仏教と批判的合理主義

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『立正安国論』は正しく読みましょう

leaf 事実のねじまげは許されない

   そううそさんが書かれた「地獄論、罰論、メモ(その1)」という記事では、日蓮の立正安国論の【ある誤読】が擁護されていました。その誤読というのは、【日蓮の立正安国論は「私のいうことを聞いて他宗の人間を殺せ」と主張している】というものです。

  このような誤読については、末木文美士先生の以下の文章を引用しておきさえすれば、誤りに気がついてもらえるだろうと思い、ただちにコメント欄に引用しておきました。

 注目されるのは、これらの法難において、決して日蓮側から暴力をもって攻撃しなかったということである。攻撃を受けたとき、確かに日蓮側も武力をもって防戦したが、日蓮側から仕掛けることはなかった。日蓮の過激な言動を見るとき、これは意外にも見えるが、日蓮は決して暴力主義者ではなかった。確かに本書の第七問答では、殺生をも辞さないという文面が見られるが、その点を問題にした第八問答では、「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」(二二四)と、釈尊以後の仏教では、悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道であるという信念を明らかにしている。日蓮の過激な言動は、『立正安国論』の上奏をも含めて、いわば敵側を刺激し、その行動を炙り出すアジテーションという戦略的な役割を果しているのである。

(『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、p. 95)

  ところが、そううそさんは、誤りに気づかれるどころか、「日蓮の過激な言動と創価学会教義とその批判」という記事を新たに書かれ、【日蓮の立正安国論は「私のいうことを聞いて他宗の人間を殺せ」と主張している】ということをあらためて強調されました。

  わたしとしましては、このような【事実のねじまげ】を放置することはできません。したがって、その記事のコメント欄に反論(2007-08-26 14:03:29)を投稿いたしました。今回は、それを記事にしておきます。


leaf 1.立正安国論は「首をはねよ」などとは主張していません

  「日蓮が立正安国論において『首をはねよ』と”考え書き顕した」というそううそさんの解釈は誤読だとおもいます。  「末木文美士さんのの〔ママ〕意見箇所にだけは賛成できそうにありません」とのことですが、べつに「末木文美士さんの書籍を読」むまでもなく、立正安国論の第八問答の当該部分を素直に読みさえすれば、上のような解釈がたんなる誤読にすぎないことは明らかでしょう。これは、【思想解釈の問題ではなく、文章の読解(国語)の問題】です。以下に当該部分を引用しておきます。

夫れ釈迦の以前仏教は其の罪を斬ると雖も能忍の以後経説は則ち其の施を止む、然れば則ち四海万邦一切の四衆其の悪に施さず皆此の善に帰せば何なる難か並び起り何なる災か競い来らん。

(「立正安国論」、全集、p. 30)

 この部分は、末木先生のように「釈迦以前の仏教では、罪人を斬るけれども、能忍(釈迦)以後の経説では、その人への布施を止める」と読むほかはないでしょう。もしその読みに賛成されないのだとすると、いったいどのように読まれるというのでしょうか。

leaf 2.日蓮の遺文に多数、「害す、殺す」という記述が見られる???

  具体的に遺文を指摘して頂かないと全く議論になりません。【釈迦以後でも、仏教では、謗法を禁断するための殺害を説いている】というような主張が、日蓮の遺文に多数あるというのでしょうか。そのような説を主張されるなら、具体的に遺文を引用して説明されるべきでしょう。

 さて、この「害す、殺す」という問題でよく話題にあがるのは、以下の「撰時抄」の文章です。

去し文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ

(「撰時抄」、全集、p. 287)

  たしかに、「彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべし」という発言だけを見れば過激です。しかしながら、この発言は、【頸をきられようとしている者の発言】であることをふまえて読まれるべきでしょう。以下に引用する山中さんの解釈がすぐれているとわたしはおもいます。

