仏教と批判的合理主義

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創価学会教義の形成の試み

leaf秋谷会長への手紙

  わたしは、2001年1月に、当時の創価学会会長・秋谷栄之助氏に対して、以下のような手紙を書いて送ったことがある。

秋谷会長への手紙
http://fallibilism.web.fc2.com/z007.html
  この手紙において、わたしは、創価学会の教義が「未だ近代化されるに至っていない現状」を早々に改善すべきことを訴えたのであるが、残念ながら、ほとんど相手にされなかった。


leaf創価大学の宮田幸一教授

  しかし、創価大学の宮田幸一教授もまた、遅くとも2002年から、論文の中で同じようなことを主張されていたようである。

私の個人的関心は創価学会の思想的意義を現代の文化、社会の中で解明するということにあるが、創価学会がその母教団である日蓮正宗の伝統的教義に固執していることに関しては、以前から疑問を持っていた。特に明治以降の仏教学や日本仏教の学問的成果と、それらの学問が成立する以前の室町、江戸時代に形成された宗学の間には大きなギャップが存在することを、創価学会が無視しつづけることは困難であろうと思っている。(注1)

(宮田幸一「ジャクリーン・ストーン『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (本覚と中世日本仏教の変容)』について」、東洋哲学研究所紀要第18号、2002年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper2stone.html

(注1)…今後創価学会が独自の教義を再構築するにあたって、私は、仏教、日蓮思想、歴代会長による現代的解釈の3つを統合する必要があると考えている。その場合に、現代の仏教学、歴史学の成果をある程度踏まえて現代の学説に大きく離反しないようにすべきだと考えている。

(同上)

日蓮正宗は室町、江戸時代に形成された、文献学的な観点からは問題が多すぎる教学を現代の仏教学、歴史学との対決の中で正当化するという課題を放棄しているが、マイナーな自閉的教団であればその態度は維持できるが、創価学会のような大きな教団になるといつまでもそのような態度は取れない。

(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(1) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-1.html

  日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。

(宮田幸一「日興の教学思想の諸問題(1)-1 資料編」、創価大学人文論集第18号、2006年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper5-1.html

  日蓮正宗はいくつかの重要な文献に関して、日興正筆の存在を主張するが、その主張を客観的に証明するための文献資料の公開をしていなかった。部外者の学者のみならず、在家信者の創価学会員にも、また日蓮正宗の一般僧侶にも公開していなかった。
  さらに創価学会は日蓮正宗の在家団体であり、日蓮正宗の教義の解釈権を持たず、教義の最終的解釈権は日蓮正宗にあるから、創価学会がそれなりの自立的な研究により、日蓮正宗の公式見解とは別の見解を発表するということも制度的に不可能であった。しかし現在創価学会は日蓮正宗とは教義的には無関係な教団となったのだから、日蓮正宗とは無関係にその教義の説明責任を果たさなければならない。


(同上)

leaf日蓮本仏論否定には賛成

  宮田は【日蓮本仏論という教義は日蓮や日興にはなかった】と主張している。

筆者は大石寺教学の特徴である日蓮本仏論は開山日興(1246-1333)、重須学頭三位日順(1294-1356-?)、四世日道(1283-1341)にはまだ見られないと考えており、その思想は六世日時(?-1365-1406)の『本因妙抄』写本で明らかになり、九世日有においてさらにより明確に主張されたと考えている。

(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(1) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-1.html

  私は日蓮本仏論という教義が日蓮、日興、日目(1260-1333)、日道にはまだなく、日蓮御影崇拝ならびに釈迦仏造立否定という日蓮正宗に伝わる化儀から、その化儀を正当化する理論として日蓮本仏論が形成されてきたと考えている。

(同上)

  わたしじしん、かつて、「日蓮の思想」と「日蓮本仏論」とは両立しえないことを論証したことがある(以下の記録を参照)。

《日蓮本仏論》再考
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html
  また、初期の興門教学に日蓮本仏論などなかったことについても、すでにわたしじしんが指摘していた(以下の拙文を参照)。

初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html
  だから、宮田の【日蓮本仏論という教義は日蓮や日興にはなかった】という主張じたいにはもちろん賛成である。

leafLibraと宮田の相違点

  次に、わたしと宮田の相違点について述べておこう。

  わたしと宮田では、少なくとも次の3点において大きく異なっている。

1.宮田はまだ新教義を提示していない。

2.宮田は歴代会長の解釈を日蓮思想と統合可能であると考えている。

3.宮田は仏本尊(人本尊)を否定している。

leaf研究のプライオリティ

  すでに引用したように、宮田は「説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務がある」と言っている。

