仏教と批判的合理主義

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特殊正義論・再論

leaf不正義の除去を目指しうるための最低限の正義論


 わたしが犬のメメさんのところで展開した正義論は、不正義の除去を目指しうるための最低限の正義論なのでした。すなわち、不正義の除去に使いうる正義なる概念とは一体何ぞやとゆーことを論じる正義論だったのです。これは、アインシュタイン的にゆーならば、「特殊正義論」なのであるっ!

 で、昨晩アップした「絶対的正義と相対的正義」は、アインシュタイン的にゆーならば、「一般正義論」なのだ。あれは、わたしたちが社会に求める正しさについてのより一般的な議論。よーするに、「不正義の除去に使いうる」とゆー条件を外した、より一般的な正義とゆー概念についての議論。

 そんで、先に「絶対的正義と相対的正義」を読んだ人が、以上のことを押さえずに、わたしが犬のメメさんのところで展開した議論を読むと混乱が生じるおそれがあるとおもうんです。だから、今、この記事を書いてるわけ。

 先に「絶対的正義と相対的正義」をお読みになった方で、今から、犬のメメさんのところをお読みになるという方がもしおられましたら、あそこでわたしが使ってる「正義」とゆー用語はすべて「絶対的正義」という用語に脳内変換しながらお読みになって下さいませ。さもないと混乱するとおもいます。ってゆーか、今さらあっちを読むのはめんどうでしょう。わたし自身、読み返すのしんどかったし。

 だから、いっちょ、もっぺん特殊正義論をきちんと自分のブログでも再論しておきましょうと。そんで、こんな記事を書いてるわけ。わかった?


leaf「絶対的な正義」の意味



 特殊正義論(不正義の除去に使いうる正義なる概念について論じる正義論)の範囲では、正義とは絶対的正義である必要があります。ここでいうところの「絶対的な正義」とゆーのは、社会の構成員全員が認めざるを得ない正義という意味です。社会の構成員全員に通用する正義といいかえてもOK。

 くりかえしますと、不正義の除去に使いうる正義とゆーのは、絶対的正義である必要があります。さもないと、不正であると非難された人が、次のように言い逃れることが常に可能になってしまい、不正義の除去とゆーことがそもそも不可能になるから。

「あなたはわたしの行為を不正とゆーけれど、それは、たまたま、あなたの正義に反するというだけの話であって、わたしの正義には全然反しませんよ。あんた、何いってんの?」



leaf「絶対的な正義」の例示



 では、絶対的正義とはどのようなものなのか。

 犬のメメさんのところでわたしが例示したのは、「正当な理由なく、ある構成員が、他の構成員の生命を奪うことはあきらかに正義に反するし、それを阻止することはあきらかに正義であるし、そのような不正義/正義は社会の構成員全員に通じる不正義/正義である」とゆーものです。

 よりコンパクトにいうなら、「正当な理由のない生命に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」ということ。このような正義が社会の構成員全員に通じるとゆーことは明らかでしょう。

 もし通用しないとゆー人がいたら次のように聞いてみたらよろしい。もし、正当な理由なく生命を奪われようとしているのがあなただとしても、あなたは上の正義を社会全体には通用しないものだとゆーのかと。

 「うん、そうゆーよ」と言う人は、だまって命を差し出すしかありません。殺人鬼のことも、殺人鬼の行為を妨害しようとせずにだまって見過ごそうとする人のことも、その人は非難できません。すでに見たように、何かを不正義であると非難できるためには、そこでいうところの正義が絶対的正義(社会の構成員全員に通用する正義)でなければならないから。

 また、そーゆー人は、愛する人の生命が奪われても、それを不正であると非難できないとゆーことを許容しなければならない。

 そーゆー人は、愛してもいない誰かの生命が奪われるとゆーことについては、誰も非難などできやしないとゆーことをいとも簡単に許容することであろう。

 だとすれば、憎むべき人間の生命が奪われるとゆーことについては、積極的に主張さえするかもしれない。

 このように考えてみれば、さっき、「うん、そうゆーよ」と言ってしまった人とゆーのは、自分が他の構成員の生命を正当な理由もなく奪ってもなんら非難されるすじあいなどないと考えてるのに等しいことがおわかりになるだろう。

 さて、社会には、このような人でさえも、その構成員として喜んで迎え入れる義務があるのだろうか。わたしはないとおもう。

 「正当な理由のない生命に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」とゆーことは、以上で論証できたとわたしはおもう。


leaf「絶対的な正義」の定式化



 もっとも、上に述べた絶対的正義は例示であって、それ以外に絶対的正義がないというわけではありません。実は、上の例をもう少し一般化すると次のようにいうことができます。

 「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」と。

 基底的価値というのは小林和之さんが提案された表現で、他の価値を享受する前提(土台)になっている特別な価値のことをいいます。

 たとえば、小林さんは、生命が基底的価値であるとゆーことを次のように述べてらっしゃいます。

生命は、他のあらゆる価値とは異なる特別な価値である。それは、生命が他の価値を享受する前提になっているからだ。生命なしには、他のあらゆる価値を実現できない。そして、生命は、生命以上に重要な価値をもっている場合になおいっそう重要になると言ってもいいだろう。生命は、生命より重要なもののためにただ一度だけ使うことができる価値だからだ。
 生命は、他の価値を享受する前提になっている特別な価値である
〔中略〕
 生命なしに他の価値を享受できない。このことは「絶対に」正しい──われわれが経験できる世界においては。
〔中略〕
 その意味で、生命には最高ではないとしても「絶対的な」価値があるということができる。ただし、「絶対」ということばは使わず、やや不正確にはなるが「特別な」価値だというほうがいいだろう。生命に絶対的な価値があるという言明は、生命が不可侵であるとか最高であるとか主張しているように誤解されやすいからである。少し耳慣れないことばかもしれないが、すべての土台になるという意味で、「基底的」な価値であるというのが、最も適切な表現だろう。


(小林和之『「おろかもの」の正義論』〔ちくま新書509〕、筑摩書房、2004年、pp. 45-47)



 たとえば、Aさんが実現を目指す価値を「価値A」、Bさんの目指す価値を「価値B」、Cさんの目指す価値を「価値C」と書くことにしましょう。

 価値A~Cがどんなにバラバラであったとしても、生命とゆー価値はそれらを支える共通の土台としてそこにあります。Aさんは、生命なしには価値Aを実現できない。そして、Bさんも、Cさんも、それは同じ。価値A~Cがどんなにバラバラであったとしても。そういう意味で、生命は基底的な価値なのであり、絶対的な価値なのです。


leaf相対主義批判



 少し話がそれますが、世の中には「相対主義」とゆー悪しきドグマが広く蔓延しているので、その批判もついでにしておきましょう。もっとも、「相対主義」とゆー言葉の下に語られる思想は多種多様であり、その中にはじつによろしいものもありえるわけですが、わたしが悪しきドグマといっているのは以下のような形態の「相対主義」です。

1.真理は常に相対的である。客観的(絶対的)真理などは存在しない。

2.あらゆる価値は常に相対的である。万人が認めざるを得ないような絶対的な価値などは存在しない。

 わたしは1も2もオカシイとおもいます。

 1がオカシイとゆーことについては、別の角度から前に書いたことがあるのでここでは繰り返しません。

 2については、すでにこの記事で反証を示してあります。すなわち、生命は絶対的な価値のひとつです。このことは論証ずみ。

 たしかに、世の中のほとんどすべての価値は、それを目指そうが目指すまいが各個人の勝手でありうるようなものばかりですから、「ほとんどの価値は相対的である」とゆー命題は客観的(絶対的)に真でありましょう。

