仏教と批判的合理主義

『法華経』と釈尊の思想

leaf はじめに

  今回は『法華経』について少し考えてみたいとおもいます。

  『法華経』は大乗経典ですから、歴史上の釈尊の説法をそのまま記録したもの(ノンフィクション)ではありません。あくまでもフィクションです。しかし、フィクションによって、歴史上の釈尊の思想がより生き生きと伝わるということはありえますし、実際、宮沢賢治のような人にはありありと伝わったんだろうとおもいます。

  ある大乗経典について、それが伝えようとしている思想を理解した上で、「歴史上の釈尊の思想に反する」とおっしゃるのであれば、それはそれで一つの立派なお立場だろうと思います。しかし、世の中には、「大乗経典はフィクションだから価値はない」というような短絡的なことをおっしゃる方もおられるようです。こういうことをおっしゃる方は、ドキュメンタリー映画しかご覧にならないのかなといつも不思議におもいます。アニメを観て感動するといったこともおそらくないのでしょう。

  『法華経』は好きなんだけど、そんなことを他人に言うと、「大乗経典はフィクションなんだから、そんなものに価値なんてないよ」とか言われそう…。こんな思いをされている方がもしかしたらおられるかもしれません。今回の記事はそういう方に向けたものです。そういう方に「もっと自信を持ってもいいんですよ」と言ってあげたいというのが今回の記事の趣旨です。宮沢賢治のように『法華経』に惹かれることができたその豊かな感覚にもっと自信を持ってもらえたらいいなと思います。

  以下では、まず、『法華経』が初期経典を素材にして作られているということを確認しておきたいとおもいます。次に、『法華経』のタイトルに用いられている「サッダルマ」という語の意味について考えてみます。最後に、『法華経』の中にあらわれるユニークな思想を2つほど紹介しておしまいにしたいとおもいます。


leaf 『法華経』は歴史上の釈尊の思想の新たな解釈の一つ

  『法華経』はたしかに歴史上の釈尊の説法の記録ではありません。釈尊滅後に仏教徒によって創作された経典です。『法華経』は、自ら創作であることを明かしています

  ちなみに霊鷲(グリドラクータ)山は小高い丘で、頂上が平らになっており、釈尊の説法場所の一つとして有名である。歴史上の釈尊はこの霊鷲山での説法の後、故郷を目指して旅立ち、三ヵ月後に涅槃に入った。この旅路の様子は小乗の『涅槃経』に詳しく説かれている。『法華経』は釈尊の臨終直前の説法という設定であるから、霊鷲山を説法の場所として選んだのである。もちろん、ここに本経に列挙されるような膨大な数の人が集まれるはずはないので、大乗経典が創作であることを自ら明かしているともいえよう。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、岩波書店、2001年、p. 23)

  しかし、創作ではあっても、釈尊の説法と無関係というわけではありません。『法華経』は、釈尊の説法を伝えている初期経典を素材にして創作されているからです。そういう意味では、『法華経』は、菅野先生がおっしゃるように、歴史上の釈尊の思想の新たな解釈の一つということができるとおもいます。

  初期大乗経典は、釈尊の生涯と思想の新たな解釈であると捉えることができると思います。釈尊の生涯と思想は原始経典に説かれ、伝承されてきたものです。では、素材そのものは原始経典であるのに、どのようにして新たな解釈の枠組は形成されたのでしょうか。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 13)

leaf 『法華経』は梵天勧請を素材にしている

  まず、初期経典の『サンユッタ・ニカーヤ』のある部分を引用してみたいとおもいます。この部分を含む節(第一集、第六篇、第一章、第一節)は梵天勧請の話としてとても有名です。

わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.83)

  次に、『法華経』の方便品のある部分を引用します。この箇所を含む部分は、『法華経』の中でも最も重要な部分の一つとされています。

シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来たちは、偉大な稀有・未曾有(の法)を得ておられる。〔中略〕シャーリプトラよ、如来が知る法、その法を、如来こそが如来に対して説かれるのである。

(松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経Ⅰ』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、p. 41)

