仏教と批判的合理主義

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五字は即ち本門の教主釈尊なり

  つい先日、「日蓮法華 掲示板」において、【日蓮の曼荼羅の中尊である五字】と【本門の教主釈尊】との関係について、問答迷人さんと議論いたしました。

  その記録をじぶんのホームページにもアップしましたので、ご意見を伺えれば幸いです。

問答迷人さんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html
  「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」という「守護国家論」の文は、本尊抄を踏まえて読めば、「五字は即ち本門の教主釈尊なり」ということになるだろうというのが議論の骨組みです。

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テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/02/11(金) 08:29:55|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:25
<<日蓮が法主仏従を強調した意図 | ホーム | 創価学会教義の形成の試み>>

コメント

他者のブログにおいて議論するべきではないと思いましたので、こちらにコメントいたします。

Libraさんの返事の中に、「日蓮は、法華経と釈尊を同一視しております」とあります。
それならば、釈尊と法華経に、あえて主従関係を持たせるとすれば、どちらが「主」となりますか?

『本尊問答抄』をもって日蓮聖人の本尊の思想とするのは、いかがなものでしょう。
『報恩抄』には、「天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり」として日蓮聖人のみが末法に広める本尊を明かされております。

法華経の経典を本尊とするのは、天台・伝教の広められたものであります。
日蓮聖人の本意ではありません。

Libraさんが、法華経に忠実に読んでおられるのならば、法師品以外には、序品・方便品・寿量品・分別功徳品・薬王菩薩本事品等に、仏舎利を供養する事による功徳が説かれておりますので、法華経に反する事ではないことを御理解いただけるでしょう。

法を見れば、仏舎利を供養する事が釈尊を見ることだということがわかります。

わざわざ、仏舎利に法華経を読み入らせなくても、そのままで生身の釈尊であるということが、法華経を信じる者ならば、疑いのないことでしょう。

法華経の行者である日蓮聖人が、法華経の中に説かれている仏舎利供養を否定して、さらに、仏舎利を崇め、ありがたがる事を軽視なさるとは思えません。

  1. 2011/02/13(日) 16:06:24 |
  2. URL |
  3. 一統 #8IAY32QA
  4. [ 編集]

なんで日蓮の同意を求めるの?

 一統さん
 
 日蓮にとっては、久遠実成の釈尊と法華経は同等です。同等なのですから、「あえて主従関係を持たせる」ことは不可能です。
 
 『本尊問答抄』は偽書ではないでしょう?
 
 だったら、『本尊問答抄』によって日蓮の本尊の思想を理解しても何の問題もないでしょう。
 
 「仏舎利を供養する事による功徳が説かれている」ということは、「仏舎利を本尊とすべきであると説かれている」ということを全く含意しません。
 
 「仏舎利を供養する事」などよりも「法華経を供養する事」のほうが何倍もすばらしいというのが法華経の立場であることは明らかです。
 
 そもそも、あなたが本尊としようとしている遺骨というのは、ゴータマの遺骨なのでしょう?
 
 そのゴータマじしんが、「この腐っていく身体を見たからといって何になろうか」(相応部経典 22.87 vakkali、http://www.abhidharma.info/GV/note/buddhist-faith.pdf)と明言しています。
 
 遺骨を見たからといって何になるというのですか?
 
 あなたは、もう一度、法師品を読み返されたほうがよろしいのではないでしょうか。
 
 「法華経の第四法師品において、釈尊は『我が舎利を法華経に並ぶべからず』と戒めて言っている」というのが日蓮の解釈です。「祈祷鈔」は偽書じゃないでしょ?
 
 あなたが仏舎利を本尊とされるのはもちろんご自由です。
 
 しかし、それは日蓮の考えとは相反します。これは事実です。事実ですから、あなたが自由に動かすことなどできません。
 
 日蓮が仏舎利を本尊としたという事実がどこにありますか?
 
 ないでしょう?
 
 日蓮の直弟子が仏舎利を本尊としたという事実がどこにありますか?
 
 ないでしょう?
 
 あなたが仏舎利を本尊とされたいのなら自信をもってそうなさればよろしいのでは?
 
 ご自身のお考えに自信がおありなのでしたら、別に日蓮の同意などはそもそも不要でしょう。
  1. 2011/02/14(月) 20:18:39 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

先のコメントにおいて、『本尊問答抄』をもって日蓮聖人の本尊の思想とはならないことを説明しておりますが、御理解頂けないようですね。

もう一度、説明いたします。
『報恩抄』に、「天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり」として、末法に広めるべき本尊を定められております。
そして、『観心本尊抄』に、「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」とあり、末法に「始めて」出現する本尊であることが明らかにされております。
法華経の経典を本尊とするのは、像法時代の天台・伝教等によって広められておりますので、日蓮聖人の末法に始めて広める本尊とはなりません。
ですから、法華経の経典を本尊とする思想は、日蓮聖人の本意ではなく、傍意であります。

Libraさんは、「仏舎利を供養する事などよりも法華経を供養する事のほうが何倍もすばらしいというのが法華経の立場である」とおっしゃっていますが、法華経の法師品に一劫の間釈尊を讃める功徳よりも持経者を讃める功徳のほうが多いと説かれております。だからといって、釈尊よりも持経者のほうを敬うということはありませんね。仏舎利<法華経ということを断定するべきではありません。

法華経には、「遺骨を見たからといって、何になろうか」という思想はありません。未顕真実の経文によって法華経の経文を破してはなりません。

法華経の寿量品に釈尊の三身即一身が明らかにされております。歴史上の釈尊の久遠実成が顕されておりますので、釈尊の仏舎利は常住不滅の仏身であるといえます。
色心二法、色心不二であるので、釈尊の仏舎利を遺骨と侮る事は釈尊を侮る事になるというのが、法華経の法門であります。