 たしかにこの文だけ読むならば過激な文である。しかし、これがどういう時に誰に向かって言った言葉なのかを考えるべきであろう。「文永八年九月十二日申の時に、平左衛門尉に向つて」とあるように、日蓮を処刑するために来た平頼綱の軍勢の刃の下から、平頼綱に向かって叫んだ言葉である。
 逆なのである。常に刃とテロにさらされていたのは日蓮たちであった。刃を突きつけた人ではなく、またそれを画策した良観たちではなく、テロに遭っている人が、刃の下から叫んだ言葉でもって、その人をテロリスト呼ばわりするのは、どのように考えても理不尽であろう。  日蓮学者たちは、自己の客観的立場にこだわるあまり、先の「行敏訴状御会通」の言葉を無視している。そこで日蓮は次のように述べている。
「但し良観上人等弘通する所の法、日蓮が難脱れ難きの間、既に露顕せしむべきか。故に彼の邪義を隠さんが為に、諸国の守護・地頭・雑人等を相い語らいて言く『日蓮並に弟子等は、阿弥陀仏を火に入れ水に流す、汝等が大怨敵なり』と云云。『頸を切れ、所領を追い出せ』等と勧進するが故に、日蓮の身に疵を被り、弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり。此れ偏えに良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり。心有らん人人は驚くべし、怖るべし云云」(御書一八二頁)。「頸を切れ」とテロを主張し、実行していたのは良観たちではなかったのであろうか。


(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 100)

  前述のとおり、立正安国論では「首をはねよ」などとは主張されていません。そして、日蓮の最後の説法は、立正安国論の講義でした。この問題についての日蓮の公式見解は、立正安国論で示された「悪法に対して布施しない、すなわち、経済面での非協力こそ、悪法廃絶への道である」(末木先生)ということに尽きるとおもいます。ここに関しては、「真蹟遺文を精査して読」まれている山中さんの意見にわたしは賛成します。

 日蓮の説は「其の施を止む」に尽きるのである。ところが、「初期には立正安国論のような立場であったが、後には変化して殺すべきと主張するようになった」などと言う学者もいる。しかし、日蓮は、平頼綱に向かって「念仏者等の頸を由比ヶ浜にて切れ」と言い放った同じ日に、平左衛門尉に対して「立正安国論」を進呈[12]している。佐渡よりの帰還後、幕府で三度目の諫暁をした時も非常に厳しいことを言っているが、その後の建治の広本と言われる「立正安国論広本」では、若干の書き換えが見られるが、「其の施を止む」(昭和定本一四七四頁)という文言、立場は一貫して変わっていない。また日蓮の最後の説法は池上での「立正安国論」講義であった。日蓮の姿勢は「立正安国論」で終始している。

(山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』、水声社、2006年、p. 109)

(12) 「立正安国論」を進呈……平頼綱宛の「一昨日御書」に「御存知の為に立正安国論一巻之を進覧す」(御書一八三頁)とある。

(同上、p. 113)

leaf 3.日蓮の他者批判は仏教徒として当然の姿勢

  「日蓮に他者批判」の「攻撃的な面」があったというのは間違いないとわたしも思いますし、その部分については、むしろ、弟子として見習いたいとわたしはおもっています(以下の資料を参照)。

真の知性人とは(伊藤瑞叡)
http://fallibilism.web.fc2.com/005.html

  もっとも、前述したとおり、日蓮の思想は「害す、殺す」などというものでは全くありませんから、「攻撃的な面」といっても、あくまでも討論のレベルです。【討論のレベルでの攻撃性】というのは、【初期仏教から一貫する、仏教徒として当然の姿勢】だとおもいます。たとえば、『ダンマパダ』では以下のように説かれています。

七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれる。

(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 21)

  しかし、このようなことは、すでに他のところでもさんざん議論したことがありますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

日蓮考察
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_004.html

leaf 4.創価学会の教義と思想

  「日蓮の”良き”思想が悪用か誤解されている」という点については、おっしゃるとおりでしょう。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【誤解している人(創価学会)の解釈にもとづいて、オリジナル(日蓮)を評価するのは誤っている】ということです。このことも他のところですでに述べていますので、これ以上はくりかえしません。前々回のコメントでも引用しておいた以下の拙文を参照されてください。

法華経について、No. 74~
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

leaf 5.いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々の件

  わたしも、「いわゆるアンチ創価と呼ばれる人々としては『”現代の”創価学会が持つ日蓮〔誤解〕的カルト思想の危険性』(日蓮仏法の危険性ではない)を一般人、及び学会員の関係者に訴えることは当然のこと」だろうと思います。しかし、わたしが今問題にしているのはそんなことでは全くありません。わたしが申し上げているのは、【事実のねじまげは許されない】ということです。