  これら2つの文章は、ほとんど同じ内容だといってもよいでしょう。しかし、これら2つの文章を抜き出して比較してみただけでは、『法華経』が初期経典の梵天勧請を素材にしているということを実感できない方もおられると思います。そういう方は、ぜひ実際に、これら2つの文章が埋め込まれている文脈をご自分で比較して確認してみてください。文脈もそっくりだということが実感できると思います。

  以下に、関連する菅野先生の解説を引用させて頂きます。

  次に、『法華経』のなかでも最も重要なメッセージ、釈尊がこの世に出現する目的としてあげられた一切衆生の平等の成仏、だれでもが成仏できるという思想が『法華経』自身においてどのように捉えられているかについて見てみたいと思います。
  このメッセージが説かれる場面も、『法華経』の説明はまったく梵天勧請を下敷きにしています。実際には、仏の智慧の超越性を説く釈尊に対して、舎利弗が三回にわたって説法の勧請を行ないます。仏の説法の拒絶の言葉は、悟りを開いた釈尊の説法に対する躊躇逡巡と通じるものがあります。釈尊は「(舎利弗に対して、これ以上語ることを)止めなさい。止めなさい。もう説く必要がない。もしこの事がら〔釈尊が仏の智慧の超越性をたたえる理由〕を説くならば、すべての世間の神々や人々はみな驚き疑うにちがいないからである」と、説法を拒否しています。
  また、舎利弗の説法の勧請の言葉は、梵天のそれと通じています。舎利弗は「世尊よ。どうかこれを説いてください。どうか説いてください。なぜかといえば、この集会の数え切れない大勢の衆生は諸仏を見たことがあり、するどい機能を持った感覚器官があり、聡明な智慧があるので、仏の説くことを聞けば、尊敬し信じることができます」とお願いしています。
  その後、釈尊は熱心な舎利弗の願いに応えて、一切衆生の成仏というメッセージを説いたのですが、譬喩品のなかに、神々がこのメッセージの宣言について、「仏は昔、ヴァーラナシーにおいてはじめて法輪を転じられましたが、今、ふたたび無上最大の法輪を転じられました」と述べるところがあります。これはヴァーラナシーのムリガダーヴァ(鹿野苑)における初転法輪と『法華経』の説法を対比させたものです。釈尊は梵天の勧請を受けいれ、かつての修行仲間である五人の出家者に対して説法をするためにムリガダーヴァに行きます。そこで、不苦不楽の中道、四諦八正道を説かれました。それを初転法輪といいます。仏教そのものがこの世界においてはじめて開示されたことを意味します。これに対して『法華経』の説法を第二の最高の法輪と位置づけていることがわかります。
  以上の説明で、『法華経』が釈尊のダンマの悟りを根拠とし、さらに梵天の勧請を受けての初転法輪に対比されていることが明らかになりました。


(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、pp. 20-22)

leaf 妙法(サッダルマ)とは縁起のことである

  『法華経』が初期経典を素材にして創作されたものであるということについては、以上の具体例を通して、だいたいのイメージをつかんで頂けたかと思います。

  次は、『法華経』のタイトルに用いられている「サッダルマ(妙法、正法)」という語の意味について考えてみたいとおもいます。

  仏教を少しでも勉強したことがある人にとっては、「サッダルマ」が「縁起」を意味するということは常識といってもよいでしょう。

  さきに引用した『サンユッタ・ニカーヤ』の箇所を、続きの部分を含めてもう一度引用してみましょう。

わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、〈これを条件としてかれがあるということ〉すなわち縁起という道理は見がたい。

(中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.83)

  ここで「真理」と訳されているパーリ語の原語は「ダンマ」です。したがって、この部分は、「釈尊がさとったダンマは絶妙であり、それは縁起である」と圧縮することができます。この箇所を含む梵天勧請の話はとても有名で、仏教を少しでも勉強したことがある人なら必ず知っているといってもよいでしょう。

  そういうわけなので、「サッダルマ(釈尊がさとった絶妙なるダンマ)」といえば「縁起」を意味するということは、仏教を少しでも勉強したことがある人にとっては常識であり、いちいち説明するまでもないことだといってよいでしょう。

