仏教と批判的合理主義

日蓮が法主仏従を強調した意図

leaf松本史朗博士の法師品解釈

  「法師品」には「『法華経』の経巻を〝生きている仏陀〟そのものと見なす考え方が説かれていると見ることができる」という松本史朗博士の説を以下に引用しておきます。

法師品─『法華経』の経巻を〝生きている仏陀〟そのものと見なす考え方(松本史朗)
http://fallibilism.web.fc2.com/137.html
  この松本説は妥当であるとわたしは思います。

  よって、日蓮の「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり(「守護国家論」)という主張は、『法華経』そのものに根拠があると思います。


leaf日蓮が法主仏従を強調した意図は?

  もっとも、日蓮は、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」ということを万人が直ちに理解できるとは考えていなかったようです。例えば、日蓮は、「法蓮鈔」に以下のように述べています。

 今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。〔中略〕此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。
(「法蓮鈔」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

  おそらく、日蓮は、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで仏種純熟していない人々に対しては、いわば対機説法的に、以下のような法主仏従の思想を説いて、最終的には、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで導こうとしたのだろうと思います。

法華経は仏にまさらせ給ふ事、星と月とともしびと日とのごとし。
(「窪尼御前御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm

法華経は仏にまさらせ給ふ法なれば、供養せさせ給ひて、いかでか今生にも利生にあづかり、後生にも仏にならせ給はざるべき。
(「九郎太郎殿御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
法華経と申すは三世十方の諸仏の父母也。めのとなり。主にてましましけるぞや。かえると申す虫は母の音を食とす。母の声を聞かざれば生長する事なし。から(迦羅)ぐら(求羅)と申す虫は風を食とす。風吹かざれば生長せず。魚は水をたのみ、鳥は木をすみかとす。仏も亦かくの如く、法華経を命とし、食とし、すみかとし給ふ。魚は水にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。鳥は木にすむ、仏は此の経にすみ給ふ。月は水にやどる、仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。
(「上野殿母尼御前御返事」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
人軽と申すは仏を人と申す。法重と申すは法華経なり。夫れ法華経已前の諸経竝びに諸論は仏の功徳をほめて候、仏のごとし。此の法華経は経の功徳をほめたり。仏の父母の如し。
(「宝軽法重御書」http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
仏はいみじしといへども法華経にたい (対)しまいらせ候へば蛍火と日月との勝劣、天と地との高下なり。仏を供養してかゝる功徳あり、いわうや法華経をや。
(「上野殿御返事」〔日興写本存〕http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/syahon.htm

  『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで達していない人であっても、日蓮が示した法主仏従の教示に導かれて、『法華経』の思想を学んでいきさえすれば、やがては、「法師品」「普賢菩薩勧発品」などの所説によって、『法華経』を釈迦仏と見れる段階にまで到達できるはずですから、法主仏従の考えを強調してみせるという日蓮のやりかたはとても合理的であるようにわたしには思えます。



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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/03/13(日) 20:34:17|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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  4. | コメント:12
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コメント

Libraさんへ

Libraさんや松本史朗博士は、法師品を以て法華経の仏身の思想を解釈されていますが、それは何度も言いますが間違っております。

そもそも、『法華経』の経典を釈迦牟尼仏そのものと見るという解釈に誤りがあります。

寿量品に、釈尊の常住不滅が説かれております。
なぜ、わざわざ『法華経』の経典を釈尊そのものと見なくてはならないのですか?

衆生の目には見えなくても、釈尊は実在しております。

Libraさんが、どのように解釈されても自由ですが、法華経と日蓮聖人の思想は、寿量品を本意としております。

寿量品に反する思想や解釈は、すべて間違いであります。
  1. 2011/03/13(日) 22:56:28 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

松本史朗博士の[『法華経』の経巻を″生きている仏陀〟そのものと見なす考え方]には、誤りがあります。

1.[〝遺骨〟を供養することよりも、〝生きている仏陀を供養する方が、功徳が大きい]と言われている。

釈尊の仏舎利を「遺骨」とし、釈尊を滅度の仏と見ている。
法華経の寿量品の「釈尊の常住不滅」の説、日蓮聖人の『守護国家論』の「此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」の文に違背する。

