仏教と批判的合理主義

日蓮の曼荼羅と密教

leaf日蓮の曼荼羅と密教

  「創価学会の信仰に功徳はあるか?」に投稿した日蓮の曼荼羅についてのコメントを以下にはりつけておきます。

  内容的には、以下の2つの記事の続編とゆーことになるかな?

日蓮思想の現代的意味
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html
日蓮思想の現代的意味Ⅱ
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-6.html


leaf 創価学会員の曼荼羅理解
投稿日時:2010-12-30 04:29:05
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 創価学会員が曼荼羅をどのようなものとして理解しているかを考える際には、まず、本家本元の密教の曼荼羅がもともとどのようなものなのかとゆーことをおさらいしておくのが便利だとおもいます。

○密教の六大・四曼・三密
 密教には本体論としての六大と、象徴論としての四曼と、実践論としての三密とゆーのがありまして、これは小川一乗先生が詳しく解説されています。

密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/061.html

○日蓮の曼荼羅
 日蓮の曼荼羅は、『法華経』で描かれている「虚空会の付嘱の儀式」を表現したものであることはまちがいないでしょう。

 中尊の五字は、直接的には寿量品で明かされる久遠仏を表現しているのでしょうが、象徴的には、その久遠仏が大昔にはじめてさとり得た智慧の内容を表現しているのでしょう。詳しくは以下の拙文を参照。

本尊論メモ
http://fallibilism.web.fc2.com/z013.html
仏身論メモ
http://fallibilism.web.fc2.com/z014.html
 小川一乗先生の解説にあるとおり、「 密教のお寺に、曼荼羅が掲げてあるということは、それと向かい合うことによって、自分が大日如来と一体であるということを体験するため」です。

 しかし、日蓮の曼荼羅の場合は、そういうためのものではありえません。日蓮の曼荼羅は、「付嘱の儀式」を描いたものであり、【付嘱】という行為が成立するためには、付嘱する者とされる者が【一体でない】ことがそもそも必要です。だから、日蓮の曼荼羅は、密教的には0点。

 衆生は久遠仏と一体などではありえませんが、久遠仏が大昔に最初にさとった智慧を授かることはできます。智慧を衆生たちにさとらせるというのが「如来の唯一の仕事」だと主張するのが『法華経』です。

一大事因縁(『法華経』)
http://fallibilism.web.fc2.com/130.html
 だから、日蓮の曼荼羅は、『法華経』的には100点。

○創価学会員の古典的曼荼羅理解
 以下の2つの資料を読めば明らかなとおり、創価学会員の古典的な曼荼羅理解とゆーのは、内容的には本家本元の密教の曼荼羅理解とほとんど同じです。

勤行─大宇宙と自身の生命交流の儀式(「やさしい教学」『聖教新聞』)
http://fallibilism.web.fc2.com/063.html◆
大宇宙即御本尊(戸田城聖・池田大作)
http://fallibilism.web.fc2.com/064.html
 密教的には100点満点の理解ですが、日蓮的にも『法華経』的にも0点の理解です。

 ちなみに、創価学会的説明では、密教の本体論でいうところの「六大」が「五大」になっていて、さらに、その「五」という数字が題目(曼荼羅の中尊)の「五字」と関係付けられるというオマケがついています。

○創価学会員の曼荼羅理解の革新?
 古典的でない曼荼羅理解が創価学会員の中にも見られるようになってきてはいます。

 中山英子氏の「御本尊に認められた広布誓願の儀式」(『大白蓮華』第624号、2002年5月、p. 85)がそれです。次の資料を参照。

本尊観について(Leo)
http://fallibilism.web.fc2.com/note006.html
 「〔曼荼羅に向かって〕勤行・唱題するとき、私たちは上行菩薩を先頭にして六万恒河沙という無数の地涌の菩薩の一員として合掌している」という理解じたいは、日蓮的にも『法華経』的にも100点の理解といっていいでしょう。

 もっとも、中山氏の文章には従来の古典的理解から脱却できていないと感じざるをえない部分が散見されます(上記資料を参照)。

leaf ねむい
投稿日時:2011-01-06 02:16:00
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 時間がありませんが、睡眠時間を削ってコメントしてみます(笑)