  たとえば、龍樹の場合を例にとってみてみましょう。龍樹は、『中論』の最後の偈において、「サッダルマを説いた釈尊に帰命します」と言っています。

一切の〔誤りの〕見解を断ぜしめるために、慈愍にもとづいて、正しい真理(正法)を説き示されたそのゴータマ(ブッダ)に、私はいま帰命する。

(第27章第30偈、三枝充悳訳『中論(下)』〔レグルス文庫 160〕、第三文明社、1984年、p. 777)

  龍樹はサッダルマの中身についていちいち説明したりしていませんいちいち説明する必要を感じなかったからでしょう。しかし、『中論』の最初の偈(帰敬偈)を見れば、龍樹がいうところのサッダルマが縁起を意味していることは明らかです。

〔何ものも〕滅することなく(不滅)、〔何ものも〕生ずることなく(不生)、〔何ものも〕断滅ではなく(不断)、〔何ものも〕常住ではなく(不常)、〔何ものも〕同一であることなく(不一義)、〔何ものも〕異なっていることなく(不異義)、〔何ものも〕来ることなく(不来)、〔何ものも〕去ることのない(不去)〔ような〕、〔また〕戯論(想定された論議)が寂滅しており、吉祥である(めでたい)、そのような縁起を説示された、正しく覚った者(ブッダ)に、もろもろの説法者のなかで最もすぐれた人として、私は敬礼する。

(帰敬偈、三枝充悳訳注『中論(上)』〔レグルス文庫 158〕、第三文明社、1984年、p. 85)

  このようにみてみますと、『法華経』のタイトルに用いられている「サッダルマ」という語が「縁起」を意味するということはお分かりになるとおもいます。

  『法華経』の作者は、「釈尊がさとったダンマは絶妙であり、それは縁起である」と説く梵天勧請の話をわざわざ素材に選んで『法華経』の最も重要な部分を作ったわけです。その作者がつけたタイトルに用いられている「サッダルマ」という語が縁起を意味しないということは考えにくいでしょう。

  このことは、以下に示す「縁起法頌」によって『法華経』がしめくくられていることからも明らかでしょう。

いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

(「第二十七章 嘱累品」、中村瑞隆『現代語訳 法華経下』、春秋社、1998年、p. 221)

  また、『法華経』の中身を読みさえすれば、このことはさらにはっきりするとおもいます(以下の資料を参照)。

『法華経』における縁起と空
http://fallibilism.web.fc2.com/129.html
leaf 名(サッダルマ)は体(縁起)を表わす

  『法華経』のタイトルに用いられている「サッダルマ」という語についての菅野先生の解説を引用させていただきます。

  このように、釈尊の根本の悟りについて、原始経典には、ダンマを悟り、ダンマを尊敬することを明らかにしています。ダンマに正しいという意味の形容語を付けたものがサッダンマであり、正法と漢訳されます。
  『法華経』のサンスクリット語のタイトルはサッダルマプンダリーカ・スートラ
〔中略〕といい、竺法護訳では「正法華経」、鳩摩羅什訳では「妙法蓮華経」といいます。釈尊の悟りの原点であるサッダンマをそのまま経典のタイトルに用いていることに気がつきます。名は体を表わすといいますが、タイトルはたいへん重要なものです。『法華経』という経典が釈尊のダンマの悟りを何よりも重視していることがわかります。

(菅野博史『法華経の出現─蘇る仏教の根本思想─』、大蔵出版、1997年、p. 18)

  上述したように「釈尊の悟りの原点であるサッダンマ」が縁起を意味し、かつ、菅野先生がおっしゃるように「名は体を表わす」とすると、『法華経』の「体」は縁起であるということになります。このことを確認してみましょう。

