仏教と批判的合理主義

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財務なんてどうでもいい

  創価学会には「財務」というシステムがあるが、これは、要するに、「教団に対する供養」である。

  ところで、創価学会は、会則の中で、「釈尊に始まる仏教の慈悲と平和の精神は、大乗仏教の真髄である法華経に集約され、一切衆生を救う教えとして明示された」とうたっているのであるが、実は、その法華経には、「教団に対する供養(=財務)なんてどうでもいい」と書いてあるのだ。

  よって、創価学会員は、「財務なんてどうでもいい」と理解するのが全く正しい。

  法華経には、たしかに、「教団に対する供養なんてどうでもいい」と書かれているので、そのことを以下に少し詳しく紹介しておこう。


  「教団に対する供養なんてどうでもいい」と書かれているのは、『法華経』の「分別功徳品」である。

  まず、鳩摩羅什の漢訳から該当箇所を示すと、以下のようになっている。

阿逸多。是善男子善女人。不須爲我復起塔寺及作僧坊以四事供養衆僧。所以者何。是善男子善女人。受持讀誦是經典者。爲已起塔造立僧坊供養衆僧。〔中略〕是故我説如來滅後。若有受持讀誦爲他人説。若自書若教人書供養經卷。不須復起塔寺及造僧坊供養衆僧。
(『法華経』「分別功徳品」、大正蔵第9巻、p. 45b-c)
  この書き下しは以下の通りである。

阿逸多よ、この善男子・善女人はわが為めにまた塔寺を起〈た〉て及び僧坊を作り、四事〈しじ〉をもって衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ。所以〈ゆえ〉は何ん。この善男子・善女人にしてこの経典を受持し読誦せば、為〈こ〉れ已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養せしものなればなり。〔中略〕この故にわれは説く『如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人のために説き、若しくは自らも書き、若しくは人をしても書かしめ、経巻を供養すること有らば、復塔寺〈またとうじ〉を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ』と。
(岩波文庫『法華経(下)』〔坂本幸男他訳注、1967年〕、pp. 58-60、〈〉印の部分は原文ではルビ
  ついでに、梵本からの和訳も引用しておこう。

 ところでまた、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を聞いて(それを)謗らず、むしろ随喜する人々を、私は深い願いをもって信順する良家の子と呼ぶのである。まして、(この法門を)受持し、読誦する人々はいうまでもない。したがって、この法門を書物にして肩に担う人は、如来を肩に担う人である。アジタよ、その良家の息子あるいは娘は、私のためにストゥパを建てたり、精舎を建てたりする必要はなく、比丘たちの集団に病いを癒す薬品(など)の生活必需品を布施する必要もない。それはなぜかといえば、アジタよ、(この法門を受持し、読誦する)その良家の息子あるいは娘は、すでに私の遺骨(舎利)に遺骨供養を行なったことになり、高さはブラフマー神の世界にいたり、周囲が次第に細くなり、傘蓋がめぐらされ、勝利の幡が立てられ、鈴が澄んだ音をたてている、七宝からなるストゥパを建てたことになるからである。〔中略〕このようなわけで、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を受持したり、読誦したり、教示したり、書写したり、もしくは書写させたりする人は、私が完全な涅槃にはいったあとで遺骨を納めるストゥパを建てたり、僧団への供養をしたりする必要はない、と私は言うのである。
(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、pp. 129-131
  以上の引用から明らかなように、法華経には、教団に対する供養の否定という思想がたしかに見られるのである。

  このことは、創価大学の菅野教授も認めている。

『法華経』の中に、部派教団との厳しい対立、緊張関係を見いだすことはそれほど難しいことではない。たとえばサンガ(仏教教団)に対する供養の否定という思想も見られるほどである。分別功徳品第十七には、「善男子、善女人よ。私のためにもはや塔寺を起てたり僧坊を作ったり、四事(衣服・寝具・飲食物・医薬)をサンガに供養する必要はない。なぜならば、この善男子、善女人が経典(『法華経』を指す)を受持・読誦するなら、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからである」と述べている。『法華経』の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としないという、見方によってはきわめてラディカルな思想を説いている。
(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、p. 50
  よって、創価学会員は、「財務なんてどうでもいい」と理解するのが全く正しい。

  いや、むしろ、「わたしは財務なんてしないのさっ!」と、堂々と胸をはって言える人のほうが法華経をよく読んでるとさえ言えるのである。

  逆に言えば、財務をしないことに罪悪感を感じてしまうような人は、法華経を全く理解していないのである。


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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/05/15(日) 03:01:56|
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