仏教と批判的合理主義

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縁起と一念三千

leaf 山中講一郎『日蓮自伝考』を拝読

  先日、ある方が、山中講一郎『日蓮自伝考──人、そしてこころざし』(水声社、2006年)を送ってくださったので、さっそく拝読いたしました。

  誤っているところが数箇所ありましたが、全体として見ますと、とてもすばらしい本だとおもいました。もしも創価学会が沈み行く船だとしますと、山中さんのこのような業績は、もっとも大きな救命ボートの1つになることでしょう。

  さて、今回の記事は、『日蓮自伝考』のささいな誤りを指摘しようとするものではありません。現時点において、山中さんとわたしとの間で最も大きな対立点になっているとおもわれる【縁起説と一念三千説の論理的関係】について再考してみようというのが今回の記事のテーマです。

  山中さんは、【縁起説と一念三千説の関係】について、「縁起説はこの一念三千の部分観にすぎません」といわれています(以下の資料に引用されている山中さんのご発言を参照)。

宇宙生命論を破す(Leo)
http://fallibilism.web.fc2.com/note004.html

  一方、わたしは、論理的な関係でいえば、縁起説が「本」であって、一念三千説は「末」であると考えています。これは、【縁起説は一般論であり、一念三千説は具体論である】というように言い換えることができるかもしれません。もっとも、「日蓮思想の現代的意味」ですでに説明したとおり、わたしは、【一念三千説は内容的に縁起説に劣っている】というようなことをいっているわけでは決してありません。「本末究竟等」なわけですから、たとえ、論理的には縁起説が「本」であって、一念三千説は「末」であるとしても、【一念三千説は内容的に縁起説に劣っている】ということにはなりません。

  今回は、【縁起説と一念三千説の論理的関係】について、「日蓮思想の現代的意味」とは少しちがう角度から、わたしの考えを述べてみたいとおもいます。


leaf 文証

  一念三千が十如是に基づくということは明らかです。『日蓮自伝考』でも引用されているように、「十章抄」に「一念三千の出処は略開三の十如実相」(全集、p. 1274)とあります(『日蓮自伝考』、p. 246、を参照)。

  また、七如是が三如是に対して「末」の関係にあることも明らかです。『日蓮自伝考』でも引用されているように、「十如是事」に「この三如是を本として是れよりのこりの七如是はいでて十如是とは成りたるなり」(全集、p. 410)とあります(『日蓮自伝考』、p. 252、を参照)。

  そうであれば、一念三千が三如是に対して「末」の関係にあることは明らかでしょう。

  そして、この三如是は、円融三諦を意味します。「三諦はまた三如是と相対する」(『日蓮自伝考』、p. 253)というわけです。

初めに如是相とは我が身の色形に顕れたる相を云うなり是を応身如来とも又は解脱とも又は仮諦とも云うなり、次に如是性とは我が心性を云うなり是を報身如来とも又は般若とも又は空諦とも云うなり、三に如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり

(「十如是事」、全集、p. 410)

  したがって、論理的には、一念三千は円融三諦に対して「末」の関係にあるといえます。

  また、円融三諦が縁起に対して「末」の関係にあることも明らかです。なぜなら、チギの円融三諦は、龍樹の『中論』第二十四章第十八偈に基づくものであり、その偈はまさに縁起を説くものだからです。

故中論云。因縁所生法即空即假即中。

(『摩訶止觀』巻第三上、大正蔵第46巻、p. 25b)

およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。

(『根本中論偈』第二十四章第十八偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 651)

  以上により、【一念三千は縁起に対して「末」の関係にある】ということが明らかになったとおもいます。一念三千は【縁起に基づく】のであり、【縁起の展開の1つ】といえるわけです。

leaf 理証

  【縁起説は一般論であり、一念三千説は具体論である】ということは、『摩訶止観』における一念三千説の説かれ方をみれば明らかです。

  『摩訶止観』における一念三千説の説かれ方は、以下のように要約することができるでしょう。

この一念三千説は、本来、諸法の真実の様相とは何かという問題意識の下で、諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたものである。

(菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』、大蔵出版、1993年、p. 87)