 しかし、各個人がそのような相対的価値を目指そうとすることそれ自体を可能ならしめる(支える)絶対的な価値がたしかに存在するのです。先に例示したように、生命は、その絶対的な価値の1つです。

 したがって、どんなパラダイム(価値の体系)にも共通の基盤(基底的価値の体系)があるということは少なくとも言えるのだ。そこを共通の土台とすることが可能である以上、それらは共約不可能ではありえないだろう。



leaf3つの基底的価値──生命・自由・秩序



 さて、そろそろ、生命以外の基底的価値の話に入りましょう。

 結論から言いますと、基底的価値には、生命以外に2つあります。1つは秩序であり、もうひとつは自由です。

 このことは、小林さんが、前掲書の47~50ページで詳しく説明してらっしゃいますが、ここでは次の一文を引用しておけば足りるでしょう(足りないとおっしゃる方は、小林さんの本を買って読んでくださいませ。800円弱です)。

 それぞれの人が重要だと思うことを実現していくためには、まず生きていなければならない。そして、ある程度は自由に行動できなければならない。自由に行動できるためには秩序が保たれていなければならない。生命と自由と秩序は、あらゆる価値を支える価値として、特別な位置にある。

(小林和之『「おろかもの」の正義論』〔ちくま新書509〕、筑摩書房、2004年、p. 50)




leafまとめ的なもの



 以上の説明により、「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」とゆーことの意味は明らかになったとおもいます。

 そして、この一般化された形での絶対的不正義に関するテーゼについても、生命についてやったのと同型の論証が可能です。このことは直感的におわかりになるでしょうから、いちいち論証してみせることまではしませんけどね。

 まとめますと、まず、「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」とゆーテーゼが成り立ちますよと。

 そんでもって、そこを土台として、わたしとあなたとで協力して、社会に現にある不正義を除去していくことが可能ですよと。

 だから、実際に、わたしとあなたとで協力して、社会をよりよくしていきましょうよと。

 ま、特殊正義論って、こんなもんですわ。わかりました?







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  1. 2009/04/21(火) 01:16:18|
  2. 思想一般
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  4. | コメント:15
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コメント

Libraさん、大変お久しぶりです。
上記記事について、興味深く読ませていただきました。

私は「絶対的正義」なるものを想像しようとすると、どうしても某宗教教団のことを思い浮かべてしまいます。
なので、この言葉じたいが、かなり胡散臭く感じられてしまうということもあるのですが・・・。

命題A「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」

さて、これなんですが、私にはこれが成り立つようには思えません。
というのは、「不正義」の反対が果たして「正義」なのだろうかという問題があるからです。

これは、「正義」というのが「義務」であることと、「不正義をしない」というのもまた「義務」である
ことと関連しています。「義務」の反対が「権利」であることに注意するべきと思います。
したがって、命題Aの主張を私なりに言い換えると以下のようになります。

命題B「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃はしてはいけないこと(義務)であり、それに対して防御する権利がある」


1.(G)Pa          : aはPをする義務(G)がある
2.(K)Pa          : aはPをする権利(K)がある
3.(G)Pa ⇔ ¬(K)¬Pa: aがPをする義務があることと、aがPをしない権利がないことは、等しい。
4.(K)Pa ⇔ ¬(K)Qb : aがPをする権利があることと、bがQをする権利がないことは、等しい。
                   ただし、PとQは攻撃と防御の関係。
前提3,4より
5.(K)Pa ⇔ (G)¬Qb : aがPをする権利があることと、bがQをしない義務があることは、等しい。
Qを殺人とし、Pをそれに対する防御とすると、上記命題Bが成り立ちます。

つまり、不正義に対する防御は義務ではないのです。
殺人は許容できないことですが、その一方で、極端に言うと、殺されようとしている人を見殺しにする権利もあるということです。 
  1. 2009/05/01(金) 08:50:06 |
  2. URL |
  3. しししんちゅうのむし #-
  4. [ 編集]

権利と義務

 しししんちゅうのむし様、コメントありがとうございます。

 たった今、コメントに気がつきました。

 まずはじめに、大変失礼で、申し上げにくいことを正直に告白しておかなければなりません。わたしは、しししんちゅうのむし様のことをほとんど覚えておりません。

 とはいえ、しししんちゅうのむし様は、今回のわたしの正義論に食いついてくださった貴重な唯一のコメンテーターであり、ものすごくありがたい存在でございます。

 で、わたしとしては、まずは、おたがいに同意できる点の確認からしていきたいとおもいます。

 おたがいに同意できない点については、しししんちゅうのむし様のお話を伺いながら、もう少しじっくりと考えてみたいとおもいます。その結果、わたしの意見におかしいところがあれば訂正したいとおもいます。

 まず、しししんちゅうのむし様のコメントを一読して気がついたのは、わたしの命題Aは、以下のような、社会および社会の構成員についての命題Sが成り立つことを前提としているようです。

命題S「社会の構成員は、絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会[*1]を維持していく義務を負う」

[*1]「最低限の社会」とは、構成員が、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指しうる社会をいう。

 基底的価値の定義と、以下の命題Yのもとに、命題Sは成り立つとわたしはおもいます。で、命題Yが成り立つことは自明かと。

命題Y「社会の構成員全員は、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指す存在である」

 まぁ、「権利と義務」とゆー、しししんちゅうのむし様のフレームワークに乗っかって言ってみるなら、こうなりますでしょうか。

「社会の構成員全員は、【自らが望む非基底的価値の実現を目指す権利】を有するが、しかしながら、そのことじたいを可能にするために、【絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会を維持していく義務】を社会に対して負う」と。

 で、「それ(命題S)はちょっと強すぎる主張なんじゃないの?」とゆーのが、今回のしししんちゅうのむし様のコメントの正体なのかなと思いましたです。

 図式化すると、以下のようになるかと。

命題S’「社会にどのような絶対的不正義がはびころうとも、社会の構成員は、それを除去しようと試みる義務までは負わない」

命題S’’「社会の構成員は絶対的不正義を除去しようと試みる権利を有する」

 【S】…わたし

 【S’+S’’】…しししんちゅうのむし様

 でも、少なくとも、以下の命題Xは、われわれに共通して成り立つのですよね。しししんちゅうのむし様も、「殺人は許容できないことです」とおっしゃっていますので。

命題X「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義[*2]である」

[*2]「絶対的不正義」とは、社会の構成員全員が認めざるを得ない、【やってはいけないこと】をいう。

 ここまでのわたしの理解に問題はありませんか?まずは、この確認からはじめてみたいとおもいます。

 ここからは、おたがいに同意できないかもしれない点についても少し書いてみます。

 しししんちゅうのむし様の「殺人は許容できないことですが、その一方で、極端に言うと、殺されようとしている人を見殺しにする権利もある」とゆーご発言は、少しかみくだいて言いますと、次のようなことを含意するでしょう。

 「誰だって自分が殺されるのは許容できないけれども、自分が殺されようとしているのを見殺しにする権利は誰にだってあるんだから、たとえ、実際に自分が見殺しにされたって許容せざるをえない。自分を見殺しにする人を責めたり非難したりする権利などは自分を含めて誰にもない。」

 これは、わたしの感覚からすると、かなり違和感があります。こんなふうに心の底から思える人なんていないのではないでしょうか。

 誰だって、自分を見殺しにしようとした連中に対しては、責めたり非難したりするのではないでしょうか。運良く、その人が、自力で生き延びることができたとしての話ですけど。