ですから、久遠実成の釈尊=歴史上の釈尊(ゴータマ)であるので、滅後の釈尊の仏身である仏舎利は久遠実成の釈尊の仏身ということになります。

日蓮聖人や日蓮門下の先師が、仏舎利を本尊としていないのは、
1.釈尊を下げ、阿弥陀仏や大日如来などを本尊とする時代であったため、釈尊すら本尊としないのに釈尊の仏舎利を本尊とすると言っても誰も信じる人がいない
2.まず、法華経最第一を説く必要があった
3.法華経最第一ということが広まれば、釈尊を本尊とすることが明らかになる
という理由があると思われる。
仏舎利を感得することができれば本尊とするべきではあるが、仏舎利は誰もが感得できるものではないので、大曼荼羅をもって、本門の教主釈尊および釈尊の仏舎利を拝するのです。

大曼荼羅には、法華経の「仏舎利を以て起塔供養する」という意が含まれております。
ですから、法華経の説の如く修行するとき、実際に仏舎利を供養することも行われ、法華経の行者である日蓮聖人の教えに反する事もないでしょう。
  1. 2011/02/14(月) 23:17:07 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

だからなんで日蓮の同意を求めるの?

 一統さん
 
 先のコメントにおいて、『本尊問答抄』をもって日蓮の本尊の思想を理解しても何の問題もないことを説明しておりますが、御理解頂けないようですね。
 
 仏舎利信仰は、ゴータマ滅後にすぐ広まったのですよ?
 
 末法に「始めて」出現した本尊は曼荼羅でしょう?
 
 五字を本尊とすべきことは、天台は【知っていたが広めてはいない】というのが日蓮の認識ですよ?
 
 天台は法華経の経典を本尊とすべきことをべつに広めてはいないでしょう?
 
 何度でも申し上げますが、「仏舎利<法華経ということを断定するべきではありません」という一統さんのご理解は、日蓮の理解とは相反します。「祈祷鈔」は偽書じゃないでしょ?

 「未顕真実の経文によって法華経の経文を破してはなりません」などとおっしゃいますが、わたしは、相応部経典によって法華経じたいを破しているわけではありません。あなたの法華経理解を破しているだけです。

 「仏舎利を供養する事」などよりも「法華経を供養する事」のほうが何倍もすばらしいというのが法華経じたいの立場であることは明らかですから、 法華経じたいは「相応部経典 22.87 vakkali」になんら反しません。
 
 ゴータマは、「この腐っていく身体を見たからといって何になろうか」(相応部経典 22.87 vakkali、http://www.abhidharma.info/GV/note/buddhist-faith.pdf)と明言しています。これはフィクションではなくて事実です。事実ですから、あなたが自由に動かすことなどできません。
 
 「久遠実成の釈尊=歴史上の釈尊(ゴータマ)である」というのなら、その久遠実成の釈尊じしんが「この腐っていく身体を見たからといって何になろうか」と明言していることになります。
 
 
  1. 2011/02/15(火) 05:33:07 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

そもそも、仏舎利信仰と仏舎利を本門の教主(久遠実成)釈尊として本尊とすることとは、全く違います。

釈尊の滅後すぐに始まった仏舎利信仰は、Libraさんが言う「この腐っていく身体を見たからといって何になろうか」というゴータマの教えに反しているのではないでしょうか。釈尊の滅後すぐに釈尊の教えを直に聞いた仏弟子達が、なぜ釈尊の教えに背いているのでしょうか。
それは、法華経の教えを聞いて仏舎利は釈尊の常住不滅の仏身である事を信受していたからです。
しかし、この教えは、末法に広める法門であるために、このことを秘して伝えなかったのです。

妙法蓮華経の五字を本尊にすることと法華経の経典を本尊とすることとは意味が違います。
天台大師は法華三昧で法華経一部を本尊としています。
『開目抄』には、「善無畏・不空等法華経を両界の中央におきて大王のごとくし・・・」とあり、法華経に帰伏した後には法華経(経典)を本尊としています。
そのほか、法華経の経典を本尊と崇めている例は多くあります。しかし、妙法蓮華経の五字を本尊としているのは日蓮聖人が始められました。これは事実ですから・・・。

『祈祷抄』についてですが、文章の文脈・文意を見ないで切り文にして言葉に固執するべきではありません。「義によって語によらざれ」であります。
『祈祷抄』において、法師品と涅槃経を引用されているのは、諸仏は法華経を師として仏になり給う事を強調されて、法華経が諸経および諸仏よりも優れていることをいわれたものです。法師品の時点では釈尊も始成の仏としておられたのでこのように説かれたのです。
ご存知のように、法師品の後に寿量品が説かれ久遠実成が顕されます。

寿量品には、「実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖もしかも見ざらしむ」とあります。
私たちは顛倒の衆生であるから釈尊が滅度して腐っていく身体と見ているが、実には仏舎利が常住不滅の仏身であり常に法を説く久遠の釈尊であるということであります。
この寿量品は、久遠の釈尊じしんが明言しているのです。事実ですから・・・。

法華経の経典は本尊ではありません。本尊である釈尊の説かれた教法であります。
普賢菩薩勧発品には、「法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し」とあります。
この経文をもって、『守護国家論』において、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」といわれているのです。
法華経=釈迦牟尼仏ではなく、生身の釈迦牟尼仏の口より法華経を聞いているが如く、法華経を読誦しなければならないという意味であります。
あくまでも、法華経は釈尊の説かれた教法として同一視はしておられません。