  ここでいわれている「諸法の真実の様相」というのが縁起(=円融三諦)に相当します。そして、「諸法と言ってもあまりに広大、漠然としているので、諸法の中から自己自身の一瞬の心に的を絞って、その真実の様相を三千世間として明らかにしたもの」が一念三千です。縁起と一念三千の関係は、まさに、【一般論と具体論の関係】です。

  そもそも、一念三千説の「一念」とは、詳しくは「一念心」であり、それは【識陰】のことにほかなりません。「一念」とは、三科(=陰入界)の中の、五陰の中の、【識陰】のことなのです。

○『摩訶止観』の原文

心是惑本。其義如是。若欲観察須伐其根。如炙病得穴。今当去丈就尺去尺就寸。置色等四陰但觀識陰。識陰者心是也。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 52a-b)

○菅野博史先生による訓読

心は是れ惑の本なり。其の義是の如し。若し観察せんと欲せば、須らく其の根を伐るべし。病に炙するに穴を得るが如し。今当に丈を去って尺に就き、尺を去って寸に就くべし、色等の四陰を置いて但だ識陰を観ずるのみ。識陰とは心是れなり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、pp. 248-249)

○菅野博史先生による現代語訳

心は惑の根本である。それの意味はこのようなものである。もし観察しようとするならば、それの根本を切る必要がある。病に灸をするのに穴を得るようなものである。今、当然、丈を除いて尺を取り、尺を除いて寸を取るように、色等の四陰をさし置いて、ただ識陰を観察するべきである。識陰とは心のことである。

(同上、p. 134)

  十境十乗の観法を明かす過程で、「その十境の第一である陰入界の境に対して、十乗の第一である観不思議境を明かす中で、一念三千説が説かれる」わけですが、一念三千説というのは、観察対象である陰入界の中から、入り口として識陰を観察の対象として選んで説いているのです。これは【具体論】以外の何ものでもないでしょう。

 一念三千説は『摩訶止観』巻第五に明かされる。詳しく言えば、『摩訶止観』の第七正観章において、十境十乗の観法(十種の対象界に対して、それぞれ十種の観察方法によって、その対象界の真実ありのままの様相を観察すること)が明かされるが、その十境の第一である陰入界の境に対して、十乗の第一である観不思議境を明かす中で、一念三千説が説かれる。十境とは、陰入界・煩悩・病患・業相・魔事・禅定・諸見・増上慢・二乗・菩薩の十種の対象界である。これらは真実を観察することを妨げるものとして挙げられている。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、pp. 33-34)

陰入界とは、五陰(色・受・想・行・識)、十二入(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と色・声・香・味・触・法の六境)、十八界(六根と六境と眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識)のことであり、要するに、これらは自己を含むすべての存在(一切法)を分類整理したものである。

(同上、p. 34)

しかし、陰入界は自己を含むすべての存在を分類整理したものであるから、観察の対象として広大で漠然としているので、とくに識陰、すなわち心が観察の対象として選ばれる。なぜなら、広大な存在と言っても、すべて自己の心を通してはじめて存在として意味を持ってくるという仏教の立場からは、心こそ根源的なのである。このことを『摩訶止観』には「今、当に丈を去って尺に就き、尺を去って寸に就き、色等の四陰を置いて、但だ識陰を観ずべし。識陰とは心是れなり」(同前〔引用者注:大正四六〕・五二上─中)と述べている。

(同上、p. 35)

  また、「諸法の実相を究尽する課題を達成するために考案された修行方法が十境十乗観法」(同上、p. 44)なわけですが、チギにとっては、「実相」とは、円融三諦(=縁起)のことにほかなりません。チギにとっては、【諸法実相を究め尽くすこと】が【成仏】であり、そのための【具体論】として一念三千説が明かされているのです。

実相者即経之正体也。如是実相即空仮中。

〔実相とは即ち経の正体なり。是くの如きの実相とは即ち空・仮・中なり。〕

(『法華玄義』、大正蔵第33巻、p. 781b)

