仏教と批判的合理主義


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[ありがとうございます^^]
なるほど!!
分別功徳品ですか!^^

本来、寄付はいらないし・する必要もない。
なので寄付で悩むことなど、本当は必要ない。

もちろん中には、誠意から供養したい!気持ちだけでも寄付したい!という人もいらっしゃるかもしれません。
それは、あくまでその人の誠意なので、それは尊い気持ちだと思います。

宗教団体が寄付を無理やり押し付ける。
呆れた事に一口1万円といって、押し付ける。
様々なモノを買わせる。
それが正しいことだと、団体の代表が叫ぶ。
これは本来の法華経を侮辱することだと思います。

勉強になりました。
ありがとうございます^^。
06/16 18:50 By:kan URL
[実はすっごく凄くないんですけどね]
 kanさま、はじめまして。

 わたしなんかが「凄い人」であるはずもありませんが、そのように言ってくださる人がいるというのは、正直いって、うれしいものですね。

 さて、「法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分」ですが、これは、『法華経』の「分別功徳品」の中にあります。

 まず、鳩摩羅什の漢訳から該当箇所を示してみますと、以下のようになっています。


○鳩摩羅什の訳【引用1】
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阿逸多。是善男子善女人。不須爲我復起塔寺及作僧坊以四事供養衆僧。所以者何。是善男子善女人。受持讀誦是經典者。爲已起塔造立僧坊供養衆僧。〔中略〕是故我説如來滅後。若有受持讀誦爲他人説。若自書若教人書供養經卷。不須復起塔寺及造僧坊供養衆僧。

(『法華経』「分別功徳品」、大正蔵第9巻、p. 45b-c)
───────────────


 で、この書き下しが以下です。


○岩波文庫の書き下し【引用2】
───────────────
阿逸多よ、この善男子・善女人はわが為めにまた塔寺を起〈た〉て及び僧坊を作り、四事〈しじ〉をもって衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ。所以〈ゆえ〉は何ん。この善男子・善女人にしてこの経典を受持し読誦せば、為〈こ〉れ已に塔を起て僧坊を造立し衆僧を供養せしものなればなり。〔中略〕この故にわれは説く『如来の滅後に、若し受持し読誦し、他人のために説き、若しくは自らも書き、若しくは人をしても書かしめ、経巻を供養すること有らば、復塔寺〈またとうじ〉を起て及び僧坊を造り衆僧を供養することを須〈もち〉いざれ』と。

(岩波文庫『法華経(下)』〔坂本幸男他訳注、1967年〕、pp. 58-60、〈〉印の部分は原文ではルビ)
───────────────


 このままでは理解しにくいかもしれないので、梵本からの和訳も引用しておきます。


○梵本からの和訳【引用3】
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 ところでまた、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を聞いて(それを)謗らず、むしろ随喜する人々を、私は深い願いをもって信順する良家の子と呼ぶのである。まして、(この法門を)受持し、読誦する人々はいうまでもない。したがって、この法門を書物にして肩に担う人は、如来を肩に担う人である。アジタよ、その良家の息子あるいは娘は、私のためにストゥパを建てたり、精舎を建てたりする必要はなく、比丘たちの集団に病いを癒す薬品(など)の生活必需品を布施する必要もない。それはなぜかといえば、アジタよ、(この法門を受持し、読誦する)その良家の息子あるいは娘は、すでに私の遺骨(舎利)に遺骨供養を行なったことになり、高さはブラフマー神の世界にいたり、周囲が次第に細くなり、傘蓋がめぐらされ、勝利の幡が立てられ、鈴が澄んだ音をたてている、七宝からなるストゥパを建てたことになるからである。〔中略〕このようなわけで、アジタよ、如来(である私)が完全な涅槃にはいったあとで、この法門を受持したり、読誦したり、教示したり、書写したり、もしくは書写させたりする人は、私が完全な涅槃にはいったあとで遺骨を納めるストゥパを建てたり、僧団への供養をしたりする必要はない、と私は言うのである。

(「第十六章 分別功徳品」、松濤誠廉・丹治昭義・桂紹隆訳『法華経U』〔中公文庫〕、中央公論新社、2002年、pp. 129-131)
───────────────

