仏教と批判的合理主義

真理について

leaf 対応説という真理観

  このブログでは「真理」という言葉をたびたび用いることになるかもしれません。そこで、まず最初に、「真理」という言葉を筆者がどのような意味で用いるかを簡単にご説明しておきたいとおもいます。「真理」というと、もしかしたら難しく聞こえてしまうかもしれません。そのときは「真である理論」と読み替えて頂くとよいかもしれません。

  今、ある一つの理論があるとしましょう。その理論がどんなものであるときに、わたしたちはその理論を「真である」というのでしょうか。いろいろな説があるようですが、わたしは「対応説」という考え方を支持しています。これがもっとも素朴な考え方ですし、それでいて、特に欠点もないようにおもえるからです(他の説を支持する人たちにはいろんな欠点が見えているのでしょうが…)。ここでは、このブログを読むのに必要なことだけ説明しておけばよいとおもいますので、以下では、対応説の立場から「理論の真偽」についての筆者の考えを説明したいとおもいます。

  理論というのは「世界についての説明(またはその体系)」といってもよいとおもいます。とすれば、ある理論が正しく世界を説明しているとき、その理論は真である(世界についての正しい説明である)ということになりそうです。では、「正しく世界を説明している」ということはどういうことでしょうか。「理論が世界と対応(一致)している」ということではないでしょうか。逆にいうと、理論がみずから説明しようとしているもの(世界)とズレていれば、その理論は偽である(世界についての正しい説明ではない)ということになります。真理についてこのように考えるのが対応説です。


leaf わたしたちは真理を所有できるか?

  対応説の立場に立って考えてみますと、理論は真であるか偽であるか、そのどちらかであるということになります。その理論が、わたしたちが生きているこの実際の世界にたしかに対応(一致)しているかどうかということですから。

  真でありそうな理論があったとき、それがたしかに真であるということを確実に証明する(正当化する)ことができれば、わたしたちは真理を所有できるということになるでしょう。さて、わたしたちにそのような手段があるでしょうか。

  仮に、もし、そのような手段がないのだとすれば、わたしたちが所有するどんな理論にも、誤りである可能性が例外なく常にあるということになります。そうすると、知識を探求するという営みじたいが無意味だということになってしまうのでしょうか。あるいは、それでもなお、知識の探求には意義があるといいうるのでしょうか。

  どんな理論であれ、その理論がたしかに真であるということを確実に根拠づける(正当化する)ことなどは不可能だとわたしはおもいます。しかし、それでも、知識の探求には意義があるとおもいます。わたしたちは、だれひとりとして真理を所有することなどできませんが、自分たちが誤っている可能性が常にあるということを深く自覚しつつ、みんなで協力して、おたがいに理論を厳しく批判しあっていくことによって、無限に真理へ接近していくことができると信じるからです。

  その際、批判の対象となるのはあくまでも理論であって、理論の持ち主の人格ではありません。真理を探究するための議論においては、理論とその所有者の人格をはっきりと区別すべきです。「すばらしい人格者が支持している理論だからその理論は真である」というように、理論と人格を混同している間は、真理を探究する議論にはなりません。

  また、批判は、相手の理論のどこがどのように誤っていると思うのかを、議論している相手に十分に伝わるように、具体的に特定して述べるものでなければなりません。もしそのようなものでないとすれば、批判をうけた側が自らの理論の誤りに気がついたり、批判者の指摘に誤りが含まれていることに気がついて異論を唱えたりすることができません。このようなものは、誤りの除去真理への接近)に全く寄与しません。そのようなものをお互いにいくらぶつけ合ったとしても、真理を探究する議論には全くならないのです。

leaf フッサールの言葉

  最後にフッサールの言葉をご紹介して、今回のお話はおしまいにしたいとおもいます。

たとえ学問が、最終的には自ら洞察せざるをえないように、「絶対的」な真理の体系の実現に事実上至ることがなく、その真理を繰り返し変更するよう強いられるとしても、学問はやはり絶対的な真理または学問的に真正な真理という理念を追いかけ、それゆえ、この理念に近似的に接近して行こうとする、無限の営みの地平のなかへ入り込んでいくことになる。学問は、この近似的な接近とともに、日常的な認識と自分自身とを無限に乗り越えていくことができる、と考えている。