  しかし、彼はまだその「新しい教義」を何ら提示していない(それは『創価学会研究』の第2部「日蓮論」で提示される予定なのかもしれない)。

  筆者は、創価学会と日蓮正宗との分離という状態を踏まえ、創価学会の宗教的理念を学問的に検討するために、『創価学会研究』理念編4部作、すなわち第1部日蓮正宗論、第2部日蓮論、第3部現代宗教論、第4部創価学会論の執筆を計画している。

(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(1) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-1.html

  宮田が今だにやっているのは第1部の日蓮正宗論のようであり、主として、日蓮正宗他に伝わるあやしげな文献に関する文献学的考察のようである。

  わたしはこのような文献学的考察の意義を否定するつもりはないが、そんなことよりも、日蓮じしんの思想を解明することの方を今は最優先すべきであって、「説得力のある新しい教義」を少しでもはやく形成し提示し、その教義の説明責任を果たすことが最も重要な課題であると考える。

  実際、わたしは、新しい教義の形成を試み、提示し、説明してきた(説得力があるかどうかは別として)。例えば、以下の拙文を参照されたい。

『法華経』と釈尊の思想
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html
日蓮思想の現代的意味
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html
日蓮思想の現代的意味Ⅱ
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-6.html
日蓮の曼荼羅と密教
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html
  宮田のような文献学的考察は、日蓮正宗を批判する(破邪)という目的のために必要であろうが、日蓮じしんの思想の解明(顕正)には不要である。

  日蓮じしんの思想の解明は、宮田も言うように、「現存の真筆文献に、曽存が確実であると判断できる文献、ならびにこれまでの文献学的考証からその信憑性が高く評価されている直弟子の写本文献まで」を使用すればよいのだから。

  現代の日蓮研究は、このような歴史的経過によって虚実混合している伝統的日蓮思想観を、どのような方法論によって日蓮自身の思想を明らかにするかという反省から生じている。その一つの方法論は、歴史学的にも珍しい事例である豊富な日蓮の真筆文献を基礎にして、そこから日蓮の思想を再構成しようという試みである。
私個人としては、現存の真筆文献に、曽存が確実であると判断できる文献、ならびにこれまでの文献学的考証からその信憑性が高く評価されている直弟子の写本文献まで、使用可能な文献であると考えている。孫弟子の時代になると各門流の本家争いが激化し、日興の甥の日代が日蓮滅後60年頃に作成されたと見なされる『法華本門宗要抄』を偽書であると書いていることや、身延3世日進が『立正観抄』を偽作したと見なされていることから、孫弟子写本文献は要注意文献として扱うべきだと考えている。


(宮田幸一「ジャクリーン・ストーン『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (本覚と中世日本仏教の変容)』について」、東洋哲学研究所紀要第18号、2002年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper2stone.html

leaf新教義における歴代会長解釈の位置づけ

  宮田は、「仏教、日蓮思想」と「歴代会長による現代的解釈」を統合できると楽観的に考えているように見える。

(注1)…今後創価学会が独自の教義を再構築するにあたって、私は、仏教、日蓮思想、歴代会長による現代的解釈の3つを統合する必要があると考えている。その場合に、現代の仏教学、歴史学の成果をある程度踏まえて現代の学説に大きく離反しないようにすべきだと考えている。

(宮田幸一「ジャクリーン・ストーン『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (本覚と中世日本仏教の変容)』について」、東洋哲学研究所紀要第18号、2002年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper2stone.html

  しかしながら、わたしは、「仏教および日蓮思想」と「歴代会長による現代的解釈」は思想的に相反するものであるがゆえに統合不可能であると考える。

  よって、「仏教および日蓮思想」に基づいて、「歴代会長による現代的解釈」の誤りを素直に認め、きちんと訂正すべきであると考える。

  さらに、このような訂正は、池田名誉会長の存命中になされることが望ましいので、新しい教義の提示は急がなければならないと考える。池田名誉会長じしんに回心の筆を取ってもらうのがベストであろう。

  日蓮正宗を批判したいのであれば、その後にじっくりとやればいいのではなかろうか。もっとも、それまで、日蓮正宗が無事に存続できていればの話であるが。

leaf宮田は仏本尊を否定

  宮田は、法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えであると言っている。

創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。…
  日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。
正統性は血脈にではなく重要な教えをそのまま実行しているかどうかで判断するという論点は日興の立場でもある。