 また、そのように責められ、非難された当の連中ですら、見殺しにしようとしたとゆー自らの行為について、「当然の権利を行使したまでのことだ」と心の底から思ったり、そのように主張したりすることなどはないのではないでしょうか。
  1. 2009/05/02(土) 00:45:39 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libra様
返事ありがとうございます
自分の現時点での意見を書いてみました

1.命題Sと命題Xについての見解について

命題S「社会の構成員は、絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会[*1]を維持していく義務を負う」
[*1]「最低限の社会」とは、構成員が、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指しうる社会をいう。

命題X「正当な理由のない基底的価値に対する攻撃は絶対的不正義[*2]である」
[*2]「絶対的不正義」とは、社会の構成員全員が認めざるを得ない、【やってはいけないこと】をいう。


命題Sについては、Libra様のおっしゃるとおり「強すぎる主張なのではないか?」というのが、そのまま、私の見解です。
命題Xについては、「正当な理由のない」を文章につけているのが、私としては、気になります。
その「正当な理由」とは何かによって、意見が分かれると思うので、
命題Xような一般化は、人によって解釈が大きく異なり、それを土台にして議論を
すると混乱するような気がします。

しかし、「やってはいけないこと」が不確定であっては、我々は権利も義務も
主張することができないので、絶対的な不正義は、とりあえず、あるとみなしているのが、
日本の社会であり、法律だと思います。
ですから、私としては万人に共通する「根本的な規範」はないと思っていますが、
権利や義務を主張するためには「根本的な規範」を承認せざるを得ないというのが実際のところです。
つまり、命題Xはわれわれに共通して成り立ちます。(と見做すしかないです)


2.「殺されようとしている人を見殺しにする権利もある」のか?

まず、「殺されようとしている人を見殺しにする権利もある」という言葉には、
「自分を見殺しにしようとした連中に対しては、責めたり非難したりする権利はない」
という意味は含まれていないと思います。また、そういう意図はありません。

しかし、「自分を見殺しにしようとした連中に対しては、責めたり非難したりする」
というのは、人間の感情としては当然のことでしょう。
不当な扱いを受けたと感じれば、非難する権利はあるでしょう。
そのことによって、他者の権利が侵害されることはありませんから何の問題もないです。

人間の感情というのは論理的に整合性が取れていません。
被害者でありながら、同時に加害者、第三者の心情も理解し、客観的な判断、などというのは無理です。
だから、感情を根拠にして人を説得することはできるでしょうが、
感情を根拠にして、理論を構築するには危ういと思います。


次に、例を挙げて説明してみます。
見殺しにするというのは、第三者の行為です。
人殺しというのは、殺される人の生存権を剥奪するということです。

もし、突然誰かが道端でナイフをもって追いかけてきたらどうしますか。
まずは逃げるのではないでしょうか。
その結果として、たまたま隣にいたおっちゃんは逃げ遅れたのでナイフを持った男に刺されてしまいました。
その結果、出血多量で死んでしまいました。
これが、見殺しにするということです。

私が逃げずにナイフを持った男に立ち向かえば、隣にいたおっちゃんは殺されなくて済んだかもしれません。
しかし、この場合は、ナイフを持った男に立ち向かった時点で、私が殺される危険性もあり、
この英雄的行為は私自身の生存権を脅かします。
つまり、殺されたおっちゃんの生存権と、私の生存権とがナイフを持った男の行為によって、
両立できない状態に陥るわけです。このときには私がおっちゃんの命を守る義務はありません。

おっちゃんの身に起きた悲劇には、全く正当な理由がないにもかかわらず。

もともと、この状態は生存権を脅かすという不正義は、ナイフを持った男によってもたらされたのですから、
その代償は第三者である私ではなく、その男が取るべきです。

「見殺しにする権利がある」というのは、このようなことを想像しながら書きました。
見殺しという言葉は否定的な意味で使います。したがって、こういう「権利がある」という言い方は普通はしません。
しかし、「逃げるので精一杯だった」というのも、言葉のイメージは全く違いますが、
その背景にある行動を考えれば、同じことを言っているに過ぎないでしょう。意識しないだけで。

見殺しにするというのは、様々なレベルがあるので、Libra様の想像しているようなこととは全く違うかもしれません。
第三者が殺人者に近い人間であれば、殺人の意図がわかった時点で止める義務はあるでしょう。
しかし、それ以外の第三者に、殺人者を止める義務があるとするのは無理がありますね。
「絶対的正義」とはなり得ない、ということなんじゃないでしょうか。
  1. 2009/05/02(土) 20:07:11 |
  2. URL |
  3. しししんちゅうのむし #-
  4. [ 編集]

有意義なGWになりそう

 しししんちゅうのむし様

 ご丁寧なコメントありがとうございます。おかげさまで、有意義なGWになりそうです。


1.命題Sについて
 しししんちゅうのむし様は、やはり、「強すぎる主張なのではないか?」というご見解なのですね。

 しかしながら、わたしには、基底的価値の定義と命題Yからの論理的な推論によって、命題Sは成り立つように思えます。

 とゆーことは、しししんちゅうのむし様のご見解によれば、「基底的価値の定義と、命題Yのもとに、命題Sは成り立つ」ということじたいが間違いだとゆーことになるのでしょうか。あるいは、命題Yが成り立たないとゆーことなのでしょうか。そのあたりをもう少しご説明くださいませんか?


2.命題Xの「正当な理由のない」
 ここの「正当」は無定義概念として使っています。で、「正当」は、「正義」と似ていると言えなくもないので、そんなものを「正義」を語るのに簡単に使っていいの?とゆー問題があります。で、この問題については、わたしじしん、あの記事を書いた時点ですでに気がついておりまして、昨日の日記でも、そのことに触れたのでした。

  5月1日(携帯からしか見れないよん)
  http://74.xmbs.jp/estrella-32395-d_res.php?n=541597&view=1&page=d2&guid=on

 だから、しししんちゅうのむし様が、その点が気になるとゆーのは、しごく当然の感覚だろうとおもいます。

 しかし、あれだけ場面を限定しておけば、「正当な理由とはいえない」という表現で、それなりに意味は通じるだろうとは思います。見た目ほどには、意見が分かれるとも思いません。

 たとえば、「ただたんに動物的な欲求(性欲など)を満たしたいとゆー理由」とか、「ただたんにお金が欲しいとゆー理由」なんかは、誰にとっても「正当な理由とはいえない」でしょう。違いますでしょうか。

 しかし、どーしても気になるとおっしゃるのであれば、「正当」とは別の無定義概念を使って書き直すことも可能でしょう。

 もっとも、しっくりくる表現がいまのところ見つからないのではありますが。

 それでも、無理やり言い直してみるとすれば、「正当な理由のない」とゆーのは、「個人的にしかすぎない理由での」くらいになりますでしょうか。

 とゆーわけなので、命題Xは、みかけほどには、人によって解釈が異なることはないとおもいます。

 少なくとも、「ただたんに動物的な欲求(性欲など)を満たしたいとゆー理由」とか、「ただたんにお金が欲しいとゆー理由」とか、そのあたりを確認しておきさえすれば、議論が混乱するとゆーことはまずないでしょう。


3.万人に共通する「根本的な規範」はない?
 話をわかりやすくするために、「正当な理由のない」を「ただたんに性欲を満たしたいとゆー理由での」に限定してみましょうか。