(フッサール著・浜渦辰二訳『デカルト的省察』、岩波文庫、2001年、pp. 34-35)

  フッサールほど真剣に一生をかけて真理を求めた人というのは、そうはいないだろうとおもいます。それだけに、この言葉は、わたしの心にとても強く響いてきます(もちろん真偽は別問題です)。

  一点だけ注意が必要だとおもいます。今回ご説明した真理観から上の文章を理解するためには、「真理を繰り返し変更するよう強いられるとしても」という部分を「理論を…」と読みかえる必要があります。

  わたしたちは世界を自由に変更できたりしませんから、真理を変更することなどできません。一方、理論が世界とズレている(衝突する)とわかったときには、わたしたちは理論を変更するよう強いられます。そうやって、わたしたちの知識は前進していくわけです。

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  1. 2006/12/12(火) 20:24:49|
  2. 思想一般
  3. | コメント:8
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コメント

Libraさん、こんばんは。

> また、批判は、相手の理論のどこがどのように誤っていると思うのかを、
>議論している相手に十分に伝わるように、具体的に特定して述べるもので
>なければなりません。もしそのようなものでないとすれば、批判をうけた
>側が自らの理論の誤りに気がついたり、批判者の指摘に誤りが含まれている
>ことに気がついて異論を唱えたりすることができません。
「特定された批判」について(今でも)私は十分理解していなかったので今回の記事はありがたいです。
>  わたしたちは世界を自由に変更できたりしませんから、真理を変更する
>ことなどできません。一方、理論が世界とズレている(衝突する)と
>わかったときには、わたしたちは理論を変更するよう強いられます。
これは理解できます。私のもやもやしているところが少し整理できそうです。
学会員の部分集合に存在する思想として次のようなものがあります。
1) 日蓮仏法がアプリオリの真理である
2) 日蓮仏法を信じる者が信じない者を信じるように変更できる
(理由 日蓮仏法が真理だから)
3) 日蓮仏法は真理なので変更できない
これでは知識が全く前進できません(窮屈と感じるところです)。
「世界を自由に変更でき」ないについてたとえば重力定数などは人間が自由に変更できないものです(求めるものです)。
一方で多くの人が信じるものを真理と誤解すると、信じる者を増やせば世界を自由に変更できると誤解することになります。
その一方でジレンマもあります。妥当な説明や資料を用いて理論が世界とズレていることをある人々に説明すれば通常は理解が得られるはずですが上の「学会員の部分集合」のような方の理解が得られません。「学会員の部分集合」の方は世界の一部であり自由に変更できない存在と考えられるでしょうか。いや、真理は変更できなくとも人間の思想は変更できるのかもしれません。(上の「学会員の部分集合」のような方が存在するのもひとつの真理とはしても...)
重力定数のような真理は変更できなくとも人間の思想は変化する(かもしれない、真理の探究によって)。ううむ、解決の糸口が少し見えたかもしれません。(また自己完結してしまった...)
  1. 2006/12/14(木) 01:03:13 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Leoさん、こんばんは。

 Leo さんのご意見に刺激を受けて、新しい記事(前回の補足的な
もの)を書いてみました。参考にして頂ければさいわいです。
  1. 2006/12/16(土) 20:57:44 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

はじめまして

はじめてコメントします。

真理というものについてですが、経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「永久の真理」ということについて語っています。

私は、若いころから哲学の門を叩き、「永久不変の真理」というものを追い求めていましたが、仏教最古の経典『スッタ・ニパータ』の第4章を開いたときに、一つの答えが分かってきたような気がしました。

『スッタ・ニパータ』の第4章で、釈迦が語っているように、世の中には、人それぞれによって、多くの異なった真理なるものが説かれているけれども、釈迦は「これこそが絶対である」とか「これのみが清らかである」などという、いかなる「永久不変の真理」というものを想定せず、そして、そのようなものに依拠することもない、無執着の境地を体現したところに、一切の苦しみが消滅した「境地」というものに到達したのだと思っています。