諸法をどのように見るかということによって、衆生の十法界のあり方が規定されるという考え方は、実は後に述べるように、諸法の真実ありのままの様相、すなわち諸法実相を観察、把握することが仏道の究極の目的であるとする『法華経』の思想に強く動機づけられた智■〔豈+頁〕の思想の大きな特色である。智■〔豈+頁〕はこの諸法実相を究め尽くすことがとりもなおさず成仏することであると考え、本来言語表現を越える諸法実相をさまざまな仕方で表現しようと努力している。上に述べた中道もその一つであり、また、空、仮、中道の三者が一体となって円融しているとする三諦円融もそのような表現の一つである。そして、これから考察する一念三千説もこの諸法実相の内実を表現したものなのである。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 38)

  ちなみに、「心こそ根源的」という発想は、初期経典にも見られます。

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。


(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波書店、1978年、p. 10)

  さて、このように『摩訶止観』の論理構造が理解できれば、一念三千説というのは、いってみれば、初期仏教の五陰無我説における【識陰無我説】に相当するものであることが理解できるとおもいます。初期仏教の【五陰無我説】の【五陰】を【三科(陰入界)】に拡大し、【無我】を【円融三諦(縁起)】に深化させれば、そのまま、十境十乗の観法の【第一境・第一乗】になるといえるでしょう。このことが理解できれば、【識陰無我説】と【一念三千説】は、思想的には同型であることがわかるとおもいます。すなわち、【縁起説】に対する【一念三千説】の関係は、【無我説】に対する【識陰無我説】の関係とパラレルです。

  以上により、【縁起説と一念三千説の論理的関係】、および、【一念三千説は諸法実相(=縁起)を究め尽くす(=成仏)ための具体的な修行方法(=具体論)であるということ】がおわかりいただけたのではないかとおもいます。

leaf 現証

  縁起を究め尽くすための具体的な修行方法が一念三千説ですから、【一念三千を体現する】ということは【縁起を体現する】ということであり、それが【成仏】でしょう。じっさい、「一念三千の体現者」(『日蓮自伝考』、p. 257)であった日蓮は、縁起の体現者だったとわたしはおもいます。そのことは、縁起の体現者であるブッダの最後と日蓮のそれとが驚くほど似ていることにもよく現われているとおもいます(『日蓮自伝考』、pp. 384-385、を参照)。「万人の教師となった二人の偉大な凡夫の姿」(『日蓮自伝考』、p. 385)をみくらべてみさえすれば、そのことは明らかだとおもいます。

leaf 縁起と十如是

  最後に、鳩摩羅什訳『法華経』の十如是についてのわたしの見解を述べて、この記事をおしまいにしたいとおもいます。この問題については、すでに山中さんも論じておられます(以下を参照)。

梵文法華経の十如是
http://www.ginpa.com/karagura/rohito/R42.html

  この山中さんの見解は、わたしの見解とはかなり異なるところがありますが、「十如是は、鳩摩羅什の勝手な増補とは決して言えないのではないだろうか。むしろ法華経の本意に通じた鳩摩羅什が、自らの立場から、伝来の『梵文法華経』に不足を感じ取り、その不足を補ったと思われるのである」という結論にはわたしも賛成です。もっとも、わたしは、山中さんとちがって、「法華経の本意」とは縁起であると考えるわけですが。

  【梵文『法華経』のタイトルに含まれる「サッダルマ」という語は縁起を意味する】ということ、【梵文『法華経』においては縁起(=空)が説かれている】ということ、【『法華経』の体は縁起である】ということ、これらはすでに「『法華経』と釈尊の思想」において説明しましたのでくりかえしません。

  さて、問題の十如是ですが、結論からいいますと、鳩摩羅什訳『法華経』の十如是は、法華経の本意である縁起に通じた鳩摩羅什が、自らが見た原写本の不足を感じ取り、その不足を補ったものであるとおもいます。

  梵文『法華経』においては縁起(=空)がきちんと説かれていますが、その中心部分は、薬草喩品第五の後半です。そして、この部分は、鳩摩羅什訳『法華経』には欠けています。おそらく、鳩摩羅什が見た原写本のその部分は欠落していたのだとおもいます(以下の資料を参考にしました)。

梶山雄一「法華経と空思想」、『東洋学術研究』第38巻第2号(1999年)
http://www.totetu.org/h/pdf/t143_088.pdf

  梵文『法華経』においては、方便品において、サッダルマが何であるかという問題が提起されて、薬草喩品第五の後半でその答えが明確になりますが、鳩摩羅什が見た原写本には薬草喩品第五の後半の部分(答えの部分)が欠落していたのだとおもいます。