 ついでなんで、「基底的価値」も「生命」に限定してみましょうか。

 すると、命題Xは、こうなります。

命題X’「ただたんに性欲を満たしたいとゆー理由での生命に対する攻撃は絶対的不正義である」

 命題X’は、社会の構成員全員が認めざるをえない「根本的な規範」の一つだとわたしはおもいます。

 しししんちゅうのむし様の「万人に共通する『根本的な規範』はない」とゆーご主張はあまりにも強すぎるのではないでしょうか。わたしとしては、命題X’を反証としてあげておきます。

 じっさい、しししんちゅうのむし様も、「命題Xはわれわれに共通して成り立ちます。(と見做すしかないです) 」と書かざるを得なかったのですから。


4.見殺しにする権利はあるのか?
 「殺されようとしている人を見殺しにする権利もある」という理論は、 「自分を見殺しにしようとした連中に対しては、責めたり非難したりする権利はない」 という帰結を論理的に含意するでしょう。しししんちゅうのむし様の意図がどうであれ。

 ある理論がどのような論理的帰結を含意しているかは、その理論じたいにもとづいて判断すればよいし、むしろそうすべきでしょう。理論の提唱者の意図がどうであれ。

 「非難」については、記事の中でも最初に触れたわけですけれども、もう一度説明してみましょう。記事を読み返してもらえばおわかり頂けるとおもいますが、わたしは、さいしょから、「非難」を感情の問題として論じてなどいないのです。

 そもそも、ある人(甲)がだれか(乙)のある行為(α)を非難できるためには、少なくとも甲と乙との間で、「αはやってはいけないことである」とゆー共通の認識がなければならないでしょう。

 このように述べておけば、わたしが言うところの「自分を見殺しにしようとした連中に対しては、責めたり非難したりする権利はない」 の意味は、たぶん、おわかり頂けるだろうとおもいます。感情の問題として論じていないとゆーことを含めて。

 わたしは、「感情を根拠にして、理論を構築」しようとしているわけではありません。


5.不正な扱いに対する申し立てを可能にするための正義論
 わたしが言うところの「非難する権利がある」とゆーのは、ある申し立てが上記のような論理的資格を有するとゆーことなのです。

 だから、「不当〔不正?〕な扱いを受けたと感じれば、非難する権利はある」とゆーことには必ずしもならないのです(そもそも、その問題を解決するために、わたしは特殊正義論を構築しようとしているわけです)。

 いくら自分が不正な扱いを受けたと思っても、そのように扱った当の相手が、その扱いについてなんら不正であると思わないのであれば、相手が自分をそのように扱ったことについていくら申し立てても無駄でしょう。

 だから、特殊正義論が必要だとわたしはおもうのです。


6.「見殺しにする」の例について
 わたしは、他人の生命を守るために、自分の生命を差し出す義務まであるとは思ってませんし、わたしの理論はそのようなことまで要求するものではないとおもいます。

 わたしの理論は、そのような論理的帰結を含意しますか?もし含意すると思われるのであれば、どういった推論でそのような論理的帰結が導かれるのか、具体的に指摘して頂ければ助かります。

 わたしが「見殺しにする」という表現で考えていたのは、「ある人が殺されないために何かやろうとおもえばできるにも関わらず何もしない」とゆーような感じのことです。

 また、論理的には、「義務がある」とゆーことと、実際に、「その義務を果せる(た)」とゆーことは別問題です。

 何もできないんなら、何もできません。トートロジーです。何もできないのにもかかわらず、何かをせよとゆーのは、不可能事の要求であって、もちろん、そんなものが義務であろうはずもありません。

 しししんちゅうのむし様があげられた例でいうならば、逃げた男とゆーのは、おそらく、夢中で逃げるしかなかったのでしょう。おっちゃんの生命を守るために何かできることはないだろうか、なんてことは、考えてる余裕がなかったのでしょう。ふつうは、そーゆーのまで含めて「見殺しにした」とは言わないのではないですか?

 もっとも、その逃げた男とゆーのが、ピストルを持った警察官だったとゆーのなら、話は別ですけれども。
  1. 2009/05/03(日) 02:49:16 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

正義論の目的(ネタバレ注意)

 正義論の目的は2つあります。

 ひとつは、もうすぐ裁判員制度が現実にはじまってしまうので、このタイミングで、デタラメな相対主義にきちんと釘をさしておく必要があるとゆーこと。

 デタラメな相対主義が世の中に蔓延して久しいです。でも、それはまぁ、ネットでウダウダ言ってるだけなら、実害はまだ少ないともいえます。しかし、現実の裁判にまでデタラメな相対主義が侵食してくるとなると、これはもう悲劇でしょう。

 ま、わたしなんかが何を言ったって、誰も聞いちゃいないだろうから、デタラメな相対主義につまようじをさしたことにすらならないとは思うわけだけれども、それでも、できることはやっておかないとね。

 で、もうひとつの目的は、絶対的正義を詐称する相対的正義に壊滅的ダメージを与えること。

 相対的正義にしかすぎないものが、あたかも絶対的正義であるかのような顔をしていられるのは、絶対的正義の中身がきちんと限定されていないからに他ならないだろう。

 今まさに裁判員制度がはじまろうとしているこの期に及んでなお、正義を真正面から論じることを忌避する風潮がある。ほんま、アホかと思うけど、現実にそうなんですよ、奥さん!

 このような風潮は、相対的正義にしかすぎないものが、あたかも絶対的正義のような顔をしていることに対するある種の嫌悪に起因するようにも思うんだけどさぁ。

 でもねぇ、その嫌悪のエネルギーは、むしろ、正義を真正面から論じることに使われるべきだろう。なのに、みんな、そうしないんだよねぇ。ほんま、アホかと思うけど、現実にそうなんですよ、お嬢さん!

 正義を真正面から論じることを忌避することは、相対的正義にしかすぎないものが、あたかも絶対的正義のような顔をしていられることを助長するものでしかないのにね。なんで、こんな簡単なことがみんなわかんないんだろうね。もしかしたら、世の中、アホばっかりなの?
  1. 2009/05/03(日) 03:02:19 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

命題Yのもとに命題Sがどう成り立つかを考えてみました


命題Y「社会の構成員全員は、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指す存在である」

命題S「社会の構成員は、絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会[*1]を維持していく義務を負う」
[*1]「最低限の社会」とは、構成員が、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指しうる社会をいう。

命題Yは、事実の記述であり、命題Sは、規範命題です。
(~の義務を負うというのは、~すべきであるというのと同義なので、規範命題です)
事実の記述だけから、それを前提として、規範命題に帰結されることはありません。
規範命題(~すべし)は、その根拠を求めれば、規範命題となります。
その規範命題の根拠は、さらにその根拠は・・・と、さかのぼった究極のもの、つまり、事実命題における
「公理」にあたるものを、「根本的規範」と私は考えています。
これは、先のリンク先のさらにリンク先でLibra様が紹介されている下地さんの論文の最初に出てくる
「ドグマティックな信念」と同じものです。
「万人に共通するものはない」というのは、この根拠の大本にあたる「ドグマティックな信念」である
規範命題のことを指しています。もっとも、この規範命題から帰結されたどのような規範命題のどれにしても
万人に共通たり得るものは、あり得ないとは思うのですが。
(Libra様が挙げてくれた「ただたんに性欲を満たしたいとゆー理由で」の例にしても、私やLibra様や、このブログを見るような人たち
にとっては、了承できることが予想できますが、一万人もいれば賛成しない人が出るだろうことは容易に想像できます。
例えばアウトローの人とか。ジャイアン曰く「お前のものは俺のもの。」)