  『法華経』の「体」が何なのかということについては解釈者によって意見が異なりうるとおもいますが、ここでは、天台教学にもとづいてみてみることにします。

  天台教学では、『法華経』の「体(正体)」は実相であるといわれ、その実相とは、空・仮・中の円融三諦であるとされます。

実相者即経之正体也。如是実相即空仮中。

〔実相とは即ち経の正体なり。是くの如きの実相とは即ち空・仮・中なり。〕

(『法華玄義』、大正蔵第33巻、p. 781b)

  ところが、この円融三諦というのは、龍樹の『中論』第24章第18偈(三諦偈)に基づくものであり、その偈はまさに縁起を表現したものなのです(以下の資料およびその註を参照)。

龍樹の空思想(新田雅章)
http://fallibilism.web.fc2.com/123.html

  結局、天台教学では、『法華経』の「体」は縁起であるということになります。そうすると、たしかに、名(サッダルマ)は体(縁起=実相)を表わすといえます。

  『法華経』のタイトルには「プンダリーカ(蓮華)」という語も用いられていますので、この語の意味についても気になる方がおられるかもしれません。そういう方は、以下の拙文を参考にされてみて下さい。

蓮華不染喩のパドマと経題のプンダリーカについて
http://fallibilism.web.fc2.com/z020.html
leaf サンガ(教団)に対する供養の否定

  最後に、『法華経』の中にあらわれるユニークな思想を2つほど紹介しておしまいにしたいとおもいます。両方とも、菅野先生の解説を引用することによって紹介させていただきます。

  まず1つめは、サンガ(教団)に対する供養の否定という思想です。これはきわめてユニークな思想であり、ラディカルな思想だとおもいます。

『法華経』の中に、部派教団との厳しい対立、緊張関係を見いだすことはそれほど難しいことではない。たとえばサンガ(仏教教団)に対する供養の否定という思想も見られるほどである。分別功徳品第十七には、「善男子、善女人よ。私のためにもはや塔寺を起てたり僧坊を作ったり、四事(衣服・寝具・飲食物・医薬)をサンガに供養する必要はない。なぜならば、この善男子、善女人が経典(『法華経』を指す)を受持・読誦するなら、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからである」と述べている。『法華経』の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としないという、見方によってはきわめてラディカルな思想を説いている。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、p. 50)

  サンガに対する供養も三輪清浄の財施といいうるものであればすばらしい行為(菩薩行)のようにもおもえます。しかし、「そんなことはどうでもいいから経典を受持せよ」と『法華経』は言っています。

  『法華経』を信仰する団体を自称している教団が必死になって信者に「サンガに対する供養」を奨励しているとすれば、これほどヘンなことはないということになります。『法華経』を信仰していると自称している人たちが、必死になって「サンガに対する供養」を他の人たちと競い合っているとすれば、これほどヘンなこともないでしょう。もっとも、そのような場合には、そもそも三輪清浄の財施といいうるかどうかさえ怪しいと思いますが。

leaf すべての人を未来の仏として尊敬する

  『法華経』のユニークな思想の2つめは、「すべての人を未来の仏として尊敬する」という思想です。宮沢賢治はこの思想に感動したのでした。

私はこれまで『法華経』を読み、研究してきたが、『法華経』の思想を一言で表わせと求められたならば、どのように答えたらよいであろうか。この問いを前にして、私は『法華経』に登場するある不思議な人物を思い出さざるをえない。彼は、自分の出会う人すべてに「私は深くあなたたちを尊敬する。軽んじあなどろうとはしません。なぜならば、あなたたちはみな菩薩の修行を実践して、成仏することができるであろうからです」と語りかける。つまり、彼はすべての人を未来の仏として尊敬するという実践をしたのであった。ところが、周囲の人々は彼にきわめて冷淡であり、そればかりか石をぶつけたり、杖で打ち据えたりする。それにもかかわらず、彼はこの実践行を一生貫いたのである。この人物は常不軽菩薩という名の菩薩である。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩に出る「デクノボー」は、この常不軽菩薩をモデルにしたとされ、宮沢賢治自身が彼のように生きたいと痛切に祈った人物である。
  この、あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという、きわめてシンプルではあるけれども混迷する現代の諸問題を解決に導くための基本的な視点、人としての振舞いの原点を指し示した思想と実践が『法華経』の真実の核心であると思う。


