仏教と批判的合理主義

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縁起→円融三諦→十如是→一念三千

leaf 文証の追加

   記事「縁起と一念三千」の「文証」の項目の中で、『十如是事』を引用しておいたのは、山中講一郎『日蓮自伝考』の読者の方々を想定してこの記事を書いたからなのですが、『十如是事』の引用に抵抗を感じるような方に対しましては、以下の『摩訶止観』(チギ)の文を文証として示したいとおもいます。


leaf 『摩訶止観』からの文証

●『摩訶止観』の原文

如是本末究竟等者。相為本報為末。本末悉従縁生。縁生故空。本末皆空。此就空為等也。又相但有字報亦但有字。悉仮施設。此就仮名為等。又本末互相表幟。覧初相表後報。覩後報知本相。如見施知富見富知施。初後相在。此就仮論等也。又相無相無相而相。非相非無相。報無報無報而報。非報非無報。一一皆入如実之際。此就中論等也。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 53b-c)

●菅野先生の訓読

 如是本末究竟等とは、相を本と為し、報を末と為す。本末悉く縁従り生ず。縁生の故に空にして、本末皆な空なり。此れは空に就いて等と為すなり。又た相は但だ字のみ有り、報も亦た但だ字のみ有り。悉く仮りに施設す。此れは仮名に就いて等と為す。又た本末互に相い表幟す。初めの相を覧て後の報を表わし、後の報を覩て本の相を知る。施を見て富を知り、富を見て施を知るが如し。初後相い在り。此れは仮に就いて等を論ずるなり。又た相にして無相、無相にして而も相、非相非無相、報にして無報、無報にして而も報、非報非無報、一一皆な如実の際に入る。此れは中に就いて等を論ずるなり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 256)

●菅野先生の現代語訳

 如是本末究竟等とは、相を本とし、報を末とする。本末はすべて縁から生じる〔縁生〕。縁によって生じるから空であり、本末はみな空である。これは空という視点で(本末が)等しいとする。さらに、相はただ文字があるだけで、報もただ文字があるだけである。すべて仮りに(文字を)設定するのである。これは仮名(22)という視点で(本末が)等しいとする。さらに、本末はたがいにはっきりと示す〔表幟〕。初めの相を見て後の報を表わし、後の報を見て本の相を知る。たとえば、布施を見て富を知り、富を見て布施を知るようなものである。初め<本のこと>と後<末のこと>とが互いにある。これは仮という視点で(本末が)等しいことを論じている。さらに、相でありながら無相、無相でありながら相、相でもなく無相でもないあり方、報でありながら無報、無報でありながら報、報でもなく無報でもないあり方、それぞれがみな真実ありのままの究極〔如実之際〕に入る。これは中という視点で、(本末が)等しいことを論じているのである。

(同上、pp. 158-159)

●菅野先生の訳注

(22) 仮名──仮りに名づけたもの。概念(名)は対応する実体のない仮りのものである。対応梵語はプラジュニャプティ〔中略〕。『中論』巻第四、観四諦品、「衆くの因縁もて法を生ず。我れ即ち是れ無なりと説く。亦た為是れ仮名なり。亦た是れ中道の義なり」(大正三〇・三三中)を参照。

(同上、p. 164)

leaf 縁起→円融三諦→十如是→一念三千

  この『摩訶止観』の文章によって、「縁起→円融三諦→十如是」という構造は、よくお分かりいただけるのではないかとおもいます。

  そして、「十如是→一念三千」という構造は、『十章抄』(日蓮)の「一念三千の出処は略開三の十如実相」(全集、p. 1274、この部分の真蹟あり)からご理解いただけるとおもいます。

  よって、「縁起→円融三諦→十如是→一念三千」という構造がご理解いただけるとおもいます。

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  1. 2007/09/08(土) 22:45:06|
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