では、命題Yからどのようにすれば命題Sが帰結されるのでしょうか。
命題Yの他に以下の各命題が隠されていると推理します。

YA「各自が望む非基底的価値は、共通の基底的価値がなければ実現できない」
YB「絶対的不正義とは、共通の基底的価値を攻撃することである」
YC「各自が望む非基底的価値の実現を阻止することは許されない」
YD「共通の基底的価値への攻撃をしてはならない」
YE「共通の基底的価値への攻撃を許してはいけない」
YF「絶対的不正義を実行してはならない」
YG「絶対的不正義の実行を許してはならない」

このうち、YC、YD、YE、YF、YGが規範命題です。

(YC ∧ YA) → YE
YE → YD
(YD ∧ YB) → YF
(YE ∧ YB) → YG

という構造になっています。YCが根本的な規範命題となります。
最終的な帰結はYFとYGであり、
YF「絶対的不正義を実行してはならない」は共同体内の禁止事項
YG「絶対的不正義の実行を許してはならない」は共同体の犯罪予防事項です。
で、私はYF(禁止事項)しか成り立たないと考えているのに対して、
Libra様はYFとYG両方(禁止事項と予防事項)共、成り立つと考えておられるのではないでしょうか。想像ですが。

私自身は、YD「共通の基底的価値への攻撃をしてはならない」ことの根拠を説明せよ、と言われてもうまく
説明することはできません。根拠がないと考えているからです。
YCの「各自が望む非基底的価値の実現を阻止することは許されない」
YEの「共通の基底的価値への攻撃を許してはいけない」が成り立つとも思っていません。
上では構造を示しましたが、YCやYEを認めないとしても、YDは成り立ちます。

従って、私の考えでは、命題Sは成り立たず、命題S’は承認することになります。

命題S’「社会にどのような絶対的不正義がはびころうとも、社会の構成員は、それを除去しようと試みる義務までは負わない」

(命題S’’「社会の構成員は絶対的不正義を除去しようと試みる権利を有する」については、
自由権の範疇だと思います。禁止する必要はないので、権利がある。その程度の認識です。)




  1. 2009/05/04(月) 00:22:11 |
  2. URL |
  3. しししんちゅうのむし #-
  4. [ 編集]

で、私はLibra様の理論は無政府状態ならば、あり得るんじゃないかと思うわけです。

それで、不正義の除去という面倒なことについては、警察や自衛隊、司法などに丸投げしていると。
そのかわり、納税の義務があるということです。
  1. 2009/05/04(月) 00:35:56 |
  2. URL |
  3. しししんちゅうのむし #-
  4. [ 編集]

納税が義務なのは命題Sが成り立つからでしょう?

しししんちゅうのむし様

 さっそくのコメント、ありがとうございます。

1.命題Yについての誤解
 残念ながら、命題Yが誤解されてしまったようです。これまでの議論を思い出して頂けるなら、誤解されることはまずないだろうと思いましたが、あまかったようです。

 「2009/05/02(土) 00:45:39」で、わたしが以下のように書いていたことを思い出して下さい。

 「社会の構成員全員は、【自らが望む非基底的価値の実現を目指す権利】を有するが、しかしながら、そのことじたいを可能にするために、【絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会を維持していく義務】を社会に対して負う」と。

 この文章を思い出して頂ければ、わたしがいうところの命題Yの意味はおわかり頂けるだろうとおもいます。

 まぁ、言葉を省略せずに補ってみるとすれば、次のようになるでしょう。

命題Y「社会の構成員全員は、それぞれ、自らが望む非基底的価値の実現を目指す〔権利を社会に対して要求する〕存在である」

 あと、わたしは、「不可能事の要求はしてはならない」とゆー規範命題を自明であると考えています。これはまぁ、「2009/05/03(日) 02:49:16」のわたしのコメントを読んでくださっているなら、おわかりになっているだろうと思いますが、いちおう、念のために補足しておきます。

 以上のことをふまえて、もう一度、お願いいたします。

 しししんちゅうのむし様のご見解によれば、「基底的価値の定義と、命題Yのもとに、命題Sは成り立つ」ということじたいが間違いだとゆーことになるのでしょうか。あるいは、命題Yは成り立たないとゆーことなのでしょうか。はたまた、「不可能事の要求はしてはならない」とゆー規範命題がそもそも成り立たないとゆーことになるのでしょうか。お手数ですが、そのあたりをもう一度ご説明ください。


2.「ただたんに性欲を満たしたいとゆー理由で」の例
 この例について、しししんちゅうのむし様は、「一万人もいれば賛成しない人が出るだろうことは容易に想像できます」とおっしゃるわけですが、【理をもって】賛成しない人が出てくるとは、わたしには思えません。

 逆の言い方をしますと、仮に「賛成しない」と言い出す人が出てきたとしても、わたしが記事の中で書いたような反駁によって、けっきょくのところは賛成せざるを得ないだろうとわたしは思います。

 アウトローの人だろうと、ジャイアンだろうと、「自らが望む非基底的価値の実現を目指す権利を社会に対して要求する存在」である以上は、必然的にそうならざるをえないだろうと思います。

 それとも、わたしが記事の中で書いたような反駁に対抗できるような理をもって賛成しないことが可能であると、しししんちゅうのむし様はおっしゃるのでしょうか。だとすれば、それは、どのような理なのでしょうか。


3.命題Sが成り立つから納税は権利ではなく義務なのでは?
 「不正義の除去という面倒なことについては、警察や自衛隊、司法などに丸投げしてい」て、「そのかわり、納税の義務がある」とのことですが、それはまさに、【社会の構成員が、絶対的不正義の除去を試みていくことを通じて、最低限の社会を維持していく義務を負っている】(命題S)とゆーことでしょう。

 だって、命題Sが成り立つからこそ、納税は権利ではなくて義務なのでしょう?

 しししんちゅうのむし様がこれまで主張されてきたように、不正義の除去を試みることじたいが義務ではなく権利にすぎないのだとすれば、不正義の除去を試みるための手段としての社会的制度(警察など)のコストを負担するとゆーこと(納税)もまた、義務ではなくて権利にすぎないとゆーことになるはずでしょう。違いますか?

 もちろん、社会の構成員が絶対的不正義の除去を試みるための手段には、いろんなものがありえます。絶対的不正義に相当する行為を自ら直接的に物理的に妨げようと行動することだけが唯一の手段とゆーわけではありません。

 警察に通報することも、大声で叫ぶことも、時にその手段でありえます。

 命題Sは、絶対的不正義の除去を試みるための手段を、「絶対的不正義に相当する行為を自ら直接的に物理的に妨げようと行動すること」に限定しているわけではありません。


4.ひき逃げの例
 もっといえば、【絶対的不正義に相当する行為を行なった者はほとんど確実にペナルティを受けることになる】という社会的なシステム(刑法および刑事裁判制度)をきちんと構築しておいて、その抑止力によって、絶対的不正義の発生じたいを抑えようとすることもまた、社会から絶対的不正義を除去しようと試みるための手段に含まれるでしょう。

 命題Sを承認する場合には、そのような社会的なシステムが十分に機能するように努める義務が、社会の構成員にはあるとゆーことになります。たとえば、ひき逃げを目撃した人には、裁判で自分が見たことについてきちんと証言する義務があることになります。

 しかし、もし命題S’を承認するならば、ひき逃げを目撃した人がいたとしても、その人は、ひき逃げについて証言する義務までは負わないとゆーことになります。

 つまり、命題S’を承認するとゆーことは、以下のようなことを承認するとゆーことになります。

 「自分の愛する人がひき逃げされて、そのひき逃げを目撃した人がたしかにいる場合でも、その目撃者は証言する義務までは負わない。たとえ、その証言がないせいでひき逃げ犯が無罪になろうとも。」