  1. 2011/02/15(火) 08:37:23 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

日蓮聖人は、法華経と釈尊を同一視しておられません。
釈尊は一人でありますが、説かれた教典の法門によって、勝劣を定めています。
『木絵二像開眼之事』において、「木絵二像の前に阿含経を置けば声聞とひとし、・・・・・華厳・方等・般若の別円を置けば菩薩とひとし全く仏にあらず・・・・・法華経を置きたてまつれば必ず純円の仏なり」とあります。
これは、木絵の仏像の開眼についてでありますが、釈尊もまた、小乗経の法門を以て見た釈尊、権大乗経の法門を以て見た釈尊、法華経の迹門の法門を以て見た釈尊、法華経の本門の法門を以て見た釈尊というように、勝劣を定められています。
そこで、日蓮聖人は本門の釈尊を本尊とされているのです。
この法華経というのも、久遠実成の釈尊が久遠よりこのかた説き続けられている教法であって、久遠実成の釈尊そのものではありません。

諸仏は、久遠実成の釈尊の説かれた法華経によって成仏するのですから、「諸仏は法華経を師とする」とは言っても、正確に言えば、「諸仏は久遠実成の釈尊を師として、釈尊の説かれる法華経によって成仏する」ということであります。

日蓮聖人が、法華経と釈尊を同じように見ていると思われる文は、上記の意味であり、法華経を拝読すれば、釈尊という仏を本尊とすることは明らかであります。だから、日蓮聖人は、釈尊以外の仏を本尊としている人々に対して、「諸仏は久遠実成の釈尊の説かれた法華経によって成仏したのだから、その法華経を信じて根本である釈尊を本尊としなければならない」ということを言われているのであります。

「法華経を本尊とする」というのも、「法華経(を説かれた久遠実成の釈尊)を本尊とする」ということを省略したものであります。
釈尊と諸仏との勝劣を定める時に、諸仏は久遠実成の釈尊の説かれた法華経によって成仏したということを強調するために、「法華経」を「諸仏」に対して勝れているとしているのであって、久遠実成の釈尊と法華経との勝劣を定める時は、「法華経」は「久遠実成の釈尊」の説かれた教法であると区別されます。

Libraさんは、妙法蓮華経の五字と法華経の経典を同一視されているようですが、間違っていると思います。

日蓮聖人の大曼荼羅の妙法五字は、法華経の経典(一部八巻二十八品)ではありません。
  1. 2011/02/15(火) 11:58:19 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

一統さんへ

 一統さん
 
 今は、あまり時間がとれませんので、また暇なときにでも詳しく応答したいと思いますが、どうやら、あなたは、「法華経には広・略・要がある」という日蓮の考えをご存知ないようですね。
 
 わたしはそこから説明しないといけないようですが、今は、あまり時間がとれませんので、「法華経題目抄」と「法華取要抄」をご自分で予習されておいて下さい。
 
 あと、仏舎利を本尊とせよと説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用しておいて下さい。
  1. 2011/02/15(火) 19:31:47 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ
お忙しいようなので、一言だけ。

法華経の広・略・要は、広=略=要ではありません。
「妙法蓮華経の五字は経文にあらず、其の義にあらず、唯一部の意なるのみ」(四信五品抄)
日蓮聖人は、妙法蓮華経の五字は経文ではないと、おっしゃっておられます。ですから、大曼荼羅および上行等の地涌の菩薩に付嘱された要法の南無妙法蓮華経の五字は法華経の経典ではないのです。

法華経は、久遠実成の釈尊の説かれた教法です。
ですから、法華経≧本門の教主釈尊ではありません。釈尊が法華経を説かれなければ法華経の教典は存在しないのですから・・・。

本門の教主釈尊=法華経の経典ではないのです。
  1. 2011/02/15(火) 21:45:13 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

法華経の文を引用しておいて下さい

 一統さん
 
 五字は、まあ、「経典」というと語弊があるかもしれませんが、教法であることはまちがいありません。真理を語った仏の言葉です。
 
 五字には内容があります。五字の内容は一念三千です。本尊抄に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」とある通りです。天台は「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出」したというのが日蓮の認識です(「兄弟鈔」)。
 
 日蓮は自らの「法華経の題目を以て本尊とすべし」という主張の根拠を示して以下のように述べています。
 
───────────────
法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処、若説若読、若誦
若書、若経巻所住之処、皆応起七宝塔極令高広厳飾。不須復安舎利、所以者何、
此中已有如来全身」等云云。涅槃経の第四如来性品に云く「復次迦葉、諸仏所
師所謂法也、是故如来恭敬供養以法常故諸仏亦常」云云。天台大師の法華三昧
に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置せよ、亦必ずしも形
像、舎利並びに余の経典を安ずることをもちいざれ。唯だ法華経一部を置け」
と等云云。

(「本尊問答鈔」、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/syahon.htm
───────────────

 五字を本尊とすべきことの根拠として上のように述べているのですから、五字は教法であり、仏の言葉であるというのが日蓮の認識であることはまちがいありません。

 もっとも、「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(「法華取要抄」)とありますから、おっしゃる通り、「広=略=要ではありません」が、そのことはわたしの主張に対する反論の根拠には全くなりません。
 
 暇なときにきちんと応答いたしますので、仏舎利を本尊とせよと説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用しておいて下さい。じゃないと、誰もあなたの説を検証できません。
 
 あなたは、あなたの説をきちんと検証してもらいたいのでしょう?