(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、iii~iv)

  たしかに縁起の思想からすれば、どんな人であっても、固有の本性(自性)というようなものはありません(無自性)。したがって、どんな人でも、縁によっては仏になれるチャンスがあるはずです。

  縁起を深く理解し、それが、思考の習慣としてしっかりと身についている人にとっては、「すべての人を未来の仏として尊敬する」ということはごくあたりまえに、ごく自然に実践できるのかもしれません。しかし、そうでない人(例えば、わたしのようなもの)は、縁起の思想をくりかえし復習したり、常不軽菩薩という不思議な人物のことをくりかえし思い出したりして、縁起を思考の習慣としてしっかりと身につけていく必要がありそうです。

leaf おわりに

  今回は『法華経』についてわたしなりにいろいろと考えてみました。もっとも、菅野博史先生の学説わたしなりに解釈して紹介してみたにすぎませんので、「考えた」というのは言いすぎかもしれません。

  読者の方がこの記事をお読みになって、「へぇ~」と思われることが一つでもあったとすれば、それはすべて菅野先生のご業績のなせる業でしょう。そういう方は、どうか菅野先生のご著書をご自分で購入されて読まれて下さい。先生のご著書の売れ行きがもっと良くなれば、先生への新たな執筆依頼が増えることになり、わたしたちの智慧もそれだけ開かれることになるでしょう。

  読者の方がこの記事をお読みになって、「つまらねぇ~」と思われることがあるとすれば、それはすべてわたしの無知のなせる業でしょう。そういう方もどうか菅野先生のご著書を直接ご自分で購入されて読まれて下さい。先生のご著書の売れ行きがもっと良くなれば、先生の新著がどんどん出版されて、わたしのようにどうしようもなく無知な人間でも少しは賢くなれるかもしれません。

  『法華経』についてはこれまでにも愚考をいろいろと発表してきました。その中から一つだけ拙文を紹介しておしまいにしたいとおもいます。

法華経について
http://fallibilism.web.fc2.com/bbslog3_002.html

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  1. 2006/12/30(土) 08:18:31|
  2.   仏教 [ 法華経 ]
  3. | コメント:14
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コメント

す、すごい内容だ。

Libraさん、こんにちは。
 私の疑問点にそのままの内容で凄く勉強になります。
 年末になってからでしたがLibraさんと関われたのは物凄く嬉しかったです。色々お世話になりました。来年も宜しくお願いします。m(_ _)m
未だに、Libraさんから頂いた回答の答えすらまだ書けていませんが思索中です。
  1. 2006/12/30(土) 15:21:21 |
  2. URL |
  3. そううそ #-
  4. [ 編集]

Libraさん、こちらにレスします。

> Leo さんが期待されている「法華経が部派関連の件」をわたしなりに想像してみて、新しい記事を作ってみました。
>
>  『法華経』と釈尊の思想
>  http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-4.html
>
> わたしの想像が的外れで、Leo さんの期待とは全く関係のないものになっているかもしれません。ご意見、ご感想などがありましたらよろしくお願いいたします。
今回の記事(も)興味深く読めました。ありがとうございます。
これらの点は期待していたところです。
(『法華経』が創作でも無価値に思えなかったので)
>「大乗経典はフィクションだから価値はない」
ということはないという点
>「『法華経』が初期経典を素材にして作られている」
これはら再認識しました(忘れかかっていました)。
>「『法華経』の中にあらわれるユニークな思想」
>「サンガ(教団)に対する供養の否定」
>「すべての人を未来の仏として尊敬」
以下はLibraさんに以前ご紹介いただいて関心があり調べてみたい知りたい点です(メモ)。
・『ウダーナ・ヴァルガ』第33・41
・『テーリーガーター』の第22詩
・Majjhima-nika(_)ya I, p. 173 ; Samyuta-nika(_)ya V, p. 423.
・「パーリ律蔵 大品」と「方便品」の関係
  1. 2006/12/30(土) 17:22:11 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