2.[〝『法華経』の経巻が読誦される場所にcaityaが作られるならば、そこには如来の生身の肉体が置かれていることになる〟ということを言うものであろう。つまり、この表現は、〝『法華経』の経巻に対する供養が、生きている仏陀に対する供養になる〟ということを述べていると考えられる。ということは、ここには、『法華経』の経巻を〝生きている仏陀〟そのものと見なす考え方が説かれていると見ることができる]と言われている。

「如来の生身の肉体が置かれていることになる」という表現を、「『法華経』の経巻に対する供養が、生きている仏陀に対する供養になる」と解釈している。
「・・・・・ことになる」というのは「・・・・・如く」であるので、「そのもの」という意味にはならない。

[『法華経』の経巻を〝生きている仏陀〟そのものと見なす考え方]は、法華経の法師品にはない。
法華経を如来の「如く」供養するのでありますから、法華経を釈尊そのものとは見ていない。法華経と釈尊は分けて見ているのであります。

「如来の生身の肉体が置かれていることになる」と書かれているにもかかわらず、法華経の経巻を「生きている仏陀そのもの」であるというのは、あまりにも無理やりな解釈であります。

最後に、松本史朗博士は、[「法師品」で・・・・・]と言われております。
Libraさんが引用された部分は、法華経の「法師品」に限定された内容であることは明らかであります。
法華経の思想は、「法師品」ではなく、「寿量品」によって開会されなければなりません。

ですから、Libraさんの見解は、法華経や日蓮聖人の思想とは全くかけ離れたものであります。
法華経や日蓮聖人の思想の説明には全くなりません。

  1. 2011/03/14(月) 10:24:04 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

一統さんの思想と日蓮の思想は「全くかけ離れたもの」です

 一統さん
 
 一統さんとは違って、日蓮じしんは「『法華経』の経典を釈迦牟尼仏そのものと見るという解釈」をしています。これは事実です。
 
───────────────
今の法華経の文字は皆生身の仏なり。〔中略〕此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。

(「法蓮鈔」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
───────────────

───────────────
釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一也。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。

(「四条金吾殿御返事」〔日興写本存〕、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/syahon.htm
───────────────

 「法蓮鈔」も「四条金吾殿御返事」も偽書ではないでしょう?
 
 ところが、一統さんごじしんは、「『法華経』の経典を釈迦牟尼仏そのものと見るという解釈は誤りである」というお考えなわけでしょう?
 
 一統さんの思想と日蓮の思想は「全くかけ離れたもの」です。
 
 『法華経』の経典を釈迦牟尼仏そのものと見るとしても、寿量品の思想にはなんら反しません。
 
 もし反するとすれば、一統さんの寿量品解釈に反するというだけの話でしょう。
  1. 2011/03/14(月) 19:29:31 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

『法華経』の経典は、釈尊の説かれた法であります。
寿量品の仏・本門の教主釈尊ではありません。

『法華経』の経典は、「経典」であって、「仏」ではありません。

『法華経』の経典を「釈尊そのもの」としていること自体、釈尊の常住不滅を否定していることになります。
衆生の目には見えないだけであって、釈尊は実在しております。

釈尊が常住不滅の仏であることが寿量品において説かれておりますので、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」とする必要がありません。
その必要があるのは、釈尊を滅度した仏と見ている人だけであります。

日蓮聖人の教化は、釈尊を「滅度した仏」と見ている人に、釈尊の常住不滅を信じさせることにあったので、『法華経』の経典の前には必ず釈尊がましますということを強調されたのであります。

これは、『法華経』の経典=釈尊というものとは明らかに違います。

『守護国家論』
「此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」
この文は、明らかに此の経(法華経)と仏(釈迦牟尼仏)を区別しております。

本門の教主釈尊は常住不滅であるのに、なぜ、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」とすることに拘る必要があるのでしょうか?
『法華経』の経典は、釈尊の説かれた法であるということに何の不都合があるのでしょうか?
  1. 2011/03/14(月) 21:13:09 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

あとは読み返してください

 一統さん
 
 一統さんのコメントに対する応答は、すでにわたしが書いたコメントだけでも十分だと思いますが、最後に一言だけ言っておきます。
 
 日蓮は、「法華経の文字は皆生身の仏なり」(「法蓮鈔」)と言っています。これは事実です。
 
 日蓮は、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」としています。しかし、だからと言って、日蓮が釈尊の常住不滅を否定していることになどなりません。
 