  1. 2011/02/16(水) 05:28:00 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ
法華経の経典(一部八巻二十八品)を本尊とするのは、日蓮聖人の思想として間違いである事を、御理解頂けたのでしょうか。

仏舎利を本尊とすることについては、もうすでに説明しております。
釈尊の仏舎利は、久遠実成の釈尊の仏身であります。
釈尊の身体が、滅後に仏舎利に姿形を変えただけであって、それを、「腐っていく身体、遺骨」と見るのは、法華経の寿量品を知らざる顛倒した衆生であります。
法華経の寿量品を信じる者の前には、滅後なりといえども釈尊の在世であります。釈尊の仏舎利も生身の釈尊であります。

Libraさんが、法華経をどのように解釈されても自由ですが、これは事実ですから、あなたが動かす事はできません。
  1. 2011/02/16(水) 07:46:52 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ
質問1.妙法五字を本尊とするとういことですが、教法を本尊とするということですか?
質問2.『報恩抄』の「宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」を引用されていますが、この「釈迦」は、妙法五字の教法の脇士、つまり、「久遠実成の釈尊」は、「妙法五字の教法の本尊」の脇士ですか?
質問3.久遠実成の釈尊は、妙法蓮華経の五字の教法を本尊としていたのですか?
  1. 2011/02/16(水) 09:00:16 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

Libraさんは、[日蓮聖人の思想は、法勝仏劣の立場に立っている。『守護国家論』の「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」の文によって、法華経と釈迦牟尼仏を同一視していた。法華経≧釈迦牟尼仏である。]という主張をされていますね。

しかし、日蓮聖人は、法華経と釈迦牟尼仏を同一視されてはおりません。

『守護国家論』の「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」の文は、法華経の普賢菩薩勧発品の「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は当に知るべし是の人は即ち釈迦牟尼仏を見るなり 仏口より此の経典を聞くが如し 当に知るべし是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」という文を引用して、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」とおっしゃっています。

これをもって考えると、法勝仏劣も法華経≧釈迦牟尼仏も成り立ちません。
法華経は、釈迦牟尼仏の仏口より説かれたものであります。また、法華経の経典を供養するのではなく、法華経を以て釈迦牟尼仏を供養すると説かれておりますので、法華経と釈迦牟尼仏を同一視しているわけではありません。

日蓮聖人は、一貫して釈尊を本尊とされておりますので、法華経を本尊とすると言われている文も、「法華経は最第一の経典であるので、法華経を信じて法華経を説かれた釈尊を本尊としなければならない」ということであります。
仏主法従の立場であります。
法華経は、釈尊が説かれたものであり、「釈尊そのもの」という意味はありません。

『観心本尊抄』において、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」 「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う」 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠をつつみ末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」とあります。
この「譲り与え給う」「授与せしめ給う」「懸けさしめ給う」のは、釈尊であります。法華経の経典・教法ではありません。「法」ではなく、「仏」が主体であります。
久遠実成の釈尊という仏が、妙法蓮華経の五字という要法を、「譲り与え給う」「授与せしめ給う」「懸けさしめ給う」のであります。

久遠実成の釈尊が、妙法蓮華経の五字の脇士になることはありません。また、久遠実成の釈尊は、妙法蓮華経の五字を本尊とし、師として成仏したのでもありません。
法勝仏劣は成り立ちません。法勝仏劣は、日蓮聖人の思想ではありません。

『報恩抄』の「宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」の文は、南無妙法蓮華経の五字を中尊として、釈迦・多宝・諸仏・上行等の四菩薩を脇士にしているが、妙法蓮華経の五字の教法を中尊にして本尊にしているのではなく、妙法蓮華経を説いた久遠実成の釈尊を本尊にしているのであります。

上記のように、法華経=釈迦牟尼仏は成り立たないので、妙法蓮華経の五字の教法は、本尊にはなりません。

日蓮聖人の本尊は、妙法蓮華経を我等衆生の頸に懸けさしめ給う久遠実成の釈尊であります。
  1. 2011/02/17(木) 08:49:11 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

止暇断眠などという師匠を持つとしんどい

 一統さん
 
 お願いですから、「仏舎利を本尊とせよ」と説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用して下さい。じゃないと、誰もあなたの説を検証できません。
 
 あなたは、あなたの説をきちんと検証してもらいたいのですよね?
 
 例えば、あなたは、寿量品の流通分である分別功徳品の「この経典を受持したり…するものは、私が入滅したのちに舎利の塔を建てる必要はな」いという文をどのように解釈されているのでしょうか。
  
  分別功徳品──舎利の塔を建てる必要はない(中村瑞隆訳)
  http://fallibilism.web.fc2.com/134.html
 
 「舎利の塔を建てる」ということは、言うまでもなく、舎利を供養するという意味です。
 
 布施浩岳博士の学説に果敢に挑戦されたあの勝呂信静博士ですら、この文は「仏塔供養に対する経の受持行の優位を述べ」ていると解釈せざるをえなかったのです。
 
  仏塔供養に対する経の受持行の優位(勝呂信静)
  http://fallibilism.web.fc2.com/135.html
  
 「本尊とは勝れたるを用ゆべし」(本尊問答鈔)という日蓮の立場からすれば、仏舎利を本尊とすべきではなく、法華経を本尊とすべきであるということになるのでは?
 