そううそさんへ

 そううそさんが「す、すごい内容だ」と思われたとすれば、それ
はすべて菅野先生のご業績によるものだとおもいます。
 今回の記事に書いたようなことをちゃんと理解した上で勤行した
り題目を唱えたりしている人が、創価学会員の中にどれくらいおら
れるのかわかりませんが、そういう人がどんどん増えていけば、こ
の国の仏教理解のレベルもかなり底上げされるようにおもいます。
 初期経典を含めて、著名な経論の現代語訳に誰でも簡単にアクセ
スできるというような時代が、そう遠くない未来にやってくるでし
ょう。そういう時代を想像すると、題目を呪文かなにかと勘違いさ
せてしまうような教学はとても生き残っていけないとおもいます。
 わたしが長い時間をかけて考えたことに対しては、速断と偏見を
避けて、じっくりと吟味して判断していただければとおもいます。
  ───────────────────────────
  そもそも「知性(intellect)」とは、物ごとを区別してそれら
  の「間(inter)から選びとる(lego)」ことを意味するから、
  真偽を分けて「判断する〔中略〕」能力即ち「批判(jugement、
  直接的意味は判断)」と密接な関係をもたざるをえないが、単
  に頭のいい人が器用に「判断をもちいずに自分の知らぬことを
  語る(parler, sans jugement, de celles gu'on ignore)」
  (デカルト『方法序説』第一部、落合訳)ような、いわば一を
  聞いて十を知るような能力とは全く関係がない。だから、私が
  批判主義の典型と考えているデカルトは、速断と偏見を避け
  「闇の中をただひとり歩く人のように、そろそろ行こう、そう
  してあらゆることに周到な注意を払おうと決心した」(同上)
  のであり「人が二十年かけて考えたもののすべてを、それにつ
  いて僅か二、三語を聞くやいなやただ一日のうちに悟る自信を
  有する」(同上、第六部)頭のよい者こそがデカルトの敵にほ
  かならなかったのである。
  (袴谷憲昭『道元と仏教』、大蔵出版、1992年、
    http://fallibilism.web.fc2.com/003.html
  ───────────────────────────
 今年はたいへんお世話になりました。来年もよろしくお願いいた
します。
  1. 2006/12/31(日) 16:18:31 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Leo さんへ

 どうにか「的外れ」ではなかったようですね。安心しました。
 次回は、批判的合理主義について書こうか、一念三千について書
こうか、少し迷っています。
 今年もたいへんお世話になりました。来年もよろしくお願いいた
します。
  1. 2006/12/31(日) 16:32:57 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Libraさんへ

あけましておめでとうございます。
色々ご教示ありがとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
> 次回は、批判的合理主義について書こうか、一念三千について書
>こうか、少し迷っています。
(あくまで私の意見ですが...)
仏教の話題が続いたので、批判的合理主義でしょうか?
(批判的合理主義も仏教の基礎論になり得るということで...)
  1. 2007/01/01(月) 21:03:09 |
  2. URL |
  3. Leo #k12f31x.
  4. [ 編集]

Libra様

 本年は世界の苦が僅かでも減りますように。
 「『法華経』と釈尊の思想」、拝読いたしました。
 法華経は、10年以上前に一度読んだままで、気になってはおりますが、あまりに大きすぎてなかなか手を出せずにおります。
 10年たって、私の仏教理解の仮説も当時より少しは固まってきたように感じますので、そろそろチャレンジしてみようと思いました。
 確かに賢治の文章の端々には、無常=無我=縁起を生き生きと感じていたに違いないと思わせる表現があります。法華経から学んだものでありましょう。そのあたり、確認したいと思います。
 よい刺激を頂きありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。
  1. 2007/01/02(火) 11:41:15 |
  2. URL |
  3. 曽我逸郎 #-
  4. [ 編集]

みなさまへ

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。
  1. 2007/01/04(木) 18:08:08 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

