仏教と批判的合理主義

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『秋元御書』も正しく読みましょう

leaf 『秋元御書』も正しく読みましょう

   そううそさんの記事「日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判」のコメント欄(2007-08-28 22:43:19)の中で、『秋元御書』についての意見を述べました。今回は、それを記事にしておきます。もっとも、意見を述べたといっても、山中さんのすぐれた解釈を紹介しただけなのですが(汗)。


leaf 山中さんのすぐれた解釈

  日蓮の遺文は、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分(文証)】から構成されています。日蓮は、【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てています。

  日蓮の遺文を読むさいには、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら読んでいく必要があるとおもいます。とくに、【仏典の主張は正しい】ということが、すでに常識ではなくなっている今日においては、この区別はとても重要だとおもいます。日蓮の遺文を読むさいに問題にすべきなのは、あくまでも【日蓮自身の主張】の妥当性だとおもいます。

  現代のわれわれから見ますと、【仏典の主張が常に正しいとは限らない】わけですが、鎌倉時代に生きた日蓮が【仏典の主張は正しい】という当時の常識の上に、自らの主張を組み立てようとしたことじたいを責めるのはナンセンスでしょう。

   さて、「害す、殺す」という問題でよく話題にあがる日蓮の遺文としましては、先に挙げた「撰時抄」の文章のほかにも、「佐渡御書」の中にみられる以下の文章があります。

 不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり、五戒の初めにも不殺生戒・八戒・十戒・二百五十戒・五百戒・梵網の十重禁戒・華厳の十無尽戒・瓔珞経の十戒等の初めには皆不殺生戒なり、儒家の三千の禁の中にも大辟こそ第一にて候へ、其の故は「■〔彳+扁〕満三千界・無有直身命」と申して三千世界に満つる珍宝なれども命に替る事はなし、蟻子を殺す者・尚地獄に堕つ況や魚鳥等をや青草を切る者・猶地獄に堕つ況や死骸を切る者をや、是くの如き重戒なれども法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり、況や供養を展ぶ可けんや、故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり

(「秋元御書」、全集、p. 1075)

  この文章も、【日蓮自身の主張の部分】と【仏典の主張の部分】をきちんと頭の中で区別しながら丁寧に読んでいかないといけません。さもないと、【仏典の主張の部分】にひっぱられて、肝心の【日蓮自身の主張の部分】を読み誤ってしまうことになります。以下に引用する山中さんの解釈がとてもすぐれているとおもいます。

「秋元御書」に「法華経の敵に成れば此れを害するは第一の功徳と説き給うなり」とあるのは、語尾が「説き給うなり」とある通り、これは日蓮の主張ではなく『涅槃経』の見解である。日蓮の『涅槃経』読解においては、その経典で「正法」とされることを『法華経』と読み替えてしまうのでこのような表現になっている。しかし、すぐ後に「況や供養を展ぶ可けんや」とあって、供養しないのが日蓮の立場であることは明瞭である。ようするに正釈は、『涅槃経』の立場では謗法の悪人は殺してもよいとされているくらいであるから、日蓮の立場である「供養をしない」のはごく当然のことであるという意味になる。
 
〔中略〕じっさい「秋元御書」の文脈では、その後に「故に仙予国王は五百人の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁なり」と『涅槃経』の説[11]が紹介されるのである。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 108)

(11) 『涅槃経』の説……「仙予国王」の出典は〔中略〕『涅槃経巻十二』(大正一二巻、四三四頁)、『涅槃〔経巻〕十六』(大正一二巻、四五九頁)、「覚徳比丘」の出典は『涅槃経巻三』(大正一二巻、三八三頁)。

(同上、p. 113)

  ただ、山中さんのご説明で1つだけ残念なのは、「阿育大王は十万八千の外道を殺し給いき」の部分の出典が記されていないことです。この部分の出典は、『阿育王経』の「復有一国名分那婆陀那。…彼国一切信受外道。…時阿育王見已生大瞋心。於分那婆陀那国一切外道悉皆殺之。於一日中殺十万八千外道。」(大正蔵第50巻、p. 143b)だと思います。

  ようするに、日蓮は、【仏典の中のヒーローもの】を文証としてあげて、仏典の中には「謗法の悪人は殺してもよい」という話まであるくらいなのだから、「『供養をしない』のはごく当然のことである」と主張しているのです。そのように読まなければ、「況や供養を展ぶ可けんや」という表現がわざわざそこにおかれていることの説明がつきません。

  日蓮の遺文は、「ざっと」ではなく、丁寧に読まれるべきだとおもいます。粗雑な読解(誤読)にもとづいて、日蓮についておかしなことをおっしゃる方があまりにも多いのは残念なことです。

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  1. 2007/09/01(土) 00:36:31|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
  3. | コメント:1
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