1.法曼荼羅
 「法曼荼羅」とゆーのは、わたしの先のコメントの中の「四曼」の一つです。先のコメントの中で紹介した小川一乗先生の解説にも出てきていますよ。

密教の即身成仏は作り話(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/061.html
 日蓮の曼荼羅は、四曼でいうなら、「法曼荼羅」というよりはむしろ「大曼荼羅」でしょう。

 もっとも、日蓮の曼荼羅には2つの梵字がありますから、その部分は法曼荼羅チックに見えるかもしれませんけども。

 この2つの梵字については、最後の7で述べるように、多宝如来の「郎従」として「金胎両大日」を描いているだけの話でしょう。

2.儀軌
 儀軌じたいは読んだことがないので「最も常識的かつ正統なものとして知られている」「法華曼荼羅」が具体的にどのようなものなのかをわたしは知りませんが、日本では『蓮華三昧経』とゆーものが作られており、そこでは完全に密教化した法華曼荼羅が案出されています。わたしのHPの以下の資料を参照されたし。

蓮華三昧経の法華経曼荼羅の構成(水上文義)
http://fallibilism.web.fc2.com/076.html

3.「日蓮は経文が翻訳であったことを知っていた

 それはあたりまえでしょう(笑)

4.「翻訳された現代で言うところの書籍名が本尊
 たぶん、日蓮なら、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと言うと思いますよ。

 目連の時代に鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』なんて存在しなかったわけですが、日蓮は以下のように言っています。

目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてて南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す

(「盂蘭盆御書」、全集、p. 1429)

 同じく、天親が鳩摩羅什訳を知っているはずがありませんが、日蓮は以下のように言っています。

南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか

(「月水御書」、全集、p. 1203)

 これは、日蓮が【そういう意味の言葉でありさえすれば何語で唱えてもいい】と考えていた証拠でしょう。詳しくは以下の拙文を参照されたし。

題目は呪文ではない
http://fallibilism.web.fc2.com/z024.html
5.日蓮のサンスクリット知識
 日蓮がどこまでサンスクリットを読めたかは謎ですが、本人は「あらあら披見に及び候」とか言っています。  
抑法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり、彼の車をば法華経の譬喩品と申すに懇に説かせ給いて候、但し彼の御経は羅什存略の故に委しくは説き給はず、天竺の梵品には車の荘り物其の外聞信戒定進捨慚の七宝まで委しく説き給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候、先ず此の車と申すは…

(「大白牛車御消息」、全集、p. 1584)

5.日蓮は原始仏経典は読んでいない可能性が高い?
 なにをもって「原始仏経典」とゆーのかがまず大問題ですが、少なくとも漢訳の阿含経は読んでいる可能性が高いのでは?

 その上で大乗経典の『法華経』を選んでいるのでは?

6.原始仏教から見れば日本仏教はほとんど全部間違っている?
 なにをもって「原始仏教」とゆーのかがまず大問題ですねぇ。

 部派仏教と大乗仏教では、どちらが釈迦の精神をより忠実に体現していたんでしょうかねぇ。

大小乗の意味(平川彰)
http://fallibilism.web.fc2.com/133.html

7.日蓮の曼荼羅の2つの梵字は密教的なのか?
 独歩さんは日蓮の曼荼羅の2つの梵字を金胎両大日だと言っておられますが、これはそのとおりでしょう。

日蓮と梵字 (2)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50832083.html
 ただし、それは、多宝如来の「郎従」として描かれているだけの話でしょう。日蓮はハッキリと以下のように言ってますから。
月氏には教主釈尊・宝塔品にして一切の仏を・あつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)

 詳しくは以下の拙文を参照されたし。

http://fallibilism.web.fc2.com/kangaeyou_02.html#tahou

leaf やっちまったぜ
投稿日時:2011-01-06 02:21:02
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 投稿した後に読み返したら、「5」が二つありますね。

 脳内変換でよろしく。

 眠いんで寝ます。

 明日仕事きつそう(笑)

leaf 仏教学者じゃなくてもわかるヒント
投稿日時:2011-01-07 01:49:50
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

ヒント:天親はインドの仏教僧です。漢字とか知りません(笑)

leaf 日蓮の曼荼羅のオリジナリティー
投稿日時:2011-01-07 01:50:39
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 さて昨日の続きです。