 【創価学会を批判するためであれば、たとえ事実をねじまげても許される】というような考えは、明らかに誤っているでしょう。

 「創価学会に疑問を感じる私としては、”日蓮の過激な言動を見るとき”どうしても、悪い方の解釈をブログに書かざるを得ません」とのことですが、日蓮遺文の解釈として許容されうる範囲の中で、最も悪意に解釈するというのであれば、「創価学会に疑問を感じる」者の解釈の態度としてはごく自然な態度だろうとおもいます。しかし、文章の読解として許容される限度をこえてまで、悪意に解釈することは許されないでしょう。そんなのは【事実のねじまげ】です。

(「 地獄論、罰論、メモ(その1)」のコメント欄、2007-08-18 12:48:47、http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/1bcb282c40eb61349ba73d71e27046c0

leaf 6.わたしは可謬主義者です

  わたしは可謬主義者ですから、「何らかを『絶対である』という思想は危険」というお考えにはもちろん賛成です。わたしも日蓮を「絶対である」とは考えていません。このことは、以下の拙文からも明らかでしょう。

日蓮の罰論の問題点
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-13.html


leaf 別の記事のコメント欄に書いた以下の発言をここに再録しておきます。〔2008年6月15日〕
 そううそさん、こんにちは。

 『立正安国論』に表明されている理念(「其の施を止む」)については理解されたということでよろしいでしょうか。

 もっとも、日蓮は、【理念のみを語る夢想家】などではなく、【現実主義者】です。日蓮が思い描いていた最良の現実的シナリオというのは、おそらく、【『立正安国論』の上奏を契機に公場対決が実現する】というものだったとおもいます。

 しかし、実際には、念仏者たちが個人的に法論を求めてきた程度であって(「論談敵対御書」、定本、p. 274)、【公場対決】などは実現しませんでした。それどころか、法論に敗れた念仏者たちが逆ギレして、松葉ヶ谷の法難が生じます。松葉ヶ谷の法難については、「下山御消息」に「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ」(全集、p. 355)とあります(「数千人」というのはオーバーな表現でしょうが)。

 【殺害される】という最悪のシナリオだけはなんとか回避した日蓮でしたが、結局は、伊豆流罪とあいなりました。

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  此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて去ぬる文応の比・故最明寺入道殿に申し上げぬ、されども用い給う事なかりしかば、 念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ

(「妙法比丘尼御返事」、全集、pp. 1412-1413)
───────────────

 日蓮は「申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて〔中略〕故最明寺入道殿に申し上げぬ」といっていますから、【殺害される】という最悪のシナリオですら想定内だったということでしょう。「流罪・死罪は一定なりと思い定めて」といっていますので、最良のシナリオである【公場対決】の実現可能性についても、過度の期待は持っていなかったようにおもいます。

 さて、「其の施を止む」という理念を表明した日蓮ではありますが、【逆ギレして殺しにかかってくるような人たち】については、やはり、【国家権力によって重い処罰を下してもらう】しかないと考えていたにちがいありません。「其の施を止む」という理念は、国家権力に対してそのような処罰を求めることまでをも放棄するものではないということは明らかでしょう。

 じっさい、『立正安国論』の広本においては、「其の施を止む」という理念を堅持しつつも、場合によっては、「速かに重科に行」うべきであるということが補足されています(定本、p. 1474)。日蓮がこのように補足したのは、門下に対する圧力がだんたんと強まってきていた当時の状況をみて、【不当な輩に対する現実的な対応としては、国家権力に対して重い処罰を求めていくことも必要である】ということを門下に対して明確に示しておく必要性をこの時期に強く感じていたためであるとわたしはおもいます。

 また、第八問答の主人の結論である「然れば則ち四海万邦、一切の四衆、其の悪に施さずして、皆此の善に帰せば、何なる難か並び起り、何なる災か競い来らん」という部分にはいかなる補足も修正もなされていませんから、「其の施を止む」という理念が広本においても堅持されていることは明らかです。

 さて、そううそさんは、以下の3つについて、どういったご意見をお持ちでしょうか。

    1.正当防衛

    2.自力救済

    3.国家権力による処罰

 日蓮は、1と3は肯定し、2は否定しているとおもいます。いわゆる「破壊的カルト」というのは、2を肯定するものをいうのではないでしょうか。

(Libra「日蓮は破壊的カルトか?」、2007年9月9日16時22分、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-20.html#comment129

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  1. 2007/08/26(日) 18:20:32|
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