(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(5) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-5.html

  しかし、宮田にとっても「使用可能な文献」であるはずの「報恩抄」の中で、日蓮はハッキリと「日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」(全集、p. 328)と書いている。

  よって、宮田の【法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えである】という理解は、端的に言って、誤りである。

  【日蓮の思想は一貫して法主仏従(法勝人劣)の立場に立っている】というのは確かに正しい理解ではあるが、この場合の主従(勝劣)関係というのは、数学の記号を借りて分かりやすく示すなら、「>(大なり)」ではなく「≧(大なりイコール)」なのである。

  日蓮には、『法華経』を釈迦仏と同一視する思想が最初からあった(以下の資料を参照)。

日蓮は『法華経』=釈迦仏と主張(末木文美士)
http://fallibilism.web.fc2.com/120.html
  もっとも、最終的には、日蓮においては、本尊とすべき「法(一念三千)」と同等視される場合の【本尊とすべき仏】というのは、その法(智慧)を大昔にはじめて証得し、それ以来ずっと所持し、その智慧を衆生に授けようと常に活動を続けている【本門の教主釈尊(久遠実成の釈尊)】だけに限定されるのではあるが。

  とにかく、【法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えである】という宮田の理解が誤りであることは、「報恩抄」の先の記述から明らかである。

  また、上記のような人本尊を立てたところで、現代の仏教学に離反するということにもならない。現代の仏教学においても、「法を見る者は、われを見る」と開祖ゴータマが言ったことになっているのだから(以下の資料を参照)。

「法を見ざる者はわたしを見ない」(増谷文雄)
http://fallibilism.web.fc2.com/085.html

leaf本尊の形式と思想を区別せよ

  勝呂信静氏が言うように本尊の【形式】【思想】は区別されなければならない(以下の資料を参照)。

本尊の形式と思想を区別せよ(勝呂信静)
http://fallibilism.web.fc2.com/107.html
  思想的な意味で、日蓮に仏本尊の考えがあったことは、先に示した「報恩抄」の文から明らかである。

  しかし、形式的な意味での仏本尊(仏像)について日蓮がどのように考えていたのかはまた別に考察しなくてはならない。この点については、勝呂氏の『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社、1965年)の152頁以降の記述が参考になる。

  日蓮の思想的意味での仏本尊(久遠実成の釈尊)を形式として仏像で表現しようとするならば、四菩薩を脇士とするのが分かりやすいのであろうが、虚空会の付嘱の儀式を忠実に再現しようとすれば、釈尊を西向きにして四菩薩を東向きに配置する必要があろう。

  これに対して、四菩薩を脇士としない釈迦立像というのは、日蓮の仏本尊の表現形式としてはもっとも分かりにくい形式ということになるであろう。

  しかしながら、日興は、「御遷化記録」において、日蓮が生涯持ち続けた釈迦立像を「御本尊一体」と書いている(宮崎英修『日蓮とその弟子』、平楽寺書店、1997年、p. 184)。

  よって、本弟子六人の共通認識としては、釈迦一尊ですら形式的な意味での仏本尊として許容されていたものと思われる。

  とはいえ、一貫して法主仏従の立場に立っていた日蓮の思想がより分かりやすく直接的に表現されている本尊の形式が曼荼羅であることは間違いないであろう。

  しかし、曼荼羅を本尊の形式として選択していることは、本尊に表現されている思想を正しく理解していることまでを含意するわけではない。

  たしかに、創価学会は本尊の形式としては曼荼羅本尊を選択してきているが、第二代会長以来の解釈(宇宙生命論)に基づき、その曼荼羅本尊をきわめて濃厚に密教的に理解している。これでは、日蓮の「重要な教えをそのまま実行している」などとはとうてい言えないであろう(以下の拙文を参照)。

日蓮の曼荼羅と密教
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-25.html
  よって、歴代会長の解釈の誤りを素直に認めて、きちんと訂正するまでは、本尊の形式として曼荼羅本尊のみを選択していようがいまいが、「創価学会が日蓮の正統を継承している」などとは全く言えないのである。

  本尊についてはその他にも論ずべき点があると思うが、本稿ではこれ以上は省略するので、詳しくは以下の拙文を参照されたい。

本尊論メモ(Libra)
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html



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  1. 2011/01/23(日) 10:08:00|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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