1.日蓮の曼荼羅にオリジナリティーはあるのか?
 昨日のコメントにも書いたとおり、わたしは儀軌じたいを読んだことがありませんので「最も常識的かつ正統なものとして知られている」「法華曼荼羅」とゆーものがどのようなものなのかを知りません。

 しかし、日蓮じしんは、じぶんの曼荼羅を「常識的なもの」だなんて全く考えていなかったことだけはたしかです。

 例えば、日蓮は、ある曼荼羅に、ハッキリと「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」(『山中喜八著作選集Ⅰ 日蓮聖人真蹟の世界 上』、雄山閣出版、1992年、pp. 58-59)と書いています。

 「本尊問答抄」でも以下のように述べています。

此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ

(「本尊問答抄」、全集、p. 373)

2.日蓮の儀軌理解
 日蓮は、「不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」(「本尊問答抄」、全集、p. 365)と理解しています。

3.日蓮じしんは何を本尊とするのか?
 日蓮は「釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」(「本尊問答抄」、全集、p. 366)と言っています。

 要するに、「法華経の教主(仏)」ではなく、「法華経(経)」を本尊とするのがじぶんの立場(天台宗)だというのです。

問うて云く日本国に十宗あり所謂倶舎成実律法相三論華厳真言浄土禅法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす

(「本尊問答抄」、全集、p. 366)

 釈迦も天台も日蓮も【法を本尊としている】とゆー話は、前にもここでしましたのでくりかえしません(以下の記事の「回答(2007.01.11-03)」と「回答(2007.01.11-04)」に記録してあります)。

日蓮思想の現代的意味
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-5.html
4.経を本尊とするのが法華経の正意
 経を本尊とするのが法華経の正意であるという日蓮の理解は正しいと思います。例えば、「法師品」に以下のような記述があります。
また、だれかがこの最高の菩提を求めて、満一劫ものあいだ私に合掌し、幾コーティ・ナユタもの多数の詩頌をもって面前で(私を)賛美するとしよう。〔一二〕
彼は私を賛美して喜びを生じ、そこで実に多くの福徳を得るであろう。他方、だれかが、かの(この経典の受持)者たちを讃えて説くとしよう。その人は、前者よりもいっそう多くの福徳を得るであろう。〔十三〕


(松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、p. 13)

5.日蓮の曼荼羅の中尊は法華経の題目
 日蓮の曼荼羅の中尊は法華経の題目になっています。

 日蓮の曼荼羅は、登場するそれぞれの存在を絵とかで表現するのではなくて、基本的に、各存在の名前を文字で書くとゆーことで表現されています。

 「法華経を本尊する」とゆーなら、当然、法華経の名前(題目)を中尊として文字で書くことになります。

6.日蓮の曼荼羅のオリジナリティー(1)
 法華経の名前(題目)を中尊とする法華曼荼羅は日蓮の発明なのではないでしょうか?

 そうではなくて、日蓮より先にこのようなコンセプトですでに法華曼荼羅を描いた人がもしいるとゆーのならぜひ教えて下さい。

7.日蓮の曼荼羅のオリジナリティー(2)
 日蓮にとっては、法華経の名前(題目)とゆーのは、「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」(「法華取要抄」、全集、p. 336)であったり、その内に「法華経の肝心」(「唱法華題目抄」、全集、p. 13)であるところの「一念三千(=縁起・空)」がつつまれているものであったりするわけで、その点にもオリジナリティーがあります。

一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹〔つつ〕み末代幼稚の頚〔くび〕に懸けさしめ給う

(「観心本尊抄」、全集、p. 254)

 虚空会の付嘱の儀式とゆーのは、日蓮にとっては、釈尊から上行への五字の付嘱の儀式です。

 だから、虚空会の付嘱の儀式を描いた日蓮の曼荼羅では、釈尊・多宝は西を向いていて、上行は東を向いているように描かれています(釈尊と上行は向かい合っている)。

月氏には教主釈尊宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)