  鳩摩羅什は、自らの理解にもとづいて、法華経の本意である【縁起】を【十如是】の形で補ったのだとおもいます。鳩摩羅什は方便品(サッダルマが何であるかという問題が提起されている部分)に答え(十如是=縁起)を補っているわけですが、薬草喩品第五の後半に答えがあることを知りえなかった者が自らの理解にもとづいて答えを補う場所としては、方便品はごく自然な場所だとおもいます。

  鳩摩羅什訳を用いる法華経信者は、十如是の中の三如是を円融三諦(=縁起)として理解していますから、じっさいに鳩摩羅什の訳はとても上手くいったといえるでしょう。

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  1. 2007/08/15(水) 17:50:56|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
  3. | コメント:8
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コメント

更に精密、丁寧に

お早うございます。
今回の記事は更に精密、丁寧に書かれていますね。

1.識陰無我説

>初期仏教の五陰無我説における【識陰無我説】

 ここは私も耳慣れていないので質問させて頂くかもしれません。

2.日蓮が「縁起」という単語をどの程度重視していたのでしょうか?

////////////////////
Libraさんへの質問 : 釈迦仏法~空~法華経と天台宗~日蓮まで
http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/abde2bedfa3ac4019884e83173a5b447
「日蓮は釈迦が無常無我を重視したのを理解していました」
////////////////////

過去、私のブログにおいても日蓮が無常無我を重視していたのは教えて頂きました。
「縁起=空=一念三千」であり、言い換えているだけなのですが、ちょっとだけ気になりました。
日蓮の遺文の中では4カ所(Sokanetより)しか使われてい無いことや数が少ないこと、「守護国家論」においてあまり良い意味で使われてい無いことが気になります。

縁起という単語としては釈迦の直説ではない、あるいは一念三千という単語ほど重要ではないと
日蓮が考えたのかもしれませんが、Libraさんは日蓮がどの様に考えたと思われますか?

3.薬草喩品第五の後半の部分

>鳩摩羅什が見た原写本には薬草喩品第五の後半の部分(答えの部分)が欠落していた

驚きました。
手元には創価学会2002年11月18日版の開結がありますがこれでは欠落しているのでしょうか?
  1. 2007/08/18(土) 08:55:36 |
  2. URL |
  3. そううそ #-
  4. [ 編集]

創価学会2002年11月18日版の開結

薬草喩品第五
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/hokekyou/kh5.htm

漢字が一部違いますが、これと同じでした。
  1. 2007/08/18(土) 09:04:33 |
  2. URL |
  3. そううそ #-
  4. [ 編集]

ご質問ありがとうございます

 そううそさん、こんにちは。

1.識陰無我説
 五陰無我説は、初期仏教についての解説書には必ずのっていますから、今度、図書館などでお読みになってみてください。以下の資料(これは初期仏教についての解説書ではありませんが)の中でもごく簡単に解説されています。

  五蘊無我説─有身見の否定(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/074.html


2.日蓮は「縁起」という単語を重視していたか?
 日蓮は「縁起」という単語を重視していないでしょう。日蓮にかぎらず、鳩摩羅什以降は、「原始仏教以来一貫してつづいている『縁起』の立場」を表現するのに、「縁起(因縁)」という単語よりも、「実相」という単語を使っています(以下の資料に引用されている中村先生の説を参照〔ただし、引用は結論部分のみ〕)。

▽───────────────

 「諸法実相」あるいは「実相」という術語をわれわれに提供したのはクマーラジーヴァ(鳩摩羅什)である。クマーラジーヴァは、『般若経』『法華経』『中論』などを漢訳する際に、数種類の異なった原語を、自由に達意的に「諸法実相」「実相」と訳出して、独特の雰囲気を作り出したのである。われわれとしては、クマーラジーヴァ的雰囲気を排除して、まず、その原語が何であったか、その意味するところは何であるかを明らかにしなければならない。ここでは、華厳経の思想史的意義を探求するに際してクマーラジーヴァの「諸法実相」の原語を検討された中村元博士の推定に基づいて、その大体の輪郭を明らかにして見たいと思う。

