仏教と批判的合理主義

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日蓮の罰論の問題点

leaf 「地獄論、罰論、メモ(その1)」に対するコメント

  そううそさんが書かれた「地獄論、罰論、メモ(その1)」という記事のコメント欄に書いた拙文を記事にしておきます。


leaf 1.日蓮の地獄論には大きな問題はない

   日蓮の地獄論には、大きな問題はないとわたしはおもいます。日蓮がいう「地獄」というのは、「我等が五尺の身の内に」あるものであり、「我等がむねの間」にあるものです。

 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあなづり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

(「十字御書」、全集、p. 1491)

 夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

(「上野殿後家尼御返事」、全集、p. 1504)

  ちなみに、親鸞も、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」(『正像末和讃』)といっているようです。このあたりが、現代の真宗教学でどのように説明されているのか、少し興味がありますね。

 法然が『選択本願念仏集』(『選択集』)を著わしたのは、建久九年(一一九八)である。法然は安元元年(一一七五)に比叡山を下りて、いよいよ本格的に布教をはじめた。その主張は、ひたすら阿弥陀仏の名を称えるだけでよいというもので、専修念仏と呼ばれる。その主張を正面から述べたものが『選択集』であった。法然はそれを九条兼実に献上したというが、その後、主要な弟子には筆写を許している。しかし、跋文に「一たび高覧を経て後に、壁の底に埋めて窓の前に遺すことなかれ」とあるように、法然自身その危険性を認識して、むやみに外部に出すことを禁じている。
 その際、「おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり」と言い添えていることは興味深い。法然にとっては、念仏こそが仏説の核心であり、念仏を誹謗すれば、それは正しい法を誹謗したということであり、悪道(地獄など)に堕すべき重罪なのである。
 このことは、親鸞において、もっとはっきりと言明されている。親鸞の『正像末和讃』では、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞとくたまう」と、念仏を誹謗するものは地獄に堕ちるといわれている。念仏者にとっては念仏誹謗こそ最大の謗法であり、逆に、日蓮にとっては、そのような念仏者の言動こそ最大の謗法なのである。


(末木文美士『日蓮入門──現世を撃つ思想』、ちくま新書、2000年、pp. 101-102)

leaf 2.日蓮の罰論には問題あり

  一方、日蓮の罰論には、大いに問題があるとわたしはおもいます。日蓮の罰論は、鎌倉時代であればともかく、少なくとも現代においては全く通用しないとおもいます。日蓮の罰論の問題点は、【法華経をフィクションではなく、実話であると認識している点】につきるとわたしはおもいます。

  日蓮は、法華経をフィクションと認識していなかったので、そこに出てくる【十羅刹女などを実在のものとして認識していた】とおもいます。【法華経の行者を守護する十羅刹女】などを実在視すれば、【法華経の行者を不当に迫害する者は「十羅刹のせめを」こうむる(=罰をうける)】という考えが自然にでてきます。じっさい、日蓮は、そういうことを言っています。

但一の冥加には景信と円智・実成とが・さきにゆきしこそ一のたすかりとは・をもへども彼等は法華経十羅刹のせめを・かほりて・はやく失ぬ

(「報恩抄」、全集、p. 323)

 けれども、ただ一つ冥加なことは、景信と円智と実城が先に死んだことである。神仏の助けとも思われるが、これは彼らが『法華経』の守護の十羅刹女の責めをこうむって早く死んだものである。

(藤井学訳『大乗仏典 中国・日本篇 第24巻 日蓮』、中央公論社、1993年、p. 234)

  もっとも、鎌倉時代に生きた日蓮が【法華経を実話であると認識していた】としても、それは、その当時においてはむしろ【常識】といってもよいでしょうから、そのことじたいを責めるのはナンセンスです。

  しかしながら、【法華経は創作(フィクション)である】ことがすでに【常識】になっている現代においてもなお、【法華経は実話である】と主張してみたり、また、そのような認識にもとづいて、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹の責めを受ける】などと本気でお考えになる人がもしおられるとすれば、【そういう人の精神は健全とはいいがたい】とわたしはおもいます(以下の資料を参照)。

精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
http://fallibilism.web.fc2.com/112.html