 あなたの質問に対して、簡単に回答しておきます。
 
回答1.五字の教法を本尊とするということです。五字の教法は、久遠実成の釈尊と一体であって同一です。五字は一念三千を内容とするものであり、久遠実成の釈尊のアイデンティティーは一念三千ですから、五字は久遠実成の釈尊と一体であって同一です。
 
 
回答2.宝塔の内の釈迦は、応身の側面をあらわしていて、五字の脇士となっています。五字は、久遠実成の釈尊(三身のうちの報身の側面)と一体であって同一です。わたしは、これを、報身正意の表現であると考えます。報身正意については以下を参照されてください。
  
  日蓮聖人は報身仏を中心に据えている(浅井円道)
  http://fallibilism.web.fc2.com/106.html
 
 
回答3.久遠実成の釈尊の本尊は一念三千です。もっとも、久遠実成の釈尊は一念三千を誰かに教わったわけではなく、大昔に自力で到達したのですから、五字は、久遠実成の釈尊じしんにとっては「教法」というよりは、自問自答の結果到達した「法門」です。自らが到達した法門を自らの本尊とするということは、全然おかしなことではありません。仏教の開祖ゴータマは、「わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう」(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.89)と言っています。

 
 日蓮は法華経と釈尊を同一視しています。このことについては日蓮宗の学者のどなたにも異論がないでしょう。
 
 川蝉さんが引用された『日蓮聖人遺文全集講義第十八巻』の「聖祖の説かれる釈尊と法華経とは、全く一箇のものである。・・・聖祖の法華経はそのまま釈尊なので、釈尊そのままが法華経なのである。それを小時、人格的名称としての釈尊と、法的呼称としての法華経と、異なった名で顕されているから、我等は別個ものもと思うのである。所が聖祖に於いては全く一なのである」という解説は全く正しいです。
 
 日蓮にとっては、「釈尊と法華経とは全く一箇のものであ」り「全く一なのである」というのが正しい理解なのです。
 
 川蝉さんも「釈迦仏と法華経の文字とは、形は異なれども心は一つなり。故に法華経の文字を拝見せさせ給はば、生身の釈迦如来に値ひ進らせたると思しめすべし」(「四条金吾殿御返事」)を引用されていましたね。
 
 「法華経は、釈尊が説かれたものであり、『釈尊そのもの』という意味はありません」という説を唱えたいのであれば、わたしではなく、川蝉さんと討論されてみてはいかがでしょうか?

 「釈尊と法華経とは、全く一箇のものである」という文を引用されたのは川蝉さんですから、説明責任は、彼にもあるでしょう。
 
 わたしは「五字は即ち本門の教主釈尊なり」と主張しているのであって、「久遠実成の釈尊が五字の脇士になっている」と主張しているわけではありません。
 
 法勝仏劣は、確実な遺文にはっきりと表明されていますので、まちがいなく日蓮の思想です。ただし、「>」ではなくて、「≧」です。
 
 一統さんの「『報恩抄』の「宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」の文は、南無妙法蓮華経の五字を中尊として、釈迦・多宝・諸仏・上行等の四菩薩を脇士にしている」という理解は全く正しい理解です。『報恩抄』の文を素直に読む限りそうなります。その部分の一統さんの理解は、わたしの理解と完全に一致しています。
 
 しかし、その理解は、川蝉さんの理解とは決定的に異なります。この点については、わたしとではなく、むしろ、川蝉さんと討論されるべきでしょう。
 
 わたしと一統さんの相違点は、五字は教法であるかそうでないかという点です。
 
 すでに、わたしは、五字は教法であることを日蓮の遺文を引用してご説明いたしました。法華経は教法ですから、「法華経の肝心」(「撰時抄」)である五字が教法(法門)でないということはありえません。五字が教法でないなら、天台が「五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出」すことなどそもそも不可能です。
 
 五字は教法であるということについても、日蓮宗の学者のどなたにも異論がないでしょう。川蝉さんも五字を「教乗(要法)」とか「末法要法」とか「釈尊所説の要法」などと書いておられましたね。
 
 「五字は教法ではない」という説を主張されたいのであれば、川蝉さんと討論されてみてはいかがでしょうか?
 
 上記のように、法華経=釈尊は成り立ちますので、法華経の肝心たる五字の教法が本尊になります。これは、久遠実成の釈尊を本尊とするということと同じことです。五字は久遠実成の釈尊と一体であって同一ですから。
 
 後は、川蝉さんに対するコメント、および、以下の拙文をよくお読み下さい。
 
  問答迷人さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html

 以上をちゃんとお読みになった上で、具体的に、わたしの発言を引用しつつ、質問されるのであれば、きちんと応答します。

 それをなさらずに、ご質問されると、わたしにとっては、すでに別の方に説明したことを、また一から説明しなければならないことになり、とてもたいへんです。
 
 しかし、まずは、仏舎利を本尊とせよと説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用して下さい。
  1. 2011/02/18(金) 01:06:50 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

日蓮聖人や、日蓮門下の学者が、「釈尊と法華経とは全く一箇のもの」と言われているのは、何度も言いますように、「釈尊の仏口より法華経を聞いていると思うべし」ということであり、Libraさんの解釈するような「釈尊そのもの・釈尊の仏身」ということではありません。我等衆生には見えないけれども、法華経を読誦する所には、久遠実成の釈尊がそこに実際にましましているのであります。
ですから、日蓮聖人や日蓮門下の学者の「釈尊と法華経とは一つ」という言葉を厳密に言えば、釈尊と法華経(経典・教法)には、「釈尊」と「釈尊の説かれた法華経(経典・教法)」と明確な区別があります。
Libraさんの主張されるような「釈尊=法華経」という「=」という記号を以て表されるのは、間違った解釈であります。

私の主張は、「五字は教法ではない」というのではなく、「五字は釈尊の説かれた教法である」ということであります。
ですから、「五字の教法」を本尊とするのではなく、五字の教法を説かれた「釈尊」を本尊とするということであります。
中尊に「南無妙法蓮華経」とありますけれども、五字の教法そのものを指すのではなく、五字を説かれた釈尊という仏を表現しております。

