仏教と批判的合理主義

非合理主義者の歩く道

leaf 「世界は開かれている」

  この記事は、「真理について」という記事の続編です。

  わたしは、前回の記事の中で、「わたしたちは世界を自由に変更できたりしません」と書きました。まずはこのことについて補足説明しておきたいとおもいます。

  世界は変化していきます。わたしたちも世界の中の現象ですから、当然、変化していきます。わたしたちは、世界が自分たちにとって好ましいほうに変化することを望みますし、そうなるように最大限の努力をするでしょう。

  しかし、「自分たちにとって好ましいほう」といっても、それが人類の構成員全員にとって常に一致するなどということはとても期待できないでしょう。

  ある特定の問題(例えば、人類滅亡の危機を回避するとか?)については、もしかしたら一致団結できるかもしれません。しかし、《人類の全員が協力しさえすれば、どんな方向にでも世界を思い通りに変更できる》などということは期待できないでしょう。

  世界は容赦なく変化していきます。わたしたちは、世界が好ましいほうに変化するように努力をするわけですが、その努力は、《常にむくわれる》わけではありません。そのかわり、《常に裏切られる》ということもありません。「世界は開かれている」ということですね。


leaf 反証される危険が大きい理論ほど好ましい

  前回の記事では、「理論の真偽」について書きました。真理により近い理論が、わたしたちにとって好ましいというのは確かでしょう。しかし、理論というのは、真理に近くさえあればそれだけで十分というものではありません。世界についてより多くを語るものでなければ理論として価値が高いとはいえません。今回はこのような観点から、わたしたちにとって好ましい理論とはどういう理論なのかを考えてみたいとおもいます。

  理論には時間的なスコープというのがあります。たとえば、以下のような2つの理論のちがいを考えてみてください。

   理論1:少なくとも今のところ、Aさんは非合理主義者である。

   理論2:Aさんは、永遠に(死ぬまで)、非合理主義者である。


  理論2は理論1にくらべますと、世界(Aさんも世界の一部)についてより多くのことを語っています。理論2は明日以降の世界についても語っていますが、理論1はある時点の世界についてしか語っていません。

  また、理論2は、理論1にくらべてより反証されやすい理論だということができます。明日、なんらかの原因で、Aさんが合理主義者になったとしても、理論1は反証されませんが、理論2は反証されます。つまり、世界ついてより多くのことを語る理論ほど、反証される危険がより大きいということになります。

  より反証されやすい(=世界についてより多くのことを語っている)にもかかわらず、現実にはまだ反証されずに生き延びている理論は、わたしたちにとって好ましい理論といえそうです。

leaf 非合理主義者は議論によって変わりうるか?

  わたしは、前回の記事の中で、「わたしたちは、だれひとりとして真理を所有することなどできませんが、自分たちが誤っている可能性が常にあるということを深く自覚しつつ、みんなで協力して、おたがいに理論を厳しく批判しあっていくことによって、無限に真理へ接近していくことができると信じる」と書きました。このような態度を「合理主義」というとわたしは理解しています。

  ポパーがいうように、合理主義とは「感情や情熱に訴える代りに、〔中略〕明瞭な思考と経験に拠ることで可能な限り多数の問題を解決しようとする態度」であり、「喜んで批判的議論を傾聴し経験から学習する態度」であるとわたしはおもいます。

  「批判的合理主義」と「無批判的合理主義」(カール・ポパー)
  http://fallibilism.web.fc2.com/127.html

 とすると、非合理主義者というのは、明瞭な思考と経験に訴える代りに、感情や情熱に拠ることで可能な限り多数の問題を解決しようとする態度であり、議論から自分が何かを学べるとは本当は思っていない態度であるということになるでしょう。

  合理主義者や非合理主義者が、それぞれ、上記のような理念のもとに行動しようとしているということは認めてもよいかもしれませんが、彼らの実際の行動が、常に、彼らじしんの理念に忠実であるかどうかはまた別の話でしょう。自戒の念を込めていいますが、わたしたちは、しばしば、「無限に喜劇的」です。

  「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
  http://fallibilism.web.fc2.com/095.html

 とはいえ、ここでは、理念に忠実である徹底的非合理主義者がいると仮定して、話を進めてみましょう。彼は、議論から自分が何かを学べるとは思っていません。ですから、彼が、議論によって、自らの態度を改めようと思ったりすることはないでしょう。もしかしたら、感情や情熱に訴えれば、彼らを合理主義者に転向させることが可能なのかもしれませんが(釈迦という人は時々そういうことを実際にやってのけた?)。しかし、少なくとも、議論によって彼を合理主義者に転向させようとする試みはうまくいかないでしょう。

leaf 非合理主義者は生き残れるか?