(紀野一義『法華経の探求』〔サーラ叢書14〕、平楽寺書店、p. 88)

△───────────────


▽───────────────
 以上のような考察を加えた後に博士は次のような結論を出していられる。

   【第一、諸法実相の原語は多数あるけれども、いずれの原語に従うとしても結局同一の趣意を表わしている。即ち諸法が互いに相い依り相互に限定する関係において成立している如実相を意味するものであり、「縁起」と同義である。従来縁起と諸法実相とは互いに対立する概念であるかの如くに取扱われて来たけれども、両者は同一趣意のものである。諸法実相のどの原語をみても皆な縁起の理法を指している。】
 
   【第二、したがってクマーラジーヴァが上述の諸語に諸法実相という訳語を与えたことはこの意味においては正当である。また諸法実相が縁起の意味であることに留意するならば、その原語が種々あるにも拘らず概括的に諸法実相論を為すことも差支えない。】

 右のように、大乗経典一般の用法から言えば、「諸法実相」とは、「縁起」の理法を別の表現で言いあらわしたにすぎない。「諸法実相」の思想は、原始仏教の「縁起」の立場よりもずっと進んだ高い思想的立場であると考えられていたけれども、実はそうではなくて、原始仏教以来一貫してつづいている「縁起」の立場であることを、この際はっきりと頭に入れておかなければならないのである。大乗の立場は、全く違った新しい立場ではなくて、途中から歪められた仏教を本来のあり方に返す復興運動であったことが、「諸法実相」の場合にも言えるのである。

(同上、pp. 90-91〔ただし、読みやすさを考慮して適当に改行し、中村説を【】記号により明確にしたのは Libra である〕)
△───────────────

 【『法華経』の体は縁起である】ということは、「『法華経』と釈尊の思想」においてすでに説明しましたが、その『法華経』が「十二縁起説」を方便として位置づけている点についても少し補足しておきましょう。十二縁起説は、もともとは、「原始仏教以来一貫してつづいている『縁起』の立場」の説明の1つであったとおもいますが、途中から脱線してしまい、最終的には、いわゆる「三世両重の因縁」という解釈が優勢になってしまいました。この「三世両重の因縁」という解釈は、「前一世紀には成立していた『発智論』においてすでに完成されていました」(以下の資料を参照)。

▽───────────────
 原始経典のやや後期において、十二縁起説が輪廻説と結合される傾向が出てきたことは否定できません。〔中略〕しかし、十二縁起を有情の輪廻転生の過程そのものとする解釈を仏教のなかに定着させたのは、なんといっても小乗のアビダルマ哲学でありました。
 ここでは説一切有部のいわゆる三世因果を簡単に述べておきます。この三世因果は前一世紀には成立していた『発智論』においてすでに完成されていましたが、龍樹と同じ後二世紀に作られた、『発智論』にたいする膨大な注釈書『大毘婆沙論』にも詳しく論じられています。

(梶山雄一『空入門』、春秋社、1992年、pp. 164-165)
△───────────────

 『法華経』の成立は、「紀元一、二世紀頃」と推定されていますので(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 81)、『法華経』の成立時点で、すでに、十二縁起説は「三世両重の因縁」ということになってしまっていたのです。そういうわけなので、『法華経』は、十二縁起説を方便として位置づけているのだとわたしはおもいます。

 梵本『法華経』が、以下に示す「縁起法頌」によってしめくくられていることは、「『法華経』と釈尊の思想」でも指摘しておきました。梵本『法華経』は、縁起説の正しい説明として「縁起法頌」を採用しているのだとおもいます。

▽───────────────
いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

(「第二十七章 嘱累品」、中村瑞隆『現代語訳 法華経下』、春秋社、1998年、p. 221)
△───────────────

 以前、曽我さんへのメールの中で、以下のように述べたのは、以上のような意味でした。

▽───────────────
 「シャーリプトラがそれを聞いただけで仏教に帰依したものとして有名」[*11]な「縁起法頌」によって法華経がしめくくられている[*12][*13]ことを考えると、法華経の作者は「十二支縁起」よりも「縁起法頌」という形で縁起説を支持していたのだとおもいます。ちなみに、方便品の対告衆はシャーリプトラです。

(「Libraさん 日蓮の思想と釈尊の教え 2006,7,7,」、http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha297.html
△───────────────