Libraさんとの相違点は、「釈尊=法華経」であるか、そうでないか、また、「教法」を本尊とするか、しないか、であると思います。

『本尊問答抄』についてですが、
はじめに、「法華経の題目を以て本尊とすべし」とあり、その文証として、法師品、涅槃経、天台大師の法華三昧を引用しています。
その後、「何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや」と、諸宗と天台宗との本尊の違いを指摘した上で、「仏と経といづれか勝れたるや」との問いに、「本尊とは勝れたるを用うべし・・・・・仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えられ、仏の方が法よりも勝れていると定めた上で、釈尊を本尊とされております。
その後、釈尊ではなく法華経を本尊とするのはなぜかという問いに、「仏は所生・法華経は能生・仏は身なり・法華経はたましいなり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」と答えられています。
この文脈・文意をもって考えると、『本尊問答抄』は、木画二像の開眼について、天台宗の法華経を以て開眼供養する義が釈尊と天台大師の教えであり、法華経の本意であることを書かれたものであることがわかります。
木画二像の開眼供養については、日蓮聖人は釈尊と天台大師の如く法華経を以てするということであります。

しかし、これは天台大師の広められたものであり、『本尊問答抄』の文末に、「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間 一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず」として、日蓮聖人の末法に広めるご本尊を明かされております。

『本尊問答抄』は、日蓮聖人の大曼荼羅の御本尊の説明、文証にはなりません。

『報恩抄』では、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」とあり、「法華経を本尊とすべし」「法華経の題目を本尊とすべし」とはされておりません。
これは、釈尊という「仏」を本尊とすることを明示しております。

『観心本尊抄』では、「未だ寿量の仏ましまさず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」とあり、「寿量の仏」「此の仏像」を本尊とされております。
全く「教法」を本尊とされておりません。

この「寿量の仏」とは、『寿量品』の「方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」と説かれているように、常住不滅の釈尊であります。
この常住不滅の釈尊は、顛倒の衆生には、目の前に実在しているにもかかわらず、見ることが出来ない。
常に此に住して「法」を説く実在の釈尊であります。

衆生に「法」を説くのは釈尊であって、「法」は釈尊によって説かれるものであります。

日蓮聖人は、この常住不滅の釈尊を本尊とされているのであります。
宝塔の内の久遠実成の釈尊が本尊であります。

仏舎利を本尊とするのも、『寿量品』の「実には滅度せず」を信じるが故に、常住不滅の釈尊の仏身・仏舎利を本尊とするのであります。

『観心本尊抄』には、「一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名く」とあり、寿量品の釈尊の常住不滅を信じないものは、たとえ法華経であっても、寿量品の一品二半に反するならば、小乗教・邪教・未得道教・覆相教であるということであります。

Libraさんが、「五字の教法を本尊とする」と主張するのならば、久遠実成の釈尊はどのように常住しているのでしょうか?
もし、「釈尊=法華経」であるならば、「五字の教法を本尊とする」のではなく、「五字の教法を説かれた釈尊を本尊とする」と表現しなくてはなりません。
なぜなら、法は久遠実成の釈尊が自ら悟られたものであり、法は久遠実成の釈尊の内証より取り出されたものであるからであります。

  1. 2011/02/18(金) 09:46:15 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

できないのですか?

 川蝉さんが引用された『日蓮聖人遺文全集講義第十八巻』の文章を一統さんのように解釈するのはどうしたって不可能でしょう。そこには「聖祖の説かれる釈尊と法華経とは、全く一箇のもの」であって、「聖祖の法華経はそのまま釈尊なので、釈尊そのままが法華経なのである」と書かれてあります。「聖祖に於いては全く一なのである」と書いてあります。
 
 「全く一箇のもの」であるものを「=」という記号を以て表しても、「間違った解釈」とは全然なりません。「全く一」なものを「=」という記号を以て表しても、「間違った解釈」とは全然なりません。
 
 これは、思想云々という以前の、たんなる国語の問題です。
 
 後は、川蝉さんに対して書いたコメント、ここでのこれまでの応答、および、以下の拙文で書いておいたことで応答としては十分だろうと思います。
 
  問答迷人さんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z025.html
 
 ところで、わたしは、あなたに「仏舎利を本尊とせよと説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用して下さい」と再三お願いしているのですが、あなたはなぜそれを拒否されるのですか?
 
 できないのですか?
  1. 2011/02/18(金) 20:38:33 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

私は、『日蓮聖人遺文全集講義』の文章を解釈しているのではありません。
日蓮宗の学者の見解は、様々でありますので、ある学者の見解だけで日蓮聖人の思想を断定するのは如何なものでしょう。

私は、『守護国家論』の解釈を以て、日蓮聖人は法華経と釈尊とを同一視しておられないことを説明しております。

先のコメントで、『本尊問答抄』について説明しましたので、「法よりも仏の方が勝れている」というのが、日蓮聖人の見解であると御理解いただけましたか?

仏舎利を本尊することについては、『寿量品』の「実には滅度せず」の一句を信じない人には、寿量品の一品二半より外の経文を引用しても無意味でありましょう。
  1. 2011/02/18(金) 22:15:40 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

だからなんで日蓮の同意を求めるの?

 一統さん
 
 少なくとも、川蝉さんが引用された『日蓮聖人遺文全集講義』の文章を書いた学者の見解は、「日蓮は法華経と釈尊とを完全に同一視している」というものです。
 
 これは事実です。ここまではよろしいですね?
 
 さて、一統さんは、「日蓮宗の学者の見解は、様々でありますので、ある学者の見解だけで日蓮聖人の思想を断定するのは如何なものでしょう」とおっしゃるわけですが、わたしが知る限り、「日蓮は法華経と釈尊とを同一視している」という見解に異を唱えている日蓮宗の学者などはおりません。
 
 一統さんは、そのような学者をご存知なのですか?
 