 このようなことを心の底から承認できる人がいるとは、わたしにはとうてい思えないのですが、しししんちゅうのむし様は命題S’を承認するとおっしゃるわけですよね。うーむ。

 とゆーことは、しししんちゅうのむし様は、しししんちゅうのむし様の愛する人がひき逃げされて、そのひき逃げを目撃した人がたしかにいるような場合であっても、その目撃者は証言する義務までは負わないとゆーことを承認されるわけですよね?たとえ、その証言がないせいでひき逃げ犯が無罪になろうとも、その目撃者は家でテレビを見たり、ごろごろしてもOKだと。

 逆に、しししんちゅうのむし様がひき逃げを目撃されたとしても、自分には証言する義務まではないとお考えになるわけですよね。

 しししんちゅうのむし様がホントにホントに心からそうお考えになるとゆーのなら、わたしとしては、もう驚くしかありません。
  1. 2009/05/04(月) 04:05:19 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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下地論文はけっこうデタラメ

しししんちゅうのむし様

 以下は、余談です。

 下地さんの論文は最後までお読みになりましたか?

 あの論文にはかなりオカシイことが書いてありますよねぇ。お気づきになりました?

 今やってる議論が落ち着いたら、下地論文のオカシイところについても議論してみたいと思うんですけどいかがでしょうか。

 もっとも、今やってる議論が落ち着くなんてことがあるのかどうか、わかんないですけどね(笑)。

 わたしは、今やってる議論をめちゃめちゃ楽しんでますけど、しししんちゅうのむし様はいかがでしょうか。あんまり楽しくないんであれば、無理に付き合う必要はないですよ。せっかくのGWなんだし。でももし、しししんちゅうのむし様も楽しんでおられるんなら、がっつりとお付き合いくださればさいわいです。
  1. 2009/05/04(月) 06:25:19 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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はじめまして

はじめて書き込みさせていただきます。
emenといいますが、いつも勉強させてもらっています。

Libraさんの正義論に納得がいかず考えを巡らしていたのですが、どうも私は「絶対的正義」という言葉を勘違いしていたことに気がつきました。
私なりの理解の仕方として、絶対的正義というものは基底的価値を元にしているから絶対的正義たりえ、相対的正義というものは相対的価値を元にしているゆえに相対的正義であるというものです。
こうした認識だったので、私は生命や自由などは「絶対的価値」ではないという反論をしようとしていました。
以下に、以前作っていた反論を(恥を忍んで)載せたいと思います。


はじめ_____________________________

正義論で疑問に持った点です。
まず、Libraさんが言われる絶対的正義が相対的正義と相反する場合にはどうなるのでしょうか。

「正当な理由ない自由に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」ということは理解しました。

しかし、他人の生命を奪うことで自己の利益としている人にとっては絶対的正義よりも相対的正義が優位にあるように思います。
議論をされたブログでのやりとりのにもありましたが、最愛の人が殺された場合、自身の手で復讐するというのは相対的正義なのでしょうが、復讐を行うものにとっては絶対的正義は無視されてしまいます。

生命を自由に置き換えるとわかりやすいでしょう。
かつては奴隷を当たり前のように使っている時代がありました。
奴隷の自由を奪うことで自己の利益を得ている人にとって、絶対的正義はないものとされます。

私がひっかかるのは「絶対的」正義とされても、状況によってはけっして「絶対的」ではありえなくなってしまうということです。
つまり、認識する人物によって絶対的とされたものが相対的なものへと変化してしまうことに「絶対的」正義というものが実は「変わり行く正義」であり相対的正義でしかないのではないかという疑問です。

Aから見たAの生命の価値は重要なものです。Bから見たBの生命の価値もまた重要なものです。
Aから見たBの生命の価値も重要です。しかし、Bから見たAの生命の価値は重要ではありません。
この場合、BはAの生命を奪うことで利益を得ようとします。
こうした生命の価値観の不一致によって、絶対的価値というものがあくまで認識を一にするものたちにのみ与えられるものだということがいえます。

「絶対的な正義」の例示で
> よりコンパクトにいうなら、「正当な理由のない生命に対する攻撃は絶対的不正義であり、それに対する防御は絶対的正義である」ということ。このような正義が社会の構成員全員に通じるとゆーことは明らかでしょう。

> もし通用しないとゆー人がいたら次のように聞いてみたらよろしい。もし、正当な理由なく生命を奪われようとしているのがあなただとしても、あなたは上の正義を社会全体には通用しないものだとゆーのかと。

と書かれていますが、この論の根拠が絶対的正義というものが存在するという前提でされている部分に問題があります。
自分の生命は重いけど、他人の生命は軽いと考えるものにとっては、上記の正義は通用するものではないでしょう。
そうした相対的正義を持つ人はだまって命を差し出す必要はありません。
個人の持つ相対的正義が優先された場合において、Libraさんがいうところの絶対的正義が意味をなさないのです。

社会の構成員の大多数が望む正義というものは存在するでしょうが、社会の構成員全てが望む正義があるとは思えません。
絶対的正義はなくとも、構成員の大多数が考える相対的正義があり、それを実行しているというのが社会の現実なのではないかというのが私の意見です。

終わり____________________________


お分かりかだと思いますが、反論を書いたときの私は勘違いをしています。
それは基底的価値を説明するところで引用された小林さんが述べておられます。

>その意味で、生命には最高ではないとしても「絶対的な」価値があるということができる。ただし、「絶対」ということばは使わず、やや不正確にはなるが「特別な」価値だというほうがいいだろう。生命に絶対的な価値があるという言明は、生命が不可侵であるとか最高であるとか主張しているように誤解されやすいからである。少し耳慣れないことばかもしれないが、すべての土台になるという意味で、「基底的」な価値であるというのが、最も適切な表現だろう。

私はどうも「絶対的」という言葉から違ったものを連想してしまったんですね。
広辞苑第六版で意味を調べたところこのようにありました。

>ぜったい‐てき【絶対的】
何物とも比較したり置き換えたりできず、また、他からどんな制約もうけないさま。「―な権力」⇔相対的。

私が言わんとするのは、「絶対的」正義という言葉ではLibraさんの言わんとするところの絶対的正義を説明するには非常に誤解を産みやすいのではないかということです。
事実、私は個人の認識によっては相対的正義が絶対的正義を駆逐してしまうという考えを元に反論しようとしました。
犬のメメさんのところでのログを読みましたが、正義は「絶対的」なものだという認識が理解を妨げている印象を受けました。
小林さんの言を借りれば、「絶対」ということばは使わず、やや不正確になったとしても「特別な」正義だと言う方が誤解を産まないと思うのです。
理論から理解するのではなく、現実では相対的正義が生命や自由を奪うという事実を知っている人間からすると「絶対的」といわれれば、説明された理論より自分の知る言葉としての「絶対的」を元に判断してしまいがちなのでしょう。

Libraさんの理論に対する反論をしようと思って考えていたのですが、上で私が理解した「特別な」正義という意味であれば今のところ疑問はありません。
ここで言いたかったのは、主張されたいことは素晴らしくても、誤解を産むのでは非常にもったいないということですね。