 あと、日蓮と十二縁起説との関係については、すでに以下の拙文でも意見を述べています。この拙文は、以前、タツノコさんが、そううそさんと同じような質問をしてくださったので、それに答えたものです。参考にしていただければさいわいです。

  タツノコさんとの対話
  http://fallibilism.web.fc2.com/z015.html


3.薬草喩品第五の後半の部分
 わたしは、「創価学会2002年11月18日版の開結」を所持していませんが、現在伝わっている鳩摩羅什訳『法華経』は、もともとの鳩摩羅什の訳に、他の人が訳した提婆達多品が挿入されたものです(前掲の菅野博史『法華経入門』、p. 81、を参照)。そして、もともとの鳩摩羅什訳には、梵本の薬草喩品第五の後半に相当する部分が存在しません。しかし、その部分は、梵本・他の人の訳(法護訳・添品)のすべてに存在します(以下の梶山先生の説を参照)。

▽───────────────
しかし薬草喩品第五の後半は羅什訳には存在しないが、梵本・法護訳・添品のすべてに存在し、別行本もない。〔中略〕この部分については、勝呂氏の議論の他には従来十分に検討されないままに、ただ羅什訳に存在しないという理由のみから、後に増広されたと漠然と考えられてきたが、羅什訳に欠損しているのは、羅什がなんらかの理由でこの部分を省いたか、或いは事故によって彼の見た原典に欠損していただけである、という可能性も残されている。

(梶山雄一「法華経と空思想」、『東洋学術研究』第38巻第2号、1999年、p. 94、http://www.totetu.org/h/pdf/t143_088.pdf
△───────────────

▽───────────────
 私がこの論文において設けるただ一つの仮説は、『法華経』の薬草喩品第五の後半は竺法護が『正法華経』を漢訳した二八六年の時点ですでに『法華経』梵本に編入されていた、ということである。いいかえれば、この第五章後半は竺法護訳以後に『法華経』に付加・挿入されたわけでもなく、鳩摩羅什訳(四〇六年)以後に増広されたわけでもないということである。『正法華経』の薬草喩品の前半と後半を比較してみて、後半が前半と異なったテキストに基づいているとは考えられず、異なった訳者によって漢訳されたとも思えない(本稿第五節注(18)参照)。また、いままでこの種の意見が学者によって具体的に提出されたこともないからである。

(同上、pp. 94-95)
△───────────────

▽───────────────
 後半(正法華、八五、a一九以下品末まで)は鳩摩羅什訳には欠けているが、三種の梵本および竺法護訳には存在する。この後半の仏教術語の漢訳をこの品の前半の法護の漢訳および『正法華』の他の品の漢訳と比較してみても、両者はよく一致し[18]、この後半の漢訳が同じ法護の手になるものであることはほぼ間違いないから、この個所も彼の見た梵文写本に存在したと考えることができよう。

△───────────────

▽───────────────
『正法華』には存在したと思われるこの品の後半を、なぜ鳩摩羅什が訳さなかったのかについては、結論を保留しておくが、私には、多分、それは鳩摩羅什の見た原写本にこの後半が、インドの貝葉とクチャ写本との地域的な相違や、あるいは破損その他の事故など、なんらかの事情によって、欠落していたからであろう、と思われる。

(同上、p. 107)
△───────────────

▽───────────────
(15) 薬草喩品第五の後半については最近、T.Vetter が、 Hendrik Kern and the Lotussu─tra, 創価大学・『国際仏教学高等研究所年報』第二号、一三二─一三三において、鳩摩羅什訳の方が竺法護訳よりも古い梵文写本を使っていたであろうことを再確認し、他方、A.Yuyama〔引用者註:湯山明〕, Why Kuma─raji─va Omitted the Latter Half of Chapter V in Translating the Lotus Sutra, Festschrift Dieter Schlingloff, hrsg. von Friedrich Wilhelm, 三二五─三三〇は、韻律の検討によって、この後半は鳩摩羅什によって故意に削除された、という見解を述べている。

