仏教と批判的合理主義

「縁起と一念三千」の付録

leaf そううそさんからのご質問に答えて

  前回の記事「縁起と一念三千」に対して、そううそさんから、とても的確なご質問を頂戴いたしました。自分の説明のいたらなさに気づかせてもらえるこういったご質問は、わたしにとってはとてもありがたいです。

  そううそさんとおなじような疑問をお感じになる方もあろうかとおもいますので、今回は、その記事のコメント欄に書いたわたしの回答をそのまま記事にしておくことにします(ただし、2箇所だけ論文の引用ミスを訂正しました)。


leaf 1.識陰無我説

  五陰無我説は、初期仏教についての解説書には必ずのっていますから、今度、図書館などでお読みになってみてください。以下の資料(これは初期仏教についての解説書ではありませんが)の中でもごく簡単に解説されています。

五蘊無我説─有身見の否定(小川一乗)
http://fallibilism.web.fc2.com/074.html

leaf 2.日蓮は「縁起」という単語を重視していたか?

  日蓮は「縁起」という単語を重視していないでしょう。日蓮にかぎらず、鳩摩羅什以降は、「原始仏教以来一貫してつづいている『縁起』の立場」を表現するのに、「縁起(因縁)」という単語よりも、「実相」という単語を使っています(以下の資料に引用されている中村先生の説を参照〔ただし、引用は結論部分のみ〕)。

  「諸法実相」あるいは「実相」という術語をわれわれに提供したのはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)である。クマーラジーヴァは、『般若経』『法華経』『中論』などを漢訳する際に、数種類の異なった原語を、自由に達意的に「諸法実相」「実相」と訳出して、独特の雰囲気を作り出したのである。われわれとしては、クマーラジーヴァ的雰囲気を排除して、まず、その原語が何であったか、その意味するところは何であるかを明らかにしなければならない。ここでは、華厳経の思想史的意義を探求するに際してクマーラジーヴァの「諸法実相」の原語を検討された中村元博士の推定に基づいて、その大体の輪郭を明らかにして見たいと思う。

(紀野一義『法華経の探求』〔サーラ叢書14〕、平楽寺書店、p. 88)

  以上のような考察を加えた後に博士は次のような結論を出していられる。

    【第一、諸法実相の原語は多数あるけれども、いずれの原語に従うとしても結局同一の趣意を表わしている。即ち諸法が互いに相い依り相互に限定する関係において成立している如実相を意味するものであり、「縁起」と同義である。従来縁起と諸法実相とは互いに対立する概念であるかの如くに取扱われて来たけれども、両者は同一趣意のものである。諸法実相のどの原語をみても皆な縁起の理法を指している。】

    【第二、したがってクマーラジーヴァが上述の諸語に諸法実相という訳語を与えたことはこの意味においては正当である。また諸法実相が縁起の意味であることに留意するならば、その原語が種々あるにも拘らず概括的に諸法実相論を為すことも差支えない。】

  右のように、大乗経典一般の用法から言えば、「諸法実相」とは、「縁起」の理法を別の表現で言いあらわしたにすぎない。「諸法実相」の思想は、原始仏教の「縁起」の立場よりもずっと進んだ高い思想的立場であると考えられていたけれども、実はそうではなくて、原始仏教以来一貫してつづいている「縁起」の立場であることを、この際はっきりと頭に入れておかなければならないのである。大乗の立場は、全く違った新しい立場ではなくて、途中から歪められた仏教を本来のあり方に返す復興運動であったことが、「諸法実相」の場合にも言えるのである。


(同上、pp. 90-91〔ただし、読みやすさを考慮して適当に改行し、中村説を【】記号により明確にしたのは Libra である〕)

  【『法華経』の体は縁起である】ということは、「『法華経』と釈尊の思想」においてすでに説明しましたが、その『法華経』が「十二縁起説」を方便として位置づけている点についても少し補足しておきましょう。十二縁起説は、もともとは、「原始仏教以来一貫してつづいている『縁起』の立場」の説明の1つであったとおもいますが、途中から脱線してしまい、最終的には、いわゆる「三世両重の因縁」という解釈が優勢になってしまいました。この「三世両重の因縁」という解釈は、「前一世紀には成立していた『発智論』においてすでに完成されていました」(以下の資料を参照)。

  原始経典のやや後期において、十二縁起説が輪廻説と結合される傾向が出てきたことは否定できません。〔中略〕しかし、十二縁起を有情の輪廻転生の過程そのものとする解釈を仏教のなかに定着させたのは、なんといっても小乗のアビダルマ哲学でありました。
  ここでは説一切有部のいわゆる三世因果を簡単に述べておきます。この三世因果は前一世紀には成立していた『発智論』においてすでに完成されていましたが、龍樹と同じ後二世紀に作られた、『発智論』にたいする膨大な注釈書『大毘婆沙論』にも詳しく論じられています。


(梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 164-165)

  『法華経』の成立は、「紀元一、二世紀頃」と推定されていますので(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 81)、『法華経』の成立時点で、すでに、十二縁起説は「三世両重の因縁」ということになってしまっていたのです。そういうわけなので、『法華経』は、十二縁起説を方便として位置づけているのだとわたしはおもいます。

  梵本『法華経』が、以下に示す「縁起法頌」によってしめくくられていることは、「『法華経』と釈尊の思想」でも指摘しておきました。梵本『法華経』は、縁起説の正しい説明として「縁起法頌」を採用しているのだとおもいます。

いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

(「第二十七章 嘱累品」、中村瑞隆『現代語訳 法華経下』、春秋社、1998年、p. 221)

  以前、曽我さんへのメールの中で、以下のように述べたのは、以上のような意味でした。

  「シャーリプトラがそれを聞いただけで仏教に帰依したものとして有名」[*11]な「縁起法頌」によって法華経がしめくくられている[*12][*13]ことを考えると、法華経の作者は「十二支縁起」よりも「縁起法頌」という形で縁起説を支持していたのだとおもいます。ちなみに、方便品の対告衆はシャーリプトラです。

(「Libraさん 日蓮の思想と釈尊の教え 2006,7,7,」、http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha297.html

  あと、日蓮と十二縁起説との関係については、すでに以下の拙文でも意見を述べています。この拙文は、以前、タツノコさんが、そううそさんと同じような質問をしてくださったので、それに答えたものです。参考にしていただければさいわいです。

タツノコさんとの対話
http://fallibilism.web.fc2.com/z015.html

leaf 3.薬草喩品第五の後半の部分

  わたしは、「創価学会2002年11月18日版の開結」を所持していませんが、現在伝わっている鳩摩羅什訳『法華経』は、もともとの鳩摩羅什の訳に、他の人が訳した提婆達多品が挿入されたものです(前掲の菅野博史『法華経入門』、p. 81、を参照)。そして、もともとの鳩摩羅什訳には、梵本の薬草喩品第五の後半に相当する部分が存在しません。しかし、その部分は、梵本・他の人の訳(法護訳・添品)のすべてに存在します(以下の梶山先生の説を参照)。

しかし薬草喩品第五の後半は羅什訳には存在しないが、梵本・法護訳・添品のすべてに存在し、別行本もない。〔中略〕この部分については、勝呂氏の議論の他には従来十分に検討されないままに、ただ羅什訳に存在しないという理由のみから、後に増広されたと漠然と考えられてきたが、羅什訳に欠損しているのは、羅什がなんらかの理由でこの部分を省いたか、或いは事故によって彼の見た原典に欠損していただけである、という可能性も残されている。

(梶山雄一「法華経と空思想」、『東洋学術研究』第38巻第2号、1999年、p. 94、http://www.totetu.org/h/pdf/t143_088.pdf

  私がこの論文において設けるただ一つの仮説は、『法華経』の薬草喩品第五の後半は竺法護が『正法華経』を漢訳した二八六年の時点ですでに『法華経』梵本に編入されていた、ということである。いいかえれば、この第五章後半は竺法護訳以後に『法華経』に付加・挿入されたわけでもなく、鳩摩羅什訳(四〇六年)以後に増広されたわけでもないということである。『正法華経』の薬草喩品の前半と後半を比較してみて、後半が前半と異なったテキストに基づいているとは考えられず、異なった訳者によって漢訳されたとも思えない(本稿第五節注(18)参照)。また、いままでこの種の意見が学者によって具体的に提出されたこともないからである。

(同上、pp. 94-95)

  後半(正法華、八五、a一九以下品末まで)は鳩摩羅什訳には欠けているが、三種の梵本および竺法護訳には存在する。この後半の仏教術語の漢訳をこの品の前半の法護の漢訳および『正法華』の他の品の漢訳と比較してみても、両者はよく一致し[18]、この後半の漢訳が同じ法護の手になるものであることはほぼ間違いないから、この個所も彼の見た梵文写本に存在したと考えることができよう。

(同上、p. 104)

 『正法華』には存在したと思われるこの品の後半を、なぜ鳩摩羅什が訳さなかったのかについては、結論を保留しておくが、私には、多分、それは鳩摩羅什の見た原写本にこの後半が、インドの貝葉とクチャ写本との地域的な相違や、あるいは破損その他の事故など、なんらかの事情によって、欠落していたからであろう、と思われる。

(同上、p. 107)

(15) 薬草喩品第五の後半については最近、T.Vetter が、 Hendrik Kern and the Lotussu─tra, 創価大学・『国際仏教学高等研究所年報』第二号、一三二─一三三において、鳩摩羅什訳の方が竺法護訳よりも古い梵文写本を使っていたであろうことを再確認し、他方、A.Yuyama〔引用者註:湯山明〕, Why KumArajIva Omitted the Latter Half of Chapter V in Translating the Lotus Sutra, Festschrift Dieter Schlingloff, hrsg. von Friedrich Wilhelm, 三二五─三三〇は、韻律の検討によって、この後半は鳩摩羅什によって故意に削除された、という見解を述べている。

(同上、p. 108)

(18) 正法華、薬草品第五後半における主要な仏教術語の訳語と同品前半あるいは他品におけるそれらはすべて一致しているが、他方、例えば鳩摩羅什訳の妙法華の訳語は異なっていることが多い。例証すると、正法華第五品後半八五、c九、空無相無願=信楽品八〇、a一六(羅什訳、一六、b一六は空無相無作)。八六、b八、善権方便=八四、c一四=七〇、a一五(羅什訳、七、c二〇は方便力)。八五、a二四、縁覚=六九、c二二(羅什訳、七、b二七は辟支佛)。八五、b二七、本無=六三、a二四。八五、c9、泥■〔三+亘〕=六八、c一四(羅什訳は涅槃)。八五、b二八─二九(十二縁起のなかの)癡・更(または習)・痛=九一、c五─七(羅什訳、二五、a五─六は無明・触・受)。

(同上、p. 109)

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  1. 2007/08/19(日) 14:44:50|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
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