 もしそんな学者が本当にいるとおっしゃりたいのなら、具体的にその学者のお名前と著書もしくは論文の名前を教えて下さい。
 
 日蓮は『守護国家論』において、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」と書いています。これは事実です。

 「Aは即ちBなり」と書けば、それは「A=B」ということを意味します。これも、国語的な意味での事実です。
 
 事実ですから、あなたが自由に動かすことなどできません。
 
 「日蓮は、『守護国家論』において、普賢菩薩勧発品の文を『法華経=釈迦牟尼仏』と解釈している」というのが事実です。これは事実ですから、あなたが自由に動かすことなどできません。
 
 もちろん、あなたがどのように普賢菩薩勧発品を解釈しようともご自由ですが、「法華経と釈尊とを同一視すべきではない」というあなたのご主張は、少なくとも日蓮の主張とは相反します。
 
 あなたは、あなたごじしんの主張に自信がおありなのでしょう?
 
 だったら、べつに、日蓮の同意などは不要ではありませんか?
 
 自信を持って、あなたはあなたの主張を貫かれればよろしいのでは?
 
 もっとも、その際には、あなたの主張と日蓮の主張とは相反するということだけは正しく意識して頂かなければなりません。
 
 「寿量品の一品二半より外の経文を引用しても無意味」とおっしゃいますが、分別功徳品は寿量品の流通分です。分別功徳品は「その第一段(第一 ─ 一六偈を含む)において、寿量品を聞くことによる得益を詳細に述べ」ているのですよ?

 その分別功徳品において、「舎利の塔を建てる必要はない」とはっきり説かれています。「仏塔供養に対する経の受持行の優位を述べ」ています。
 
 わたしは、あなたに、「仏舎利を本尊とせよと説いているとあなたが理解しておられる法華経の文を全部引用して下さい」と再三お願いしているのですが、あなたはなぜにそれを拒否され続けるのですか?
 
 もうそろそろ引用されてもよろしいのでは?
 
 それとも、できないのですか?
  1. 2011/02/19(土) 00:29:15 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

仏教は、学問ではなく、信仰であります。
日蓮宗の学者の著書によらなくても、日蓮門下では、大曼荼羅をもとにして、御宝前には仏像を奉安しております。
釈迦・多宝の中央に法華経一部を奉安している寺院は一切ありません。
大曼荼羅は、本尊の図顕でありますから、当然、「仏像」として顕すことを前提にしております。

Libraさんの主張でありますと、法華経≧釈尊としていますので、仏像よりも、教法を本尊とするほうがよいということですね。
そのような寺院は、天台宗でも、日蓮宗でも、存在しておりません。
唯一、仏像を否定している日蓮正宗くらいなものであります。

学者の意見は学者の意見として認識いたしますけれども、日蓮宗の僧侶は日蓮聖人の教えに基づいて、寺院のご本尊を定めておりますので・・・。

日蓮宗の僧侶は、仏主法従を日蓮聖人の教えとしておりますので・・・。
そのような主張の著書がないのは、あえて発表する事でもないし、僧侶は学者ではないからであります。

仏主法従については、『本尊問答抄』の説明においてしておりますので・・・。

『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」を素直に読めば、本尊は、教法ではなく釈尊(仏)であることは明らかであります。

仏舎利について、「経文を引用しても無意味」と言ったのは、[『寿量品』の「実には滅度せず」の一句を信じない人には]と述べております。信じない人に何を言っても無意味でしょう。

一言申し上げておきますが、『分別功徳品』の「我が為に復塔寺を起て及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須いず」の文は、「必要がない」という意味ではありません。
もし、必要がないなら、塔だけでなく、寺院も僧坊も僧への供養も必要がないことになります。なぜ、塔だけ必要がないと偏った読み方をするのでしょうか?
その後、「所以は何ん、・・・・・すでに塔を起て・・・・・仏舎利を以て七宝の塔を起て・・・・・すでに無量千万億劫において是の供養を作しおわるなり」とあります。必要がないのではなく、すでに過去世に於いてしておりますので、ここに於いて、改めて、『寿量品』を信じる者に流通することはしないだけであります。
また、様々な肉体的、経済的などの事情が人によってあるので、それぞれの能力に従って、もし出来なくてもよろしいという意味であって、始めから能力や事情にかかわらず、する必要がないということではありません。
学者の誤った訳文ではなく、法華経の原文をよく拝読してください。
  1. 2011/02/19(土) 08:16:23 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

「日蓮は、『守護国家論』において、普賢菩薩勧発品の文を『法華経=釈迦牟尼仏』と解釈している」という見解は、日蓮宗の学者の見解ですね。
その学者は、いつの時代の学者でしょうか?
日蓮聖人門下は、鎌倉時代から続いております。
その学者の見解は、枝葉のものであり、誤りがあります。その誤りを、今現在の日蓮門下の学者の中で指摘していないだけであって、この学者の見解が、そのまま日蓮聖人の思想であるわけではありません。
この学者の見解に基づいて本尊を定めている寺院は一つもありません。

『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の文の、「教主」は、「教の主」という意味であって、「主」は、釈尊であります。
これによって、日蓮聖人は、「仏主法従」であったことが明らかであります。

ですから、Libraさんの「法主仏従・法勝仏劣」は誤りであります。
「釈尊>法華経」であります。

『守護国家論』の普賢菩薩勧発品の引用の中の「仏口より此の経典を聞くが如し」の文に、「仏口より」「此の経典を」とあるように、釈尊と法華経を区別されております。日蓮聖人はこの文によっているので、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」と書かれていても、法華経と釈尊を区別した上で、「法華経を釈迦牟尼仏より聞くが如し」という意味で書かれたものであるというのが、正しい解釈であります。

ですから、Libraさんの「法華経=釈迦牟尼仏」は、誤りであります。
「釈尊>法華経」であります。
  1. 2011/02/19(土) 12:58:26 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

Libraさんは、[「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」という文は「法華経=釈迦牟尼仏」となる]と主張されていますが、「=」は、互換性がありますから、「釈迦牟尼仏は即ち法華経なり」ともなります。

Libraさんは、法華経及び妙法五字の教法を指して、「これは本門の教主釈尊である」と言われているのでしょうか?