 曼荼羅では、我々から見て左が北で、右が南となっています。宝塔の中の北の上座に釈尊が、南の下座に多宝如来が西を向いています。北が上座で南が下座となっているのはインドの「右尊左卑」の考えによるものです(法華経はインドの霊鷲山で説かれたという設定になっていますので)。ちなみに、日寛の「三宝抄」にも「仏宝は月氏風に准ずる故に右尊左卑也」とあります。

 右尊左卑の考えからすれば、最上位の弟子である上行菩薩は、弟子の中でも最前列の右にいることになるでしょう。もし上行菩薩が釈尊や多宝如来と同じく西を向いているとすると、北の上座にいなければおかしく、我々から見て左にいなければなりません。しかし、曼荼羅では、我々から見て右に上行菩薩がいます。このことから、曼荼羅の中の上行菩薩は東を向いていることがわかります。

 上行菩薩が釈尊と向かい合っているということは、法華経のストーリーからすればあたりまえのことなので、上記説明は本来なら不要だろうと思うのですが、曼荼羅の構造それ自体からも明らかであるということを強調するためにあえて書いておくことにしました。

(「本尊論メモ」の〔05.09.24 補足2〕 、http://fallibilism.web.fc2.com/z013.htm

leaf 密教の相伝がどうしたって?
投稿日時:2011-01-08 01:10:00
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 明日も仕事ですけど、今夜も頑張りますぜっ(笑)

1.「曼荼羅=密教のアイテム」などとは言えない
 「2011-01-06 02:16:00」のコメントの中で、わたしは、「日蓮の曼荼羅は、四曼でいうなら、『法曼荼羅』というよりはむしろ『大曼荼羅』でしょう」などと軽く書いてしまいましたが、正確にいいますと、日蓮の曼荼羅は密教の〔狭義の〕「曼荼羅」ではありません。正確に言うなら「変相図」です。もっと正確にいうなら「霊山浄土変相図」です。

 たしかに、「曼荼羅」という用語は、もともとは「密教のアイテム」たりえるものをのみ指す語でありましたが、後に、日本において、「密教のアイテム」たりえないもの(変相図)までをも指す用語になりました。これが歴史的事実です。

 日蓮の時代には、すでに、〔密教のアイテムたりえないような〕「変相図」をも含めて〔広義の〕「曼荼羅」と呼ぶようになっていました。

 「浄土曼荼羅」はどう見ても「密教のアイテム」じゃないでしょう。これも密教的には0点(笑)

 日蓮はじぶんが描いた変相図を「曼荼羅」と言っていますが、これはこの【広義の曼荼羅】とゆーことです。

 「日蓮はじぶんが描いたものを曼荼羅と言っている」とゆー事実から、短絡的に「日蓮の思想は密教的である」などと主張するのは、「浄土教は密教的である」というのと同じくらいにナンセンスでしょう。

2.日蓮のいったいどこが密教的だというの?
 とゆーわけなので、「日蓮は曼荼羅をアイテムに使っている。ゆえに、彼の思想は密教的である」などとゆー論証はぜんぜん成りたちません。

 また、「日蓮の曼荼羅には梵字が描かれており、それらは両部の大日如来を表している。ゆえに、彼の思想は密教的である」とゆー論証もぜんぜん成りたちません。

 「密教において本尊とされるところの両部の大日如来が日蓮の曼荼羅に描かれている」とゆーのが事実だとしても、それは、中尊としてではなく、ただの「郎従」として描かれているにすぎません。梵字で表現しようが何字で表現しようが、そのことはどうしたって動きません(密教の仏なんだから梵字で表現するのがむしろ自然だろっ!)。

 日蓮は「両部の大日如来」を多宝如来の「郎従」だとハッキリ言っています(↓)。

月氏には教主釈尊宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて教主釈尊は北の上座につかせ給う、此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日金剛頂経の金剛界の大日の主君なり、両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給う此れ即ち法華経の行者なり天竺かくのごとし

(「報恩抄」、全集、p. 310)

 「法華経の題目」は「両部の大日如来」の「主君」であるところの多宝如来の「御本尊」であるとハッキリ言っています(↓)。

問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、…上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり

(「本尊問答抄」、全集、p. 365)

 日蓮から見たら、「法華経より七重下劣の経」の教主である大日如来なんて、中尊の法華経に比較すれば「七重下劣」とゆーことになります(↓)。

問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや、答う弘法大師慈覚大師智証大師の御義の如くならば大日如来はすぐれ法華経は劣るなり、…然るに日蓮は…一切の経論を勘て十宗に合せたるに…真言宗と申すは一向に大妄語にて候…所詮大日経ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり

(「本尊問答抄」、全集、pp. 366-371)

3.「日蓮がうけた密教の相伝」がどうしたって?
 日蓮が【密教化した日本天台】から出発しているいうのはたしかに事実です。

 しかしながら、彼の到達点はぜんぜん密教的ではないのではありませんか?

