説が何の意味もなさないことは明白である。

  さらに、「何が語りえて、何が語りえないか」ということじたいを「語りえない」ことであるかのように思い込んだウィトゲンシュタインの独断は、それじたいが誤っている。

  ごく簡単に言えば、われわれは、語りえるものを「客観的事実」といい、語りえないものを「主観的事実」という。ただそれだけのことだ。

leaf真理という概念の正体

  小野氏の「真理」という語の使い方についても、わたしは賛成できない。

  わたしの真理観についてはすでに説明してあるが(「真理について」、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html)、少し補足しておこう。

  まず、広い意味での「真理」には、次の2つが含まれる。

1.論理学でいうところの恒真命題(トートロジー)
2.真である客観的事実

  客観的事実の対立概念は、「主観的事実」である。

  「客観的事実」は、「間主観的事実」とも言う。たとえば、「2011年12月現在、富士山の高さは、3000メートル以上、4000メートル未満である」という言明は、一つの真なる客観的事実であり、その意味で真理である。

  真なる客観的事実については「真理について」http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-2.html)ですでに詳しく解説してあるので、これ以上の説明は不要であろう。

  一方、「2011年12月現在、AKB48の中で一番かわいいのは前田敦子である」という言明は、一つの主観的事実であり、それが真であるかどうかは、その人によって変わりうる。

  真偽問題を議論しうるのは、あくまでも客観的事実の領域の話である。これは哲学の基本中の基本である。

  ある客観的事実について、「~は真であるか?」という問いを立てて論争することには意味がありえる。その客観的事実は真であるか偽であるかのどちらかであり、論争している当事者のどちらかの結論が正しい。

  ある主観的事実について、「~は真であるか?」などという問いを立てて論争してみても無意味である。おそらくは、論争している当事者の両方ともが正しいのであろう。

leaf真理の普遍性とは

  次に、真理の「普遍性(universality)」について。

  真である客観的事実という意味での真理は、それぞれ、異なる「普遍性(universality)」をもつ。

  ここでいう普遍性というのは、要するに、「どれだけ多くの事象についてその言明が及ぶか」ということだ。

  たとえば、「2011年12月現在、富士山の高さは、3000メートル以上、4000メートル未満である」という真理は、日本に存在する一つの火山についてのみ妥当する真理であるが、仏教で真理とされる「縁起」はありとあらゆる事象について妥当するとされる。

  「2011年12月現在、富士山の高さは、3000メートル以上、4000メートル未満である」という真理は、「縁起」と同じく真理ではあるが、その普遍性は「縁起」に比べると圧倒的に小さいということになる。

  「普遍性が大きい」ことを「普遍的(universal)」ということもある。

leaf真理という名の迷宮

  「真理」という語は、「真理のうちで最も普遍性の大きいもの」という意味でも使われる。

  わたしは、このことじたいには反対しない。

  しかし、そこに、「深遠であるがゆえに言葉では決して表現できない」という意味をこっそりと付け加えるということがしばしば行われる。わたしはそのことに大いに反対なのだ。

  ある人物が、「わたしは真理のうちで最も普遍性の大きいものに到達した!」と言ったとしよう。その後で、さらに、「でも残念ながらそれは、言葉では表現できないんだ!」と言ったとしよう。

  そんな人物の発言は、まじめに受け取る必要が全くないとわたしなら考える。

  まず、その事実は「原理的に言葉で表現できない」というのであれば、それは、その事実が「客観性を欠いている」ということをすでに自ら告白しているということであり、その意味でそもそも真理などではありえない。

  また、「原理的には言葉で表現できる(=客観性を有する)はずであるが、残念ながら今の自分にはそれを実際に言葉で表現してみせる能力がない」というのであれば、「ならばあなたが到達したというその真理が、本当に真理といえるのかどうか、いえるとして、どのくらいの普遍性を有するのか、残念ながら議論できませんね」と答えるほかはないだろう。

  いずれにせよ、そんな人物の発言は、まじめに受け取る必要が全くないのだ。

  しかしながら、不思議なことに、世の中には、「深遠であるがゆえに言葉では決して表現できない何か」を追い求める人たちが案外いるのである。麻原彰晃なる詐欺師の妄言を、なにやらありがたいものであるかのように受け取った人たちが現実にいたのだ。

  このような「深遠であるがゆえに言葉では決して表現できない何か」を求めるメンタリティーがどこから来るのか、わたしには分かりかねるが、そんなものは、真理の探求には全く不要であり、真理に接近するためにははっきりと有害である。本人は真理を求めているつもりなのかもしれないが、そんなものは、むしろ、人間を、真理とは逆の方向に導く。そこには、真理を求めようとして、ますます真理から遠ざかっていくという喜劇があるだけだろう。

  わたしには、小野氏も、「真理」という語を「深遠であるがゆえに言葉では決して表現できない何か」を指すものとして使用する者の一人であるように見える。よって、以上のべたような理由から、小野氏のそのような使い方には断固として反対する。

leaf日蓮の曼荼羅は霊山浄土変では?

  小野氏は、日蓮の曼荼羅についても、「深遠であるがゆえに言葉では決して表現できない何か」を表現したものであるとお考えのようであるが、わたしは、そのような考えにも反対である。

  わたしは、日蓮の曼荼羅を、霊山浄土変の一種であると考える。このことについては、以下を参照されたし。

問答迷人さんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html

leaf「絶対的正義」は誤っている?

  小野氏は、わたしの主張する「絶対的正義」は誤っていると断じておられる(http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111117)。

  わたしの主張する「絶対的正義」については、以下を参照されたい。

特殊正義論・再論
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-24.html

  わたしは批判的合理主義者である。批判的合理主義については「批判的合理主義入門」(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-9.html)で解説してあるとおりだ。したがって、わたしは、小野氏の批判じたいは歓迎する。

  しかしながら、小野氏は、その批判の理由をほとんど何も述べておられないので、残念ながら、わたしは、小野氏の批判から、ほとんど何も学びようがないのである。よって、小野氏には、是非ともその理由をわかりやすく述べて頂きたい。


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テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/12/19(月) 04:39:17|
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