そして、究極には、一切の、いかなる見解にも依拠しない、という想いさえもない、もちろん、仏教という見解さえもない、「想いからの解脱から解脱する」ということが、まさにこれなのかなと感じています。

「永久不滅なる真理」というものに関しては、これは個人的な意見なのですが、人間は、これを追い求めることは、飛んでいる鳥や、風のようなものを捕まえるようなものであり、まして、人間の認識を超出するようなア・プリオリなる領域には、人間の能力をもってしては到達できないものであると考えています。

釈迦の行った手法とは、フッサールの「判断停止」のようなものであり、当時の伝統的なバラモン教がとった手法とは、少しばかり異なっているのかなとも感じたりもしています。

具体的に言えば、伝統的なバラモン教においては、多くの執着を捨て去るけれども、アートマンとブラフマンに対する執着は残したのに対して、釈迦は、ブラフマンやアートマン、あるいは、人間の経験の領域を超え出た形而上学的な対象さえも、何らかの例外を想定することもなく、それらのすべてを、ことごとく捨て去ったのだと思っています。

  1. 2010/04/19(月) 23:49:01 |
  2. URL |
  3. dyh #ENnD/vP6
  4. [ 編集]

はじめまして

 dyhさま、はじめまして。

 コメントありがとうございました。しかしながら、わたしは、dyhさまのご意見には賛成しかねます。

 まず、わたしは、『スッタ・ニパータ』をかなり怪しい経典だと認識しています。以下のご意見に賛成です。


  仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/082.html

  《スッタニパータはアートマンを説く反仏教!》
  http://www.dia.janis.or.jp/~soga/index.html


 さて、「永久不滅なる真理」についてですが、釈迦にとっての「真理」とは「縁起」でしょう。

▽────────────────────▽
 わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.83)
△────────────────────△

 そして、その「真理」は「永久不変」のものと想定されています。

▽────────────────────▽
八 むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

九 そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。
  
一〇 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上衣をかけて、尊師に向って合掌し、尊師に向って次のように言った、──

一一 「尊いお方さま! そのとおりでございます。そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬わるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬わるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬わるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじ、たよるようにしてくださいませ。」

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、pp.88-89)
△────────────────────△

 この「永久不滅なる真理」である「縁起」に依拠することによって苦を消滅させるための教えが「仏教」であるとわたしは認識しています。以下の曽我さんの理解におおむね賛成です。

  …現時点の私の仏教理解の総括…(曽我逸郎)
  http://www.dia.janis.or.jp/~soga/summary.html

 わたしはもう仏教については全く研究していませんので、この程度のコメントしかできません。突っ込んだ議論は、曽我さんとなされたほうがよろしいかと思います。
  1. 2010/04/20(火) 01:35:54 |
  2. URL |
  3. Libra #Culc5Nhg
  4. [ 編集]

ご挨拶

Libraさん、お久しぶりです。

(意味不明な表現ながら)
ど根性がえるでキャプテンハーロックです。

(めっそう関係ないやけど・・・)
坂本龍馬だって脱藩したがじゃ。
藩とか地球の重力に魂をとらわれているかぎり、
そりゃ、いかんきに。
(相対主義に陥ってもダメやけど)

では、では。
  1. 2010/07/28(水) 23:53:59 |
  2. URL |
  3. Leo #VoYz2JtA
  4. [ 編集]

お久しぶりっす

 Leo さん、おひさです。

 コメントありがとうございます。承認するのをうっかり忘れていました(汗)。

 別記事へのコメントで、「一瞬びっくりするような内容」とゆーのがありましたが、わたしには何のことかわかりませんでした。メールでもいいので教えて頂けるとありがたいです。
  1. 2010/08/01(日) 23:09:03 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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  1. 2010/08/02(月) 23:35:48 |
  2. |
  3. #
  4. [ 編集]

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  1. 2010/09/16(木) 01:53:00 |
  2. |
  3. #
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