 むしろ、彼の仏教者としての一生とゆーのは、【密教からの脱却の軌跡】だったのでは?【密教化する前のほんらいの天台宗への回帰】だったのでは?

 「真言宗と申すは一向に大妄語にて候」というのが日蓮の到達点でしょう。そんなのは彼の遺文を時系列的に追いかけてみさえすれば明らかです。

 少なくとも、「日蓮は密教化した日本天台から出発している。ゆえに、彼は生涯密教的であった」などとゆーのは、論証としてはぜんぜん成りたちません。

 そもそも、そんなことを言う人は、「日蓮がうけた密教の相伝」というのを一体何だと思ってるのかな?

 意味分かっていってるのかな?

 その相伝の初代は誰なの?

 法華経より七重下劣の大日如来なの?

 法華経を本尊とするという日蓮が、法華経より七重下劣の大日如来からの相伝をいったいどうするっての?

 出発点はともかくとして、日蓮の到達点に「密教の相伝」が何の関係があるというの?

 もしも日蓮の到達点に密教的な残滓があるといいたいなら、それは具体的にどんなものだというの?

 誰か、ちゃんと具体的に指摘した上で、それをちゃんと論証して下さいませ。

leaf 「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいい
投稿日時:2011-01-09 08:28:14
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 日蓮は「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと言うはずです。

 このことは、客観的に論証できます。わたしの人間性とか心理面とかは全く関係がありません。

 わたしはすでにその証拠を示しておきましたが、今回はきちんと論証しておきましょう。

1.日蓮の理解では、天親は「如来の滅後・九百年に出世」したインド(月氏)の人です。

天親菩薩は如来の滅後・九百年に出世して倶舎論を造りて小乗の意を宣べ唯識論を造りて方等部の意を宣べ最後に仏性論を造りて法華涅槃の意を宣べ了教不了教を分ちて敢て仏の遺言に違わず

(「守護国家論」、全集、p. 49)

2.日蓮の理解では、中国(漢土・震旦国)に仏経が渡ったのは「仏の滅後一千一十五年」です。

一に教とは釈迦如来所説の一切の経・律・論・五千四十八巻・四百八十帙・天竺に流布すること一千年・仏の滅後一千一十五年に当つて震旦国に仏経渡る

(「教機時国抄」、全集、p. 438)

3.日蓮の理解では、『法華経』の鳩摩羅什訳が成立したのが「漢土には仏法わたりて二百余年後」です。

仏滅度後・一千十五年と申せしに漢土へ仏法渡りはじめて候いしかども又いまだ法華経はわたり給はず。  仏法・漢土にわたりて二百余年に及んで月氏と漢土との中間に亀茲国と申す国あり、彼の国の内に鳩摩羅えん[炎]三蔵と申せし人の御弟子に鳩摩羅什と申せし人・彼の国より月氏に入り・須利耶蘇磨三蔵と申せし人に此の法華経をさづかり給いき、其の経を授けし時の御語に云く此の法華経は東北の国に縁ふかしと云云、此の御語を持ちて月氏より東方・漢土へはわたし給いしなり。  漢土には仏法わたりて二百余年後秦王の御宇に渡りて候いき

(「千日尼御前御返事」、全集、p. 1309)

4.日蓮からすれば、天親が『法華経』の鳩摩羅什訳のタイトルを知っているはずがありません。上に述べた1~3を総合すれば、日蓮が「天親の時代にはまだ『法華経』の鳩摩羅什訳なんて存在していなかった」と認識していることは明らかです。

5.日蓮は、天親が南無妙法蓮華経と唱えたと言っています。

南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩・天台大師等の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか

