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仏教と批判的合理主義

人本尊と法本尊 ─ 日蓮の本尊は法仏一体 ─

leaf人本尊と法本尊

 日蓮によれば、仏像は、開眼されてはじめて本尊たりえる。そして、開眼は、一念三千の法門によらなければならないという。一念三千の法門は法華経にしかなく、法華経からそれをとりだしえたのは天台大師しかいないので、「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎる」(「四條金吾釈迦仏供養事」)というのが日蓮の考えである。

 これは、要するに、仏像を【一念三千の法門を衆生に教える生身の仏】としてみるというということであり、【寿量の仏】としてみるということである。そのような仏像は前代未聞であると日蓮はいう。「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂搭いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。」(「宝軽法重御書」)

 「仏像本尊は人本尊であって法本尊ではない」と思っている人がもしかしたらいるのかもしれないが、法華経によって開眼されていない仏像などはそもそも本尊たりえないし、もし開眼されているのなら、その仏像はすでに法仏一体の本尊なのであるから、「仏像本尊は人本尊でもあり法本尊でもある」というのが正しい見方であろう。

 同様に、「曼荼羅本尊は法本尊であって人本尊ではない」というのも間違った見方であろう。曼荼羅の中尊は五字であるが、その曼荼羅を授与しつつ、日蓮は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(「報恩抄」)というのであるから、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表していることになる。

 「報恩抄」には「阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし」とあり、この文章の内部の文脈から、「華厳経・観経・大日経等には」というところは、「華厳経・観経・大日経等〔の題目〕には」と補って読まれるべきである。

 この文章の前後の文脈を考慮すれば、この文章がその反対解釈であるところの【法華経の題目には「二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏」がある】というテーゼを主張するものであることは明らかであろう。つまり、【法華経の題目には久遠実成の釈迦仏がある】というのが日蓮の考えであり、曼荼羅の五字もその思想のあらわれのひとつであろう。

 もともと、日蓮には「法華経は釈迦牟尼仏也」(「守護国家論」)という考えがあり、「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(「法蓮鈔」)ともいうから、日蓮にとっては、法華経のタイトルが生身の釈尊の名前ということになるのは当然のことなのであろう。

 もっとも、日蓮にとって、五字は、「本門の肝心」であり、「寿量品の肝心」であるから(「本尊抄」)、釈尊といっても寿量の仏に限定されることになるのであろう。つまり、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表すことになるのである。

 もちろん、五字が寿量の仏のアイデンティティーであるところの一念三千の法門をもあらわすというのはいうまでもない。「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」と日蓮はいう(「本尊抄」)。結局、曼荼羅の中尊の五字も法仏一体であるということになる。

 曼荼羅の中尊の五字の内には、寿量の仏じしんの慈悲によって、すでに一念三千の法門がつつまれているのであるから、五字が書かれた時点ですでに開眼されていることになる。「曼荼羅にも開眼供養が必要である」などと考えている人は、日蓮がいうところの開眼の意味を理解しておらず、曼荼羅を本尊とすることの意義も理解していないのであろう。

 ゴータマじしんの立場は「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」(http://fallibilism.web.fc2.com/085.html)というものであった。日蓮の本尊観は、このゴータマの立場を正しく継承しているとわたしは思っている。もっとも、現代において日蓮の教えを信じているという人たちの間では、いまだに、法本尊と人本尊の優劣についての論争がたえないのであるが。。。

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  1. 2018/07/20(金) 13:47:26|
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