Leo さんへ

 今年に入って最初のコメントありがとうございました。
 Leo さんのアドバイスに従いまして、次回は批判的合理主義につ
いて書いてみようとおもいます。といっても、いつもの通り、記事
になるまではしばらく時間がかかるでしょう。批判的合理主義とは
どんなものなのか、全く予備知識がなくてもだいたいのイメージを
つかんでもらえるような、そんな記事を構想しています。構想倒れ
で終わるかもしれませんが。
  1. 2007/01/04(木) 18:16:59 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

曽我逸郎さんへ

 これまで、曽我さんからはとても多くのことを学ばせて頂きまし
た。感謝の気持ちでいっぱいです。
 曽我さんが『法華経』をどのように読まれるのか、とても楽しみ
にしています。
 今年もよろしくお願いいたします。
  1. 2007/01/04(木) 18:27:41 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
  4. [ 編集]

こんばんは

こんばんは。
TBどうも。
>初期経典を含めて、著名な経論の現代語訳に誰でも簡単にアクセスできるというような時代が、そう遠くない未来にやってくるでしょう。
同感です。私もそう思います。テーリーガーターも既にありますし他の教典もあるでしょう。
そして何より「古文でない日本語訳」としてどの経文も読む事が可能になると思います。
創価学会がやらなくても誰かがいずれするでしょう。後から立ち上げると当然、不利になるでしょうが創価はそれも後手になるでしょう。
ネットの普及から7,8年たちましたが、あと20年もかからずに釈迦の実像を誰にでも等しく捉える事の出来るネット環境が出来てくると思います。
私としては日蓮の御書がキチンと翻訳されるべきだと思います。
>題目を呪文かなにかと勘違いさせてしまうような教学
しかし、祈りが叶う、というのを取り下げても布教は可能なんでしょうかね?
私はほとんど無理だと思います。
  1. 2007/01/04(木) 23:54:33 |
  2. URL |
  3. そううそ #-
  4. [ 編集]

そううそさんへ

> しかし、祈りが叶う、というのを取り下げても布教は可能なんで
> しょうかね?
 あの偉大な釈尊ですら説法を躊躇せざるをえませんでした。仏教
の布教というのは相当に困難だとおもいます。なぜなら、仏教とい
うのは、「ある意味ではきわめてシニカルな屈折した実に奇妙な考
え方」(松本史朗)だからです(以下の資料を参照)。
  仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/082.html
 たとえば、記事の中で引用しておいた『サンユッタ・ニカーヤ』
の箇所の続きの部分には以下のような詩が出てきます。
  ───────────────────────────
   実に次の、未だかつて聞かれたことのない、すばらしい詩句
  が尊師の心に思い浮んだ。
      「苦労してわたしがさとり得たことを、
       今説く必要があろうか。
       貪りと憎しみにとりつかれた人々が、
       この真理をさとることは容易ではない。
       これは世の流れに逆らい、微妙であり、
       深遠で見がたく、微細であるから、
       欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができない
       のだ」と。
  (中村元 訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』
    〔岩波文庫〕、岩波書店、1986年、p.84)
  ───────────────────────────
 仏教の真理は「世の流れに逆ら」うものですから、必然的に、そ
の布教は相当に困難なものとならざるをえないでしょう。
 しかし、だからといって、「効率よく布教をするためだったら、
仏教に反することまで言ってしまってもOK!」などということに
でもなれば、そんなのはもはや「仏教の布教」ではなくなります。
実際、仏教はインドでは消滅したのでした(以下の資料を参照)。
  仏教の消滅(小川一乗)
  http://fallibilism.web.fc2.com/060.html
 もちろん、仏教徒は「布教は相当に困難だろうけど、決して無理
ではない」と信じています。常不軽菩薩みたいに。
 仏教徒としては、祈りを叶えてくれる呪文などをお求めの方に対
しては、「では別の宗教をお探しください」と言うしかないとおも
います(あちらでの以下のコメントを参照)。
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   縁起の思想に苦しみを滅ぼす力なんて本当にあるのかどうか。
  それは人によって評価がわかれるでしょう。しかし、それを信
  じるのが仏教です。もっと別の救いがほしいという人は別の宗
  教をさがすしかありません。
  (http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/e/4f830943fd09bd9e967ef738ce532c85
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  1. 2007/01/05(金) 01:59:47 |
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  3. Libra #cNf7QC.Q
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『法華経』の中心テーマ