(「月水御書」、全集、p. 1203)

6.日蓮は、天親が『法華経』の鳩摩羅什訳のタイトルなんて知りえなかったとゆーことを十分に認識したうえで、「天親は南無妙法蓮華経と唱えた」と言っているわけですから、それは、当然、天親が【インドの言葉で】南無妙法蓮華経と唱えたという意味です。それ以外にはありえません。

7.日蓮の理解では、「南無妙法蓮華経」は、インドの言葉では「南無薩達磨分陀利伽蘇多攬」となります(漢字で音写すれば)。

妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり

(「開目抄上」、全集、p. 209)

8.よって、日蓮の理解では、天親は、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」と唱えたことになります(カタカナで音写すれば)。

9.日蓮は、ハッキリと「天親菩薩の唱えさせ給い候しが如く・只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか」といっていますから、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」と唱えてもいいといっていることになります。

leaf 「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいい(2)
投稿日時:2011-01-10 11:02:02
URL:http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/7868f6ad592639a632185028165c4ef3

 日蓮は「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと言うはずだとゆーことを、前回は、「日蓮は『天親が南無妙法蓮華経と唱えた』と言っている。ゆえに、彼は『ナムサッダルマプンダリーカスートラ』でもいいと言うはずだ」とゆー形で論証しておきました。

 今回は、別の形で論証しておきます。

1.日蓮の理解では、「第一結集のときに、文殊が南無妙法蓮華経と唱えて、阿難が如是我聞と答え、それを阿羅漢等が書き留めた」とゆーことになっています。

○文証(1)

阿難尊者は斛飯王の太子・教主釈尊の御弟子なり、釈尊御入滅の後六十日を過ぎて迦葉等の一千人・文殊等の八万人・大閣講堂にして集会し給いて仏の別を悲しみ給ふ上、我等は多年の間・随逐するすら六十日の間の御別を悲しむ、百年・千年・乃至末法の一切衆生は何をか仏の御形見とせん、六師外道と申すは八百年以前に二天・三仙等の説き置きたる四韋陀・十八大経を以てこそ師の名残とは伝へて候へ、いざさらば我等五十年が間・一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経経を書き置きて未来の衆生の眼目とせんと僉議して、阿難尊者を高座に登せて仏を仰ぐ如く、下座にして文殊師利菩薩・南無妙法蓮華経と唱へたりしかば、阿難尊者此れを承け取りて如是我聞と答ふ、九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染めて書き留め給いぬ、一部八巻・二十八品の功徳は此の五字に収めて候へばこそ文殊師利菩薩かくは唱へさせ給うらめ、阿難尊者又さぞかしとは答え給うらめ、又万二千の声聞・八万の大菩薩・二界八番の雑衆も有りし事なれば合点せらるらめ

(「内房女房御返事」、全集、pp. 1421-1422)

○文証(2)

阿難と文殊とは八年が間・此の法華経の無量の義を一句・一偈・一字も残さず聴聞してありしが仏の滅後に結集の時・九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに先づはじめに妙法蓮華経とかかせ給いて如是我聞と唱えさせ給いしは妙法蓮華経の五字は一部・八巻・二十八品の肝心にあらずや

(「報恩抄」、全集、p. 325)

○文証(3)

一切経の如是は何なる如是ぞやと尋ぬれば上の題目を指して如是とは申すなり、仏何の経にても・とかせ給いし其の所詮の理をさして題目とはせさせ給いしを、阿難・文殊・金剛手等・滅後に結集し給いし時題目をうちをいて如是我聞と申せしなり、一経の内の肝心は題目におさまれり

(「曾谷入道殿御返事」、全集、p. 1057)

2.第一結集のときに成立したオリジナルの『法華経』が漢字で書かれたはずがないので、当然、阿難・文殊らは【インドの言葉・文字】でそのタイトル(題目)を打ち置いたことになります(日蓮の理解では)。

3.そのようにして打ち置かれたオリジナルの『法華経』のタイトル(題目)が「薩達磨分陀利伽蘇多攬」(漢字による音写)であったと日蓮は理解しています。これをカタカナで音写すれば「サッダルマプンダリーカスートラ」となります。

妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す

(「開目抄上」、全集、p. 209)