  もっとも、わたしは、【法華経は実話ではないから、そんなものに価値はない】などと考えているわけでは全くありません(以下の拙文を参照)。

『法華経』と釈尊の思想
http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html

leaf 3.日蓮の罰論の問題点は弟子としてきちんと乗り越えるべき

  【日蓮の罰論を現代においてそのまま主張することには大いに問題がある】ということは上述したとおりです。したがって、日蓮の罰論は、現代においては捨てられるべきだとおもいます。「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」(「曾谷殿御返事」、全集、pp.1055 -1056)と日蓮じしんがいっています。

  そもそも、【十羅刹女に守ってもらいたい】というような考えは、以下の文章にみられるような【日蓮の崇高な精神】とは一貫しないとおもいますし、【一念三千に基づく日蓮の中心思想(成仏論)】とも全く無関係ですから、【捨てることができるし、捨てるべきである】とおもいます。

詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん

(「開目抄下」、全集、p. 232)

日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり

(「四条金吾殿御返事」、全集、p. 1169)

  【日蓮の崇高な精神】を現代に生きたいと望む日蓮の弟子の一人として、すくなくとも、わたしは、【法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹女の責めを受ける】などという考えは【きっぱりと捨てるべきである】と考えます。

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  1. 2007/08/22(水) 18:11:23|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
  3. | コメント:3
<<『法華経』が十二支縁起を方便と位置づけている理由 | ホーム | 「縁起と一念三千」の付録>>

コメント

Libraさん、こんばんは。

お久しぶりです。

十羅刹女系の話しは大衆宗教のメンバーの一部がフィクションを事実として信じ込んでしまっている以外に(本題からややずれますが)別の問題を含んでいるように思いました。

たとえば諸天善神自体は架空でも大衆宗教では大衆宗教の理解者や協力者の意味で用いられたり、その方向で行くと十羅刹女はバリバリ女子部や婦人部に相当するのではいないでしょうか(架空の存在が実在の人間にマッピングされます)。

つまり「法華経の行者を不当に迫害する者は十羅刹のせめをこうむる」は大衆宗教において動員された支持者から反対者への圧力として用いられます(それは一種の憎悪の増幅や脅迫ともいえます)。またその種の圧力も法華経の行者として正当化されます。これはギャングがやられたら仕返しをすると言っているのとなんらかわりないと思います。

該当する大衆宗教のメンバーの一部の方々はLibraさんの記事をしっかり読むなどして憎悪の増幅などは停止してクールロジックで反論するなら反論してもらいたいものです。

ここからは該当する大衆宗教のメンバーの一部(元メンバー含む)への切なるお願いですが「誰々が語ったからそれが真実」「教わったからそれが真実」という思考停止は再考していただきたい。
  1. 2007/08/28(火) 00:22:10 |
  2. URL |
  3. Leo@隠居 #k12f31x.
  4. [ 編集]

天誅かよっ

 Leo さん、こんばんは。お久しぶりです。

 増設メモリがこわれたせいで、現在、マイPCの動作が激重になっています(涙)。

 さて、日蓮は、上行菩薩を自分自身にマッピングしたわけですが、日蓮にとっては、上行菩薩も実在の菩薩だったとおもいますので、「架空の存在」を「実在の人間にマッピング」しているわけではありませんね。

 もっとも、現代に生きるわれわれとしては、「架空の存在」を「実在の人間にマッピング」するということは、場合によってはアリかもしれません。もちろん、それは、【架空の存在に象徴されている崇高な精神を現代に生きる】という意味においてではありますが。

 日蓮の弟子をなのる人たちが「架空の存在」を「実在の人間にマッピング」するというのであれば、ぜひとも、【地涌の菩薩】や【不軽菩薩】の精神を現代に生きていただきたいとおもいます。そういうマッピングであれば、『法華経』や日蓮の思想に合致するとおもいます。

 まちがっても「天誅!」などとは言い出してほしくないですね(笑)。
  1. 2007/08/30(木) 01:43:43 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

鎌倉時代と21世紀の相違

ケースバイケースでしょ。譬え話は表現の自由で随方毘尼で100%で無いけどそんなシチュエーションみたいな出来事があったかもしれないし、出来事の記録も大なり小なりで尾鰭まで付いてくる
  1. 2011/02/01(火) 22:09:18 |
  2. URL |
  3. 天蓋真鏡 #-
  4. [ 編集]

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