最後に少々苦言を呈させていただきます。
犬のメメさんのところでのログを読んでの感想でもあります。
Libraさんの議論のあり方はルールがはっきりしており私にとって非常に勉強になりました。
理論を理解したのであれば、具体的にどこの部分に対しての反論であるか、どこに矛盾があるかを示すことが必要だとする点です。
それができないのであれば、理論を理解していないことと同義だとすることで議論の問題点を明確にすることも学ばせてもらいました。
しかし、何故そうなってしまったのかという部分まで考えうる範囲で説明すべきなのではないでしょうか。
今回の私のコメントは、主にそこを説明するためのものです。
相手と自分との理解の齟齬がどこにあるのかを探ることも重要なことだと私は考えます。
互いの理論と理論で斬りあうのも重要ですが、何故斬りあうことになるのかという理由を明確にすることも議論を進めるためには必要なことです。
頑なな考え方しかできない人(例:盲目的な学会員)との議論においては、自分の意見が理解されない時点で議論を終わることも致し方ないとは思います。
しかし、誠実な相手のいる議論の場では、自分の理論を理解してもらうために最大限努力することが求められます。
ただ、ネット上ではそこまでやるものではないというのであれば、おせっかいが過ぎますね。
もし、そういったことも十分に検討されているのであれば、浅学である私の苦言には目をつぶっていただけたらと思います。

今後も、ちょくちょく勉強させに来させていただきますのでよろしくお願いいたします。
  1. 2009/05/23(土) 03:52:38 |
  2. URL |
  3. emen #76pF2ij2
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コメントありがとうございました

 emenさま

 丁寧なコメントをありがとうございました。

 今日はこれから仕事なので、レスは改めてじっくりと書かせて頂きます。

 実は、最近、マンガばっかり読んでまして、正義論のことはすっかり忘れておりました。

 なので、emenさまの今回のコメントは、正義論をもう一回考えてみる、いい機会になりそうです。

 ちょうど、裁判員制度もはじまったことですしね。

 あと、小林さんの「生命は基底的価値」という理論ですけど、アラン・ゲワースってゆー人が、それに近いことをもっと詳しく体系的に、小林さんよりもずいぶん前に提唱してるみたいです。
  1. 2009/05/23(土) 06:22:57 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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emenさまへの改めてのレス

 以下、emenさんのご意見に対するコメントを書いてみます。

1.emenさんの反論(?)に対するコメント
 「絶対的正義」とゆーのは、定義としては、「社会の構成員全てが望む正義」とゆーよりは、「社会の構成員全てが理として認めざるをえない正義」です。いってみれば、どの構成員にとっても【恣意的に認めたり否定したりすることができない】ような、【必然的】な正義です。

 で、それはたしかにあるだろうと主張するのがわたしの理論です。

 emenさんの反論(?)の以下の部分をおかしいと感じました。

> Aから見たAの生命の価値は重要なものです。
> Bから見たBの生命の価値もまた重要なものです。
> Aから見たBの生命の価値も重要です。
> しかし、Bから見たAの生命の価値は重要ではありません。
> この場合、BはAの生命を奪うことで利益を得ようとします。

 AもBも、文脈からいって、社会の構成員でしょう。とすると、ここで語られているのは〔社会の構成員の〕生命の価値についての話だということになります。

 Aはふつうに生命の価値を認めているといえますが、Bはふつうに生命の価値を認めているとはいえません。

 社会の構成員全体を「Aという個体が属するグループ(グループA)」と「Bという個体が属するグループ(グループB)」に分離する概念がBの頭の中には存在し、BはグループBの生命の価値を認めているにすぎません(グループBが個体Bのみからなるグループである場合、エゴイズムの典型例となります)。

 こういう場合、Bは、グループAに属する個体から、じしんの生命に対する攻撃がなんら正当な理由もなく加えられても、何も文句は言えないということになります。だって、Bは、自分じしん、グループAに属する個体の生命に対して正当な理由もなく攻撃をしても、なんら文句を言われるすじあいなどないと思っているわけですから。

 すると、Bのような社会の構成員などはそもそも存在しえないということになるでしょう。だって、「Bから見たBの生命の価値もまた重要なもの」である以上、Bは、「Bの生命に対してなんら正当な理由もなく攻撃が加えられたとしても何も文句は言えない」ということを許容できるわけがないのだから。

 この議論のもう一つのポイントは、価値は【個人的なものではなく社会的なものである】ということかもしれません。この点についての小林和之さんの説明を引用しておきましょう。

───────────────
 欲求は各個人がもつものだが、物事によって、多くの者が欲するものとそうでないものがある。多くの者によって求められる物事は、集団の中で重んじられるようになる。そういう状態を、ある物事に「価値」があるという。
 このように、「価値」は一人ひとりの人間の欲求に由来するものだが、いったん社会の中である物事に価値があるとされるようになると、それ自体が欲求を生み出すことになる。本来、多くの人が欲するから価値があるのだが、他人が欲するから欲しくなるという状況が生まれるわけだ。また、自分が欲しくなくても、多くの者が欲することによって社会的に重んじられているものを無視することはできなくなってくる。こうして「価値」は特定の人の欲求に還元できない独自性をもつことになる。欲求は個人的なものだが、「価値」は社会的なものなのだ。

(小林和之『「おろかもの」の正義論』〔ちくま新書509〕、筑摩書房、2004年、pp. 38-39)
───────────────

 人が何かに価値を認めるということは、それに価値があると認める他者が存在するということを含意します。

 で、さまざまな価値の中には、【それを認めない他者が存在してもらっては困るような特別なもの(基底的価値)】があって、「〔社会の構成員の〕生命」もその一つです。


2.理論を理解してもらうための最大限の努力は必要
 自分の理論を理解してもらうために最大限の努力をすることが必要だというご意見については同意します。もっとも、有限な時間を「自分の理論を理解してもらう」という営みとそれ以外の営みにどのように配分すべきかは悩ましいところです。相手側のわたしの理論に対する興味の問題もありますし、わたしにも他にやりたいことがたくさんありますから。

 ただ、わたしは、「ネット上ではそこまでやるものではない」という考えは持っていません。ネット上か否かという基準で上記の努力についての判断に線引きしたりはしていません。


3.「絶対的」という言葉の使用の是非
 「絶対的」という言葉の使用が、emenさんの理解を妨げたとのことですが、【社会の構成員全てが理として認めざるをえない正義(もしそういうものがあるとして)】を「絶対的正義」と表現するのは、そんなに理解に苦しむようなことなのでしょうか。

 【社会のどの構成員も理として恣意的に認めたり否定したりすることができない】という意味を表現するのに、「絶対的」という言葉ほどぴったりな言葉をみつけることがわたしにはできません。「特別な」という言葉では、上記の意味を表現できないとおもいます。あえて、言い換えるとするならば、「必然的」という言葉ですが、なんか、それもイマイチな感じがします。

 世の中にはデタラメな相対主義が蔓延してしまっており、そのような風潮からすれば、「絶対的」という言葉を使用することじたいが非難の対象となってしまうのかもしれません。

 しかし、記事の中でも書いたように、わたしはそのような風潮じたいに大いに異論があります。そういう観点からも、「絶対的」という言葉については、使うべきときには積極的に使っていこうと考えています。


4.小林さんは「絶対の正義」を否定
 ちなみに、小林さんは、価値論レベルの相対主義を否定するといいながらも、「人の生命すら、絶対のものではありません」とおっしゃっています。

----------
…わたしの研究テーマは、法哲学では「価値論」にいちおう分類されるのですが、相対主義を否定しています。批判、というほどの手間はかけていませんが。「人を殺すのはよいことである」というような価値観は、相対主義では否定できませんが、それでは社会が成り立ちません。

 では、「絶対の正義」があるのでしょうか。わたしはこれも否定します。人の生命すら、絶対のものではありません。

 何が正しいかを絶対的に決定することができず、使うことのできる手段も資源も人も時間も限られている中で、いかに問題を処理するか。それを扱うテクノロジーがわたしの考える法哲学なんです。