 法華経の文字は、日蓮にとっては、釈尊の「梵音声」そのものであり、釈尊の「心法」であり、「御意」そのものなのです。
 
───────────────
仏に三十二相有り皆色法なり。最下の千輻輪より無見頂相に至るまでの三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木絵の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏にあらず。又心法かけたり。〔中略〕木絵の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足する也。但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず、人天も三十二相あるがゆえに、木絵の三十一相の前に五戒経を此の仏は輪王とひとし。十善論と云うを置けば帝釈とひとし。出欲論を置けば梵王とひとし。全く仏にあらず。
 又木絵の二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし。方等・般若の一時一会の共般若を置けば縁覚とひとし。華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし。全く仏に非ず。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等の仏眼、大日の真言は、名は仏眼大日といえども、其の義は仏眼大日に非ず。例せば仏も華厳経は円仏には非ず。名にはよらず。三十一相の仏の前に法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり云云。

(「木絵二像開眼之事」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
───────────────


───────────────
法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたちとあらわしぬれば、顕形の二色となれる也。滅せる梵音声かえて形をあらわして文字と成って衆生を利益する也。

(「木絵二像開眼之事」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
───────────────


───────────────
 人の音を出すに二つあり。一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために音をいだす。是れは随他意の声。自身の思いを声にあらわす事あり。されば意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。されば意が声とあらわる。意は心法、声は色法。心より色をあらわす。又声を聞いて心を知る。色法が心法を顕わす也。色心不二なるがゆえに而二とあらはれて、仏の御意あらわれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。されば法華経をよませ給わむ人は文字と思し食す事なかれ。すなはち仏の御意也。

(「木絵二像開眼之事」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm
───────────────


 日蓮は「滅せる梵音声かえて形をあらわして文字と成って衆生を利益する也」と言っていますから、釈尊は永遠に説法を続けているわけであって、釈尊の常住不滅を否定していることになどなりません。
 
 もっとも、日蓮は、「法華経の文字」を「二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る」と言っていますので、万人がただちに法華経の文字を生身の仏と見れるわけではないと考えているようです。
 
 なので、一統さんが『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見れないとしても不思議ではありませんが、少なくとも、一統さんの思想と日蓮の思想は「全くかけ離れたもの」です。

 同じような内容のコメントを何度も書いて頂いても、対応に困りますので、あとは、わたしのこれまでのコメントを読み返して頂く他はありません。
 
 
  1. 2011/03/15(火) 05:50:23 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

『法蓮抄』
「教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給う」

『四条金吾殿御返事』
「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う 仏の御心はこの文字に備れり」
「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり」

『木絵二像開眼之事』
「滅せる梵音声かえって形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり」
「仏の御心あらはれて法華の文字となれり」

これらの御遺文では、いずれも、法華経は、「釈尊の御心」「釈尊の梵音声」「釈尊の功徳」とおっしゃっておられます。
「釈尊そのもの」ということとは違います。
「御心」そのもの、「梵音声」そのもの、と「釈尊」そのものとは意味が大きく違います。

御遺文にある「釈尊の御心」とは、「一切衆生を利益し、仏に成さんとする御心」であり、その御心が法華経の文字となっている。
これを、「釈尊」と「法華経」と心は一つとおっしゃっておられるのであります。
「一つ」「一体」と言われているのは、「一切衆生を仏に成さんとする御心」であり、「法華経は釈尊そのもの」ということではありません。

釈尊が永遠に説法を続けているのですから、『法華経』を「釈尊そのもの」とする必要は全くありません。

釈尊が、『法華経』を永遠に説法している。
「釈尊」と「法華経」と区別していても、何の不都合もないのであります。

『普賢菩薩勧発品』
「若し是の法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し」

Libraさんは、『法華経』を文字としか見れないようですから、「法華経=釈尊」としようとしておられるようですね。
衆生の目に見えない釈尊の実在を信じることが出来るならば、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」としなくても不都合はありません。

Libraさんのような人の為に、日蓮聖人は、「法華経の文字を生身の釈尊とおぼしめすべし」とおっしゃって、衆生の目には見えない釈尊の実在を信じるように導かれたのでしょう。