 『法華経』の中心テーマについてまとめておきます。参考にされ
てください。
1.教えの統一
 前半(第1章~第9章)の中心テーマ。諸教は真実の教えに統一
される。真実の教えとは縁起である(今回の記事の本文を参照)。
2.仏の統一
 後半(第10章~)の目玉。諸仏は釈尊に統一される。空間的な
統一は第11章で、時間的な統一は第15章〔羅什訳では第16章〕
で説かれる(以下の資料を参照)。
  『法華経』のねらい──諸教の統一・諸仏の統一(菅野博史)
  http://fallibilism.web.fc2.com/131.html
3.仏の使者として真実の教えを語り伝えていこうという誓願
 後半の中心テーマ。特に、第10章および第14章〔羅什訳では
第15章〕で明示的に説かれる。
  ───────────────────────────
  薬王よ、良家の息子にせよ娘にせよ、如来(である私)が完全
  な涅槃にはいったあとで、この法門を説き明かすなら、たとえ
  それがひそかにこっそりとであっても、まただれか一人の衆生
  だけに対してであっても、(この法門を)説き明かすなり、語
  り伝えたりするならば、その人は如来のなすべき仕事をはたす
  もの、如来によって遣わされたものと考えられるべきである。
  (「第十章 法師品」、
    松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経Ⅱ』〔中公文庫〕、
    中央公論新社、2002年、p. 10)
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4.あらゆる人々を未来の仏として尊敬するという思想の実践
 前半と後半に共通してこの経のベースに常に流れている基本的な
テーマ。特に、第19章〔羅什訳では第20章〕で明示的に説かれ
る。この実践は、真実の教えである縁起の思想の深い理解に基づく
ものである(今回の記事の本文を参照)。
 ちなみに、日蓮は、「法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」
と言う。
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  日蓮は『崇峻天皇御書』で、「一代の肝心は法華経、法華経の
  修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいか
  なる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」と
  述べ、『教行証御書』で、「彼(不軽菩薩)は像法、此(日蓮)
  は濁悪の末法。彼は初随喜の行者、此は名字の凡夫。彼は二十
  四字の下種、此は唯五字也。得道の時節異りと雖も、成仏の所
  詮は全体是れ同じかるべし」と述べ、常不軽菩薩の語りかけた
  二十四文字(「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩
  薩道、当得作仏」)と「妙法蓮華経」の五字とを類比対照させ
  たが、これは常不軽菩薩の授記の実践こそが『法華経』の核心
  であることを洞察したからではないか。
  (菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、
    岩波書店、2001年、p. 130)
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  1. 2007/01/05(金) 19:26:02 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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あけましておめでとうございます

Libraさん、昨年はお世話になりました。
今年も宜しくお願いします。
トラバいただきありがとうございました。
さっそく記事にさせていただきました。
改正箇所などありましたら、いつでもお申し付けください。
私は法華経、唯一ではありませんが、やはり好きです。
以前の法華経観とは変わってきていると思います。
  1. 2007/01/05(金) 21:01:48 |
  2. URL |
  3. みれい #unfRF2B2
  4. [ 編集]

みれいさんへ

 昨年はお世話になりました。今年もよろしくお願いいたします。
 さっそく記事にまでしていただきましてありがとうございました。
 まじめな創価学会員ならば毎日読んでいるはずの『法華経』です
が、そうであるにもかかわらず、その内容をほとんど理解していな
い場合があるようです。これは非常にもったいないと思います。せ
っかく、菅野博史先生がすばらしい解説書を出されているのに、そ
れもあまり読まれていないように思います。とても残念なことです。
 みれいさんの鋭いご意見からは、いつもよい刺激を頂いています。
また何かお気づきの点がございましたらご教示ください。よろしく
お願いいたします。
  1. 2007/01/06(土) 00:26:01 |
  2. URL |
  3. Libra #cNf7QC.Q
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