4.「一経の内の肝心は題目におさまれり」とゆー日蓮の理屈によれば、当然、オリジナルの『法華経』の肝心はオリジナルの題目(「サッダルマプンダリーカスートラ」)におさまっているとゆーことになります。

5.「一由旬の城に積」まれるとゆーオリジナルの『法華経』が、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(八巻)に内容的に劣っているとゆーことはありえません。鳩摩羅什を「教主釈尊の経文に私の言入れぬ人」と評価する日蓮にとっては、それらは、内容的にはイコールです。

一乗妙法蓮華経は月氏国にては一由旬の城に積み日本国にては唯八巻なり

(「内房女房御返事」、全集、p. 1421)

月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に私の言入れぬ人にては候へ

(「太田殿女房御返事」、全集、p. 1007)

6.よって、日蓮にとっては、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』のタイトルである五字とオリジナルの『法華経』のタイトルである「サッダルマプンダリーカスートラ」は、内容的にはイコールだとゆーことになります。

7.日蓮にとっては鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(八巻)が「今の法華経」であったので、彼が【五字】を本尊とするのは当然ですが、あらゆる人にとって鳩摩羅什訳が「今の法華経」であるとは限りません。

 問うて云く法華経・一部・八巻・二十八品の中に何物か肝心なるや、答えて云く華厳経の肝心は大方広仏華厳経般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経涅槃経の肝心は大般涅槃経・かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目・其の経の肝心なり、大は大につけ小は小につけて題目をもつて肝心とす、仏も又かくのごとし大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏・是等の仏も又名の内に其の仏の種種の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつて・かくのごとし、如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復・一切経の肝心・一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり

(「報恩抄」、全集、p. 324)

8.「漢文なんて全く読めないけどサンスクリットならわかる」とゆーような人にとっては、サンスクリットの『法華経』が「今の法華経」でしょう。日蓮の考えからすれば、そういう人は「サッダルマプンダリーカスートラ」を本尊とすべきだとゆーことに当然なるでしょう。

9.サンスクリットの『法華経』を「今の法華経」とするような人に対しては、「ナムサッダルマプンダリーカスートラ」でもいいと日蓮なら言うはずです。

南無と申す字は敬う心なり随う心なり

(「内房女房御返事」、全集、p. 1421)

妙法蓮華経の上に南無の二字ををけり南無妙法蓮華経これなり

(「開目抄上」、全集、p. 209)



スポンサーサイト

テーマ:宗教 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/01/16(日) 01:42:28|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2
<<創価学会教義の形成の試み | ホーム | 特殊正義論・再論>>

コメント

はじめまして

十年以上前よりLibra様の論文を拝読していた者です。

ここ暫く、このblogの更新が止まっていたので、何かあったのかと心配しておりました。

何はともあれ、ご無事で何よりです。


ところで、クリシュナムルティというインドの哲学者を御存知でしょうか?

嘗て色々と悪名が高かった、バリ活系学会員の小野不一氏が、最近影響を受け、あちこちに
薦めまくっている人なのですが、この人の著作と言論、確かに面白い。

クリシュナムルティの智慧
http://krishnamurti.g.hatena.ne.jp/sessendo/


その小野氏のHPの内容も、同じ人間なのかと思うほど、以前とは大分様変わりしていて驚いてます。
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/


  1. 2011/01/19(水) 18:41:39 |
  2. URL |
  3. はむ #VzwKY6.k
  4. [ 編集]

Re:はじめまして

 はむさん、こんにちは。

 コメントありがとうございました。

 クリシュナムルティについては、もう十年以上も前に、ある友人から勧められて、その方から著書まで贈ってもらったということがあったにもかかわらず、未だに興味が持てないでいます。

 小野さんはお元気のようですね。

 ブログの更新を怠っていたので、宮田幸一批判的なものをちょこっと書いてみました。参照して頂ければ幸いです。

 批判的合理主義関係についても書きたいことがあるんですが、時間があんまりないっす。

 ではでは。
  1. 2011/01/23(日) 10:36:57 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://fallibilism.blog69.fc2.com/tb.php/25-d42b09ba
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

最新コメント

記事一覧

カテゴリー

プロフィール

Author: Libra

友だち追加