『如来寿量品』
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」

  1. 2011/03/15(火) 08:14:01 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

もう一言付け加えさせていただきます。

[『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見る]というのは、日蓮聖人の御遺文、特に『開目抄』『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』などの主要な御遺文には全くありません。

Libraさんが引用されている御遺文は、各檀那あてのものであり、こちらの方が対機説法的なものであります。

日蓮聖人の教えの本意は、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見ることではありません。

久遠実成の釈尊が、永遠に『法華経』を説かれていることを教えられておられます。

釈尊が常に法華経を説かれているのでありますから、法華経のあるところには必ず釈尊がおられるのであります。

このことは、「法華経を釈尊そのものと見る」というのとは違うことは明らかであります。

  1. 2011/03/15(火) 08:50:51 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

本門の教主釈尊は、寿量品に説かれておりますように、常住不滅の仏であります。

なぜ、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見なければならないのでしょうか?

『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見る必要性がどこにあるのかについて、お答え頂きたいと思います。

『法華経』の経典は、釈尊の説かれた法であるということに何の不都合があるのでしょうか?

「釈尊は釈尊、法華経は法華経」「本尊は釈尊(仏)、法華経は釈尊の説かれた教え(法)」とせずに、「法華経=釈尊」とする必要性がどこにあるのかについて、お答え頂きたいと思います。

最後に、この2点だけでも、明確に説明して頂きたいと思います。
  1. 2011/03/15(火) 16:05:37 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

先ほどのコメントの訂正です。

2点目の質問
「仏と法を一体とする必要性がどこにあるか」です。
  1. 2011/03/15(火) 16:19:33 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

これにて終了

 一統さん
 
 日蓮は、「法華経の文字は皆生身の仏なり」(「法蓮鈔」)と言っています。これは事実です。
 
 『法華経』という経典の文字はすべて生身の釈尊であると日蓮は言っているわけです。
 
 すなわち、日蓮は、『法華経』の経典を「釈尊そのもの」と見ているわけです。
 
 「守護国家論」 の「法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」 という文は、その直前の「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」という文を受けていることは明らかです。
 
 よって、「守護国家論」 のその部分は、末木先生のように、「『法華経』が釈迦仏そのものであるから、釈迦仏は亡くなっていない、今も仏の在世である」(http://fallibilism.web.fc2.com/120.html)と解釈するのが正しいのです。
 
 一統さんは、寿量品の常住説法の釈尊を、法華経とは独立して実在するものと理解されているようですが、そのような考えも日蓮とは「全くかけ離れたもの」でしょう。
 
 日蓮は「仏は此の経にすみ給ふ。〔中略〕仏は此の経にやどり給ふ。此の経なき国には仏まします事なしと御心得あるべく候。 」(「上野殿母尼御前御返事」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/shinseki.htm) と言っています。
 
 「法華経のない国には仏はいない」ということは、もしもこの世から完全に法華経が消滅してしまって、どこの国にも法華経がないということになってしまったら、仏はこの世のどこにもいなくなってしまうということを意味します。
 
 寿量品の常住説法の釈尊は法華経に住んでいるのです。法華経がこの世に存続する限りにおいて常住するのです。
 
 このことは、寿量品が埋め込まれている文脈からも明らかだと思います。
 
 寿量品がどのような文脈で説かれているかを簡潔に説明されている勝呂信静博士の文章を以下に引用しておきます。
 
───────────────
 この事は、法華経の本文についてもいえると思うのですが、法華経では見宝塔品の所で、宝塔が出現すると釈尊がその中に入って多宝如来とならばれて、いわゆる二仏並座される。そしてこの多宝如来は釈尊の教説は真実であると証明され、宝塔の中の釈尊は大衆に向って、自分はやがて入滅するだろうから法華経を汝らに付属して流布させようと思うといわれる。すると、涌出品に於て、地下から多数の地涌の菩薩が出現してきますが、これが大衆の唱導師であって、仏滅後の未来に法華経を流布する任務をもっておる訳です。それから又、釈尊が久遠の本仏であるという事が明らかにされて、神力品で付属をする。この付属について別付属か、総付属かという問題がありますが、とにかく上行等の菩薩が未来に現われて、この法華経を弘めるのであります。
 そうしますと、この未来、末世の我々にとって具体的に示されてあるものは、実は久遠の釈尊の精神を現わしたところの、いわば釈尊の代りとしての法華経である。いわば形而上的な久遠の精神よりも、具体的な形体としての法華経の方が我々にとって身近であるという事が、法華経の本文そのものの趣旨からもうかがえるようである。したがってこの経の一句一偈も受持すれば成仏するという法華経の信仰というものが説かれる。これは久遠実成の釈尊に対する信仰と別ではないけれども、我々衆生にとって身近なものは法華経であり、その法華経の奥にあるのが釈尊であるという思想の構造があるように思われるのです。