(同上、p. 108)
△───────────────

▽───────────────
(18) 正法華、薬草品第五後半における主要な仏教術語の訳語と同品前半あるいは他品におけるそれらはすべて一致しているが、他方、例えば鳩摩羅什訳の妙法華の訳語は異なっていることが多い。例証すると、正法華第五品後半八五、c九、空無相無願=信楽品八〇、a一六(羅什訳、一六、b一六は空無相無作)。八六、b八、善権方便=八四、c一四=七〇、a一五(羅什訳、七、c二〇は方便力)。八五、a二四、縁覚=六九、c二二(羅什訳、七、b二七は辟支佛)。八五、b二七、本無=六三、a二四。八五、c9、泥■〔三+亘〕=六八、c一四(羅什訳は涅槃)。八五、b二八─二九(十二縁起のなかの)癡・更(または習)・痛=九一、c五─七(羅什訳、二五、a五─六は無明・触・受)。

(同上、p. 109)
△───────────────
  1. 2007/08/18(土) 12:20:05 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

お返事有り難うございます。

Libraさん
こんばんは

お返事有り難うございます。

>1.識陰無我説
>五蘊無我説─有身見の否定(小川一乗)

理解できないことが多かったのですが、何度も読んでみたいと思います。

>2.日蓮は「縁起」という単語を重視していたか?

>『法華経』の成立時点で、すでに、十二縁起説は「三世両重の因縁」ということになってしまっていた
>『法華経』は、十二縁起説を方便として位置づけている

日蓮が重視していなかったことと法華経作者が方便としていたことがよく分かりました。

>タツノコさんが、そううそさんと同じような質問

確かに似ていますね。(^_^;A

>タツノコさんとの対話

これが一番分かりやすかったです。

>3.薬草喩品第五の後半の部分

>梶山雄一「法華経と空思想」、『東洋学術研究』第38巻第2号、1999年、p. 94

このPDFを読んで薬草喩品第五の後半は竺法護訳の読み下し文か梵語訳をを読んでみたくなりました。
ネットで検索しましたが、見つかりませんでした。
図書館で借りれるような後半部分を読める書籍をご存じでしょうか?
  1. 2007/08/18(土) 18:23:51 |
  2. URL |
  3. そううそ #-
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中公文庫のがおすすめです

 そううそさん、こんばんは。

 薬草喩品第五の後半部分の梵本からの和訳の一部は、過去に、わたしも引用したことがあります(以下を参照)。

  『法華経』における縁起と空
  http://fallibilism.web.fc2.com/129.html

 松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経Ⅰ』〔中公文庫〕(中央公論新社、2001年)がよいのではないでしょうか。図書館にない場合には、本屋さんでそこだけ立ち読みするという手もあります(中公文庫は、大きい本屋さんにはたいていあります)。
  1. 2007/08/18(土) 19:08:42 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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こんばんは

>宇宙生命論を破す(Leo)
>http://fallibilism.web.fc2.com/note004.html
のページの件

○初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libraさん)
「私の学会教学批判が、論理を尽した“正邪を決する戦い”の結果として論理的に破折されるということがもし将来あるとすれば、それは山中氏の手によってではないかと思う。その時には喜んで「回心の筆」をとりたいと考えている。」

浅学の私が言うのは甚だ僭越ですがかつてLibraさんが上の記事のようにいわれた山中さんに頑張って欲しいと思いあえて「宇宙生命論を破す」のページをかつて作成(Libraさんのコメントを掲載)しました。
(また2001年ぐらいはLibraさんが山中さんに論理的に破折されるということも密かに期待しておりました...)

私のコメント部分は全く若気の至りですがこれは過去の事実でありますので(もちろん)そのままにしておいてください。
  1. 2007/08/29(水) 00:51:02 |
  2. URL |
  3. Leo@隠居 #k12f31x.
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創価学会と日蓮宗の「小樽問答」再現記録

 わたしなんかが応援してしまうと、かえって山中さんに迷惑がかかってしまうかもしれませんが、山中さんにはこれからも頑張ってもらいたいですね。

 それはそうと、『現代宗教研究(現宗研所報)』第40号(平成18年3月)に、「創価学会と日蓮宗の『小樽問答』再現記録」という資料がのっていました(pp. 630-677)。

  『現代宗教研究(現宗研所報)』第40号
  http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/pdf/syoho40.pdf