本仏である久遠実成の釈尊の実在を教法(法華経・妙法五字)にすり替えて、教法(法華経・妙法五字)を本尊とするという説を立てているのでしょうか?
  1. 2011/02/20(日) 11:16:04 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

日蓮聖人が、『守護国家論』において、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」とおっしゃっているのは、法華経と釈迦牟尼仏を同一視しているのではありません。
この文の段では、末代の凡夫の為の善知識を明かすにあたって、「人を以て善知識と為すは常の習いなり法を以て知識と為すに証有りや」「人を以て知識と為すは常の習いなり然りと雖も末代に於て真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り」という問答を以て、「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は当に知るべし是の人は即ち釈迦牟尼仏を見るなり 仏口より此の経典を聞くが如し 当に知るべし是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」という文を引用した後に、「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり 法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり」と述べられております。

この文脈・文意をもって考えれば、仏教の常の習いとしては人を善知識とするが、末代に真の善知識がなければ法(経典)を以て善知識とする、その理由として、釈尊は常住不滅の仏であるので、滅後に法華経を読誦する声は、在世に釈尊から法華経を聞いているのと同じであるということであります。

つまり、法華経(法)と釈迦牟尼仏(仏)を同一視しているのではありません。
「滅後の法華経の読誦の声」と「在世の釈迦牟尼仏の説法の声」を同一視しているのであります。

「法華経は即ち釈迦牟尼仏なり」の文は、「(滅後において)法華経(の読誦の声)は即ち(在世の)釈迦牟尼仏(の説法の声)なり」という文の省略したものであります。

ですから、Libraさんの主張している「法華経=釈迦牟尼仏」というのは誤りであります。
正しくは、「法華経の読誦=釈迦牟尼仏の説法」であります。
末代の善知識は、「常住不滅の釈尊」であり、その説法が「法華経の経典」であります。
  1. 2011/02/22(火) 08:08:30 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

日蓮聖人は、『報恩抄』において、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と述べて、釈尊を本尊とすべきであると明言しておられます。

ですから、Libraさんが主張している、「妙法五字の教法を本尊とする」というのは誤りであります。

法華経の本門寿量品の肝要「妙法蓮華経の五字」の教えの主は、釈尊であります。

妙法蓮華経の五字の教法を本尊とするのであれば、「本門の教法妙法蓮華経を本尊とすべし」と述べられるはずであります。
しかし、「本門の教主」と明言されております。「本門の教の主 釈尊」。

『報恩抄』に説かれている本尊は、「(法華経の)本門(寿量品の肝要 妙法蓮華経 の五字)の教(えの)主 釈尊 を本尊とすべし」という文の省略であります。

これを、日蓮聖人は大曼荼羅において中尊に、「南無妙法蓮華経」と認めておりますが、妙法蓮華経の五字の教法を指しているのではなく、「南無妙法蓮華経(を地涌の菩薩に付属し給い、末代の衆生に授与せしめ給う久遠実成の釈尊)」の意味であります。

「法華経(妙法五字の教法)=釈迦牟尼仏」は、成り立たないので、妙法五字の教法が本尊となることはありません。
  1. 2011/02/22(火) 08:35:57 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

Libraさんへ

釈迦牟尼仏は、常住不滅の仏であります。
私達衆生の目には見えないけれども実在しております。

釈尊の仏舎利は、在世には釈迦牟尼仏の仏身の内に具わっております。釈迦牟尼仏そのものであります。なぜ、滅後において、釈迦牟尼仏そのものではなくなってしまうというのでしょうか?そのようなことは絶対にありえません。

釈尊の仏舎利=在世の「釈尊の仏身」=久遠実成の「釈尊の仏身」=本尊(本門の教主釈尊)

これは、成り立ちます。事実ですから、あなたが何と言おうとも、自由に動かすことはできません。

法華経は、「一念三千」を説いておりますので、釈尊の仏舎利のみが本尊であるということではありません。
ですから、大曼荼羅や釈尊の仏像も本尊とすることが出来ます。
しかし、釈尊の仏舎利が久遠実成の釈尊の仏身そのものでありますので、本尊の本体となるのであります。
  1. 2011/02/22(火) 08:57:31 |
  2. URL |
  3. 一統 #-
  4. [ 編集]

読み返してもらうしかない

 一統さん
 
 あなたのコメントに対する応答としては、すでにわたしが書いたコメントで十分だろうと思います。
 
 あとは読み返して頂く他ありません。
  1. 2011/03/13(日) 21:05:05 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

お二人の激論を拝し、大変お二人ともお詳しいので感心いたしております。第三者の立場から拝見いたしました所、一統さんの考えはあまりにもとらわれが多く感じられますし、どう拝見しても謝った見方である事が感じられます。
途中からお邪魔してすみません。是非、また拝見したいのでお続け下さい。
  1. 2011/11/01(火) 12:28:41 |
  2. URL |
  3. SHO #-
  4. [ 編集]

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