(小林和之ホームページ内「プレQ&A」、
http://thinker.jp/tls/qa/preqa.htm
----------

 正直言って、わたしには、小林さんのおっしゃっていることが理解できません。相対主義を否定するとゆーことは、少なくとも1つは絶対的な価値が存在するということでしょう。で、その絶対的な価値の1つが「人の生命」であるとゆーのが小林さんの立場なのかと思っていたら、「人の生命すら、絶対のものではありません」とおっしゃる。

 小林さんは、そこで「絶対の正義」があるということも否定されているわけですが、「それでは社会が成り立ちません」のとちゃいますやろか、とわたしは思います。

 そういうわけで、小林さんの上のご意見はちょっと理解に苦しみます。
  1. 2009/05/24(日) 13:34:23 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

凄いですね。

初めまして。

「意味のないことなんて起こらない」のミルさんのコメントから伺いました。
法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分に魅かれて伺いました。
もう少しわかりやすく教えて頂ければと思います。
機会があればでいいので。。。

それにしてもブログに書かれてる言葉や内容が凄くて難しくて、凄い人だなぁと思いました。
どんな方かとプロフをクリックしたら、暗証番号みたいな入力画面が出ました^^;。
難しくて理解するのに時間がかかるので、今日は寝なきゃいけないのでまた今度拝見したいです。

ボクはもう50過ぎのオヤジですが、貴君はまだお若いと感じます。
時代は凄い人材を生むものだと・つくづく感じます。
ボクが低レベルで拙いせいもありますが、凄いと思いました。
決して冷やかしなどではありません。
  1. 2009/06/10(水) 03:12:14 |
  2. URL |
  3. kan #r6uSoc5A
  4. [ 編集]

実はすっごく凄くないんですけどね

 kanさま、はじめまして。

 わたしなんかが「凄い人」であるはずもありませんが、そのように言ってくださる人がいるというのは、正直いって、うれしいものですね。

 さて、「法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分」ですが、これは、『法華経』の「分別功徳品」の中にあります。

 まず、鳩摩羅什の漢訳から該当箇所を示してみますと、以下のようになっています。


○鳩摩羅什の訳【引用1】
───────────────
阿逸多。是善男子善女人。不須爲我復起塔寺及作僧坊以四事供養衆僧。所以者何。是善男子善女人。受持讀誦是經典者。爲已起塔造立僧坊供養衆僧。〔中略〕是故我説如來滅後。若有受持讀誦爲他人説。若自書若教人書供養經卷。不須復起塔寺及造僧坊供養衆僧。

(『法華経』「分別功徳品」、大正蔵第9巻、p. 45b-c)
───────────────


 で、この書き下しが以下です。


○岩波文庫の書き下し【引用2】
───────────────
阿逸多よ、この善男子・善女人はわが為めにまた塔寺を起〈た〉て及び僧坊を作り、四事〈しじ〉をもって衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ。所以〈ゆえ〉は何ん。この善男子・善女人にしてこの経典を受持し読誦せば、為〈こ〉れ已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養せしものなればなり。〔中略〕この故にわれは説く『如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人のために説き、若しくは自らも書き、若しくは人をしても書かしめ、経巻を供養すること有らば、復塔寺〈またとうじ〉を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ』と。

(岩波文庫『法華経(下)』〔坂本幸男他訳注、1967年〕、pp. 58-60、〈〉印の部分は原文ではルビ)
───────────────


 このままでは理解しにくいかもしれないので、梵本からの和訳も引用しておきます。


○梵本からの和訳【引用3】
───────────────
 ところでまた、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を聞いて(それを)謗らず、むしろ随喜する人々を、私は深い願いをもって信順する良家の子と呼ぶのである。まして、(この法門を)受持し、読誦する人々はいうまでもない。したがって、この法門を書物にして肩に担う人は、如来を肩に担う人である。アジタよ、その良家の息子あるいは娘は、私のためにストゥパを建てたり、精舎を建てたりする必要はなく、比丘たちの集団に病いを癒す薬品(など)の生活必需品を布施する必要もない。それはなぜかといえば、アジタよ、(この法門を受持し、読誦する)その良家の息子あるいは娘は、すでに私の遺骨(舎利)に遺骨供養を行なったことになり、高さはブラフマー神の世界にいたり、周囲が次第に細くなり、傘蓋がめぐらされ、勝利の幡が立てられ、鈴が澄んだ音をたてている、七宝からなるストゥパを建てたことになるからである。〔中略〕このようなわけで、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を受持したり、読誦したり、教示したり、書写したり、もしくは書写させたりする人は、私が完全な涅槃にはいったあとで遺骨を納めるストゥパを建てたり、僧団への供養をしたりする必要はない、と私は言うのである。

(「第十六章 分別功徳品」、松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、pp. 129-131)
───────────────

 
 以上の【引用2】と【引用3】を何回か読んで、あるていど理解したら、以下の菅野教授の解説をもう一度読んでみて下さい。


○菅野教授の解説【引用4】
───────────────
『法華経』の中に、部派教団との厳しい対立、緊張関係を見いだすことはそれほど難しいことではない。たとえばサンガ(仏教教団)に対する供養の否定という思想も見られるほどである。分別功徳品第十七には、「善男子、善女人よ。私のためにもはや塔寺を起てたり僧坊を作ったり、四事(衣服・寝具・飲食物・医薬)をサンガに供養する必要はない。なぜならば、この善男子、善女人が経典(『法華経』を指す)を受持・読誦するなら、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからである」と述べている。『法華経』の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としないという、見方によってはきわめてラディカルな思想を説いている。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、p. 50)
───────────────
 
 
 菅野教授は「衆僧」を「仏教教団」と解説されていますが、これは全く正しいとおもいます。

 「衆僧」という訳語は、かの有名な自我偈にも出てきますけど(「時我及衆僧倶出霊鷲山」)、原語は“ZrAvaka-saMgha”で、直訳すると「声聞(ZrAvaka)の集団(saMgha)」です。

 「声聞(ZrAvaka)」というのは、「教えを聴聞する者」という意味で、仏教においては、もともとは出家・在家を問わず、仏弟子一般を指す言葉でした。

 したがいまして、「衆僧(ZrAvaka-saMgha)」は、その言葉の本来の意味からして、「仏弟子の団体(仏教教団)」と解することができます。

 以上、とりやいず、「法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分」について、少し詳しく説明してみました。これでも難しいとすれば、それは、わたしが「凄い人」などではないという、なによりの証拠なのであります。

 あと、「プロフをクリックしたら、暗証番号みたいな入力画面が出」たとのこと。実は、あれは、携帯からしか見れない仕掛けになっているのです。
  1. 2009/06/11(木) 00:04:10 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

ありがとうございます^^

なるほど!!
分別功徳品ですか!^^

本来、寄付はいらないし・する必要もない。
なので寄付で悩むことなど、本当は必要ない。

もちろん中には、誠意から供養したい!気持ちだけでも寄付したい!という人もいらっしゃるかもしれません。
それは、あくまでその人の誠意なので、それは尊い気持ちだと思います。

宗教団体が寄付を無理やり押し付ける。
呆れた事に一口1万円といって、押し付ける。
様々なモノを買わせる。
それが正しいことだと、団体の代表が叫ぶ。
これは本来の法華経を侮辱することだと思います。

勉強になりました。
ありがとうございます^^。
  1. 2009/06/16(火) 18:50:22 |
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  3. kan #r6uSoc5A
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