 なんでもっとはやく公開できなかったんでしょうか。とはいえ、これは大きな一歩と評価したいですね。

 さて、今成元昭先生のおかげというべきか、現在、日蓮宗では摂折論が盛んなようです。折伏派の先生方には、ぜひ折伏を実践していただきたいとおもいます。「小樽問答」の続きをやられてみてはいかがでしょうか。
  1. 2007/08/30(木) 02:09:08 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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文証の追加

 記事「縁起と一念三千」の「文証」の項目の中で、『十如是事』を引用しておいたのは、主として『日蓮自伝考』の読者の方々を想定してこの記事を書いたからなのですが、『十如是事』の引用に抵抗を感じるような方に対しましては、以下の『摩訶止観』(チギ)の文を文証として示したいとおもいます。


●『摩訶止観』の原文
───────────────
如是本末究竟等者。相為本報為末。本末悉従縁生。縁生故空。本末皆空。此就空為等也。又相但有字報亦但有字。悉仮施設。此就仮名為等。又本末互相表幟。覧初相表後報。覩後報知本相。如見施知富見富知施。初後相在。此就仮論等也。又相無相無相而相。非相非無相。報無報無報而報。非報非無報。一一皆入如実之際。此就中論等也。

(『摩訶止観』、大正蔵第46巻、p. 53b-c)
───────────────

●菅野先生の訓読
───────────────
 如是本末究竟等とは、相を本と為し、報を末と為す。本末悉く縁従り生ず。縁生の故に空にして、本末皆な空なり。此れは空に就いて等と為すなり。又た相は但だ字のみ有り、報も亦た但だ字のみ有り。悉く仮りに施設す。此れは仮名に就いて等と為す。又た本末互に相い表幟す。初めの相を覧て後の報を表わし、後の報を覩て本の相を知る。施を見て富を知り、富を見て施を知るが如し。初後相い在り。此れは仮に就いて等を論ずるなり。又た相にして無相、無相にして而も相、非相非無相、報にして無報、無報にして而も報、非報非無報、一一皆な如実の際に入る。此れは中に就いて等を論ずるなり。

(菅野博史『一念三千とは何か』〔レグルス文庫 204〕、第三文明社、1992年、p. 256)
───────────────

●菅野先生の現代語訳
───────────────
 如是本末究竟等とは、相を本とし、報を末とする。本末はすべて縁から生じる〔縁生〕。縁によって生じるから空であり、本末はみな空である。これは空という視点で(本末が)等しいとする。さらに、相はただ文字があるだけで、報もただ文字があるだけである。すべて仮りに(文字を)設定するのである。これは仮名という視点で(本末が)等しいとする。さらに、本末はたがいにはっきりと示す〔表幟〕。初めの相を見て後の報を表わし、後の報を見て本の相を知る。たとえば、布施を見て富を知り、富を見て布施を知るようなものである。初め<本のこと>と後<末のこと>とが互いにある。これは仮という視点で(本末が)等しいことを論じている。さらに、相でありながら無相、無相でありながら相、相でもなく無相でもないあり方、報でありながら無報、無報でありながら報、報でもなく無報でもないあり方、それぞれがみな真実ありのままの究極〔如実之際〕に入る。これは中という視点で、(本末が)等しいことを論じているのである。

(同上、pp. 158-159)
───────────────

●菅野先生の訳注
───────────────
 仮名──仮りに名づけたもの。概念(名)は対応する実体のない仮りのものである。対応梵語はプラジュニャプティ〔中略〕。『中論』巻第四、観四諦品、「衆くの因縁もて法を生ず。我れ即ち是れ無なりと説く。亦た為是れ仮名なり。亦た是れ中道の義なり」(大正三〇・三三中)を参照。

(同上、p. 164)
───────────────


 この『摩訶止観』の文章によって、「縁起→円融三諦→十如是」という構造は、よくお分かりいただけるのではないかとおもいます。

 そして、「十如是→一念三千」という構造は、『十章抄』(日蓮)の「一念三千の出処は略開三の十如実相」(全集、p. 1274、この部分の真蹟あり)からご理解いただけるとおもいます。

 よって、「縁起→円融三諦→十如是→一念三千」という構造がご理解いただけるとおもいます。
  1. 2007/09/07(金) 18:37:31 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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