(勝呂信静「本尊観私見」、『現代宗教研究所所報』第4号、pp. 44-45、1970年、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/pdf/syoho04.pdf
───────────────
 
 
 わたしは、「寿量品の常住説法の釈尊は法華経とは独立して実在する」という一統さんの寿量品解釈じたいに賛成していないのです。
 
 よって、そのような寿量品解釈を前提とするご質問には、答えようがありません。
 
 「仏と法を一体とする必要性がどこにあるか」というご質問については、以下のような、2通りの答え方があるでしょう。
 
1.一統さんごじしんは、別に、仏と法を一体としなくてもかまわない。ご自身の寿量品解釈にもとづいて「仏と法は一体ではない」と考えてもかまわない。ただし、日蓮は確実に釈迦仏と法華経を同一視しているので、一統さんの思想と日蓮の思想は「全くかけ離れたもの」である。


2.仏教の開祖ゴータマ(仏)じしんが「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」(http://fallibilism.web.fc2.com/085.html)と言っているのであるから、仏教徒としては、仏と法を一体とする必要がある。

 また、以下のようなゴータマの遺言から、仏教徒は、ゴータマの死後は、ゴータマの説いた教えを師とする必要がある。

───────────────
アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、「教えを説かれた師はましまさぬ、もは やわれらの師はおられないのだ」と。しかしそのように見なしては ならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。

(「大パリニッバーナ経」、第六章第一詩。中村元訳『ブッダ最後の旅』 〔岩波文庫〕、岩波書店、1980年、p. 155)
───────────────
 
 仏教徒にとっての「師」とは、究極的には「仏」である。教え(法)を師とする必要があるということは、仏と法を一体とする必要があるということである。
  1. 2011/03/15(火) 20:49:09 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

このコメントを最後といたします。

私が、「寿量品の常住説法の釈尊は法華経とは独立して実在する」とは言っていないことは、先のコメントを読み返して頂ければわかると思います。

「釈尊が常に法華経を説かれているのでありますから、法華経のあるところには必ず釈尊がおられるのであります。」2011/03/15(火)08:50:51

釈尊が常住不滅の仏であるので、法華経がこの世界からなくなることは絶対にありません。

法華経が常住であるから釈尊が常住なのではなく、釈尊が常住であるから法華経も常住なのであります。
これは、日蓮聖人門下では常識であります。近来の文献学者ではどうかわかりませんが・・・。

Libraさんの見解は、全く逆であります。

釈尊が常に法華経を説かれているのでありますから、仏と法を一体としなくても、区別していても、仏も法も離れず常住いたします。

仏と法を一体としなければ、釈尊が常住しないという主張をしているLibraさんは、寿量品の「実には滅度せず」という釈尊の常住不滅を信じていないということですね。
  1. 2011/03/15(火) 21:31:26 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

お久しぶりです。
先日はクロさんのブログに、ご丁寧にボクへのコメントを戴き・ありがとうございます^^。

Libraさんの暖かい心根が伝わってきました。
人柄のいい方だなぁ。。と思いました。
とても嬉しい気持ちになりました。♪

ご存知だと思いますが、ボクは昔はバリバリの創価の活動家でした。
いろいろな真実を知り・いろいろ思い、今は非活動家です。

「アンチ創価」で、それでいて誠実さを感じるブログ・・・・
そういう場所に時折コメントさせて戴いたりしています。

GWも、あっという間でしたね^^;。
Libraさんは心地よく過ごされたでしょうか?

新緑の季節です。
初夏の爽やかな風を感じる季節です。

Libraさんの人生にも、益々爽やかな風が吹きますように!
益々良き微笑みの日々でありますように!

星空を見上げながら祈っています。

嬉しいコメント、どうもありがとう!(^0^)

kan
  1. 2011/05/09(月) 01:08:57 |
  2. URL |
  3. kan #-
  4. [ 編集]

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