仏教と批判的合理主義

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日蓮本仏論の亡霊

leaf 本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊」の正しい読み方

  日蓮の『観心本尊抄』は漢文で書かれていますが、その中に、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」(大正蔵第84巻、p. 277c)という文章があります。

  この文章は、「此の時地涌千界出現し、本門の釈尊【が】〔地涌千界を〕脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と読むのが正しいとおもいます(【】印は「本門の釈尊」が「脇士と為す」の主語であることを強調したものであり、〔〕印は省略されていると思われる語を Libra が補ったものです)。

  今回は、上のように読むのが正しいということを論証してみたいとおもいます。


leaf 興風談所ですら誤読している

  興風談所の「御書システム(2007年版c)」ですら、この「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士一閻浮提第一本尊可立此国」という文を以下のように誤読しています。

此の時地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。

  この興風談所の読みは、以下の3点においては正しいとおもいます。

1.「本門釈尊為脇士」という節は「一閻浮提第一本尊」を修飾している。

2.「為脇士」は「脇士と為す」と読むべきである。

3.「本門釈尊為脇士」という節では「地涌千界」が省略されている。

  しかし、省略されている「地涌千界」を「脇士と為す」の主語であると解釈するのは、たとえ文法論のレベルでは許容されうるとしても、意味論のレベルでは不可能でしょう。たしかに、文法的には、省略されている「地涌千界」を「脇士と為す」の主語と解釈して、「〔地涌千界〕本門釈尊為脇士」と読むことも可能ではありますが、そのように読むことは『観心本尊抄』の文脈からして不可能でしょう。

  たとえば、『観心本尊抄』には、上記の文章よりも前のところに、「其本尊為体本師娑婆上宝塔居空塔中妙法蓮華経左右釈迦牟尼仏多宝仏釈尊脇士上行等四菩薩文殊弥勒等四菩薩眷属居末座迹化他方大小諸菩薩万民処大地如見雲閣月卿」(大正蔵第84巻、p. 275b)という文章があります。「本尊の為体(ていたらく)」について述べているこの文章の中では、「上行等の四菩薩」は「釈尊の脇士」として描かれています。「御書システム(2007年版c)」でも、この部分を以下のように読んでいます。

其の本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如し。

  「上行等の四人」は「地涌千界の上首」であり(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1163)、その「地涌千界の上首」が「釈尊の脇士」となっているのが「一閻浮提第一本尊」なわけですから、その「一閻浮提第一本尊」を修飾している「本門釈尊為脇士」という節を「〔地涌千界が〕本門の釈尊を脇士と為す」などと読むのはやはり不可能でしょう。

  また、『報恩抄』においては、「上行等の四菩薩」は「本門の教主釈尊」の「脇士となるべし」とはっきりいわれています。この部分も「御書システム(2007年版c)」から引用しておきましょう。

日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。

  『観心本尊抄』の「本門釈尊為脇士」という節を「〔地涌千界が〕本門の釈尊を脇士と為す」などと読んでしまいますと、『報恩抄』の記述と完全に矛盾してしまうことになります。

  以上により、興風談所の読みが誤りであることは明らかにできたとおもいます。興風談所のこのような誤読は、おそらく、日蓮本仏論の影響なのでしょう。

leaf 省略されている「地涌千界」は目的語

  すでに示しましたように、「一閻浮提第一本尊」を修飾する「本門釈尊為脇士」という節において省略されている「地涌千界」を、「脇士と為す」の主語と解釈することは文脈上不可能です。

  としますと、省略されている「地涌千界」というのは、「脇士と為す」の目的語であると解釈すべきことになるでしょう。すなわち、「本門釈尊為脇士」という節は、「本門釈尊〔地涌千界〕為脇士」と補って読むべきでしょう。

  省略されている「地涌千界」を目的語と解釈することは、文法的には十分に可能でしょう。たとえば、以下のような現代文をイメージしてみてください。

Aさんは家を出て、Bさんが待つ喫茶店に向かった。

  日蓮は、「を脇士と為す」ということを、漢文では「為脇士」とか「為脇士」というように表現しています。

  問題の「本門釈尊為脇士」という節では、「地涌千界」が省略されていますので、これを補ってみることを考えますと、論理的な可能性としては、以下の2つの補い方が考えられます。

A.「本門釈尊地涌千界〕為脇士」=「本門の釈尊が〔地涌千界を〕脇士と為す」

B.「〔地涌千界本門釈尊為脇士」=「〔地涌千界が〕本門の釈尊を脇士と為す」

  この2つの可能性は、【文法的には】どちらもありえるわけですが、Bの解釈を採用しますと、『観心本尊抄』の内部での【意味上の整合性】がとれませんし、『報恩抄』などの他の遺文とも矛盾することになります。しかしながら、Aの解釈を採用しますと、このような問題は全く生じません。よって、Aの解釈が妥当だということは明らかでしょう。

leaf 日蓮本仏論の呪縛

  日蓮宗の研究者に「下手をするとわが宗がおびやかされるのではないかと思うくらい古文書の読める学者・研究者を集めているのが興風談所です」(早坂鳳城「顕正会の概要-教義と沿革-」、 『現代宗教研究』第34号、http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm)とまでいわしめた興風談所ですら【いまだに日蓮本仏論の呪縛から解放されていない】というのはとても残念なことです。

  富士門流も、もうそろそろ、【日蓮本仏論】から脱却してもよい頃なのではないでしょうか(以下の拙文を参照)。

初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった
http://fallibilism.web.fc2.com/z008.html

《日蓮本仏論》再考
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog005.html

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  1. 2007/09/07(金) 18:12:08|
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