  徹底的非合理主義者というのが現実にどれくらい存在するのか(あるいは存在しないのか)わかりませんが、実際にはそうお目にかかれないというのがわたしの実感です。

  ここでは、仮に、徹底的非合理主義者がいると仮定して、彼らが生き延びることができるのかを考えてみたいとおもいます。

  ふつう、理論というのは、何らかの問題を解決するために生み出されるものだとおもいます。世界とズレている理論を用いれば、問題を解決するのにたびたび失敗するということが起こるはずです。ところが、徹底的非合理主義者は、じぶんの理論が問題を解決するのに失敗したとは解釈しないでしょう。その理論でうまくいったときは、その理論が正しいことが証明されたと解釈するでしょうが、うまくいかなかった時には、「今回はたまたま何かのまちがいでそうなった(この「何か」の中身はアドホックに用意される)」ということになるのでしょう。

  理論が問題を解決するのにいくら失敗したところで、彼は、理論を放棄しなくてもすませることができます。しかし、そうすることによって、彼はどんな運命を引き受けることになるのでしょうか。彼は、理論を放棄しなくてもすむそのかわりに、問題を解決するのに失敗するという事態を引き受けることになります(彼じしんはそうは解釈しませんが)。こうなると、彼は、理論と心中するしかなさそうに見えます(問題を解決するのに失敗したときに被るダメージは理論の中身によって異なりますから、「心中」というほどのこともない場合も多いのでしょうが)。

  ただ、徹底的非合理主義者は、理論と心中するのに、他人を道連れにしようとするということがあるかもしれません。ここが大きな問題なのかもしれません。

  また、そもそも、徹底的非合理主義者なんて現実には存在しえない(自滅するくらいならば一時的・部分的にせよ合理主義者に転向するハズ?)のかもしれません。

  徹底的非合理主義者なんて本当にいるのかどうなのか。もしいるとして、そういう人がこの世界を生き残っていくことが可能なのか。わたしの中にあるこういった疑問は、今のところ、まだ解消していません。もうしばらく、いろんな人のふるまいを観察しながら、じっくりと時間をかけて考えてみる必要があるようです。

スポンサーサイト
  1. 2006/12/16(土) 20:48:48|
  2. 思想一般
  3. | コメント:4
<<『法華経』と釈尊の思想 | ホーム | 真理について>>

コメント

今回、私の素朴な疑問があります。
日本で最大の宗教団体の指導者や彼に忠実な一部な人々を私は
「徹底的非合理主義者」のように思っていたのですがもしかすると
これは誤解でしょうか?
教義や信念に対しては「徹底的非合理主義者」でも仕事や生活などで「徹底的非合理主義者」でないとしたら、彼らは「部分的非合理主義者?」でしょうか。
現実には「部分的非合理主義者?」しか存在しないとしたら興味深いです。(観察と考察にじっくり時間がかかるかもしれない(早急に結論出せないかもしれない)ですが...)
  1. 2006/12/16(土) 23:56:34 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

わたしの素朴な疑問

 昔、三色旗さんという方がおられました。この方については、わ
たしよりも、Leo さんのほうがよくご存知だとおもいます。
 
 Leo さんは、彼を、「徹底的非合理主義者」だったとおもわれま
すでしょうか。あるいは、彼は、「非合理主義者」としては、「無
限に喜劇的」だった(すなわち、徹底的ではなかった)のでしょう
か。
 もし彼が「徹底的非合理主義者」だったとすれば、彼が議論によ
って変わるということはありえなかったということになるとおもい
ます。彼は変わらなかったのでしょうか。もし、変わったとすれば、
何によって変わったのでしょうか。
 逆に、「徹底的非合理主義者」などではなかったとすると、彼は、
「日本で最大の宗教団体の指導者…に忠実な…人々」の中でも特別
な存在(レアケース)だったのでしょうか。
  1. 2006/12/17(日) 12:03:30 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさん、こんばんは。

> Leo さんは、彼を、「徹底的非合理主義者」だったとおもわれま
>すでしょうか。あるいは、彼は、「非合理主義者」としては、「無
>限に喜劇的」だった(すなわち、徹底的ではなかった)のでしょう
>か。
私の知っている三色旗氏(他にも三色旗というHNをみかけましたがLibraさんの掲示板に出ていた三色旗氏です)は「非合理主義者」としては、「無限に喜劇的」だったと思います。何々仏法と呼ばれるものが世界の現象を全て説明できるものだと誤解していたのですが(冷静に考えると世界の現象を全て説明できる理論がころがっていると思うのはおかしいわけですが)、後に世界とのズレを認識するようになりました。
> 逆に、「徹底的非合理主義者」などではなかったとすると、彼は、
>「日本で最大の宗教団体の指導者…に忠実な…人々」の中でも特別
>な存在(レアケース)だったのでしょうか。
これについては、他にも世界とのズレを認識するようになった方を
おみかけしましたのでそれほどレアではないと思います。
P.S.
以前お話していた小説人間革命を用いた批判は資料を仕舞い込んでしまって引っ張り出せないのと有用性を感じなくなってしまいましたので保留にしたいと思います。法華経が部派関連の件は今後題材になることを少し期待してます(もちろん急がないですが..)。
  1. 2006/12/17(日) 20:07:39 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Leo さん、おはようございます

 Leo さんが期待されている「法華経が部派関連の件」をわたしなりに想像してみて、新しい記事を作ってみました。
  『法華経』と釈尊の思想
  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html
 わたしの想像が的外れで、Leo さんの期待とは全く関係のないものになっているかもしれません。ご意見、ご感想などがありましたらよろしくお願いいたします。
  1. 2006/12/30(土) 08:36:38 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

最新コメント

記事一覧

カテゴリー

プロフィール

Author: Libra

友だち追加