 
 以上の【引用2】と【引用3】を何回か読んで、あるていど理解したら、以下の菅野教授の解説をもう一度読んでみて下さい。


○菅野教授の解説【引用4】
───────────────
『法華経』の中に、部派教団との厳しい対立、緊張関係を見いだすことはそれほど難しいことではない。たとえばサンガ(仏教教団)に対する供養の否定という思想も見られるほどである。分別功徳品第十七には、「善男子、善女人よ。私のためにもはや塔寺を起てたり僧坊を作ったり、四事(衣服・寝具・飲食物・医薬)をサンガに供養する必要はない。なぜならば、この善男子、善女人が経典(『法華経』を指す)を受持・読誦するなら、すでに塔を起て僧坊を造立しサンガを供養したことになるからである」と述べている。『法華経』の信仰者はすでにサンガへの供養をしたことになり、改めて物質的な供養を必要としないという、見方によってはきわめてラディカルな思想を説いている。

(菅野博史『法華経入門』〔岩波新書(新赤版)748〕、2001年、p. 50)
───────────────
 
 
 菅野教授は「衆僧」を「仏教教団」と解説されていますが、これは全く正しいとおもいます。

 「衆僧」という訳語は、かの有名な自我偈にも出てきますけど(「時我及衆僧倶出霊鷲山」)、原語は“ZrAvaka-saMgha”で、直訳すると「声聞(ZrAvaka)の集団(saMgha)」です。

 「声聞(ZrAvaka)」というのは、「教えを聴聞する者」という意味で、仏教においては、もともとは出家・在家を問わず、仏弟子一般を指す言葉でした。

 したがいまして、「衆僧(ZrAvaka-saMgha)」は、その言葉の本来の意味からして、「仏弟子の団体(仏教教団)」と解することができます。

 以上、とりやいず、「法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分」について、少し詳しく説明してみました。これでも難しいとすれば、それは、わたしが「凄い人」などではないという、なによりの証拠なのであります。

 あと、「プロフをクリックしたら、暗証番号みたいな入力画面が出」たとのこと。実は、あれは、携帯からしか見れない仕掛けになっているのです。

06/11 00:04 By:Libra URL
[凄いですね。]
初めまして。

「意味のないことなんて起こらない」のミルさんのコメントから伺いました。
法華経に供養というか寄付はいらないと明記してあるとの部分に魅かれて伺いました。
もう少しわかりやすく教えて頂ければと思います。
機会があればでいいので。。。

それにしてもブログに書かれてる言葉や内容が凄くて難しくて、凄い人だなぁと思いました。
どんな方かとプロフをクリックしたら、暗証番号みたいな入力画面が出ました^^;。
難しくて理解するのに時間がかかるので、今日は寝なきゃいけないのでまた今度拝見したいです。

ボクはもう50過ぎのオヤジですが、貴君はまだお若いと感じます。
時代は凄い人材を生むものだと・つくづく感じます。
ボクが低レベルで拙いせいもありますが、凄いと思いました。
決して冷やかしなどではありません。
06/10 03:12 By:kan URL
[emenさまへの改めてのレス]
 以下、emenさんのご意見に対するコメントを書いてみます。

1.emenさんの反論(?)に対するコメント
 「絶対的正義」とゆーのは、定義としては、「社会の構成員全てが望む正義」とゆーよりは、「社会の構成員全てが理として認めざるをえない正義」です。いってみれば、どの構成員にとっても【恣意的に認めたり否定したりすることができない】ような、【必然的】な正義です。

 で、それはたしかにあるだろうと主張するのがわたしの理論です。

 emenさんの反論(?)の以下の部分をおかしいと感じました。

> Aから見たAの生命の価値は重要なものです。
> Bから見たBの生命の価値もまた重要なものです。
> Aから見たBの生命の価値も重要です。
> しかし、Bから見たAの生命の価値は重要ではありません。
> この場合、BはAの生命を奪うことで利益を得ようとします。

 AもBも、文脈からいって、社会の構成員でしょう。とすると、ここで語られているのは〔社会の構成員の〕生命の価値についての話だということになります。

 Aはふつうに生命の価値を認めているといえますが、Bはふつうに生命の価値を認めているとはいえません。

 社会の構成員全体を「Aという個体が属するグループ(グループA)」と「Bという個体が属するグループ(グループB)」に分離する概念がBの頭の中には存在し、BはグループBの生命の価値を認めているにすぎません(グループBが個体Bのみからなるグループである場合、エゴイズムの典型例となります)。

 こういう場合、Bは、グループAに属する個体から、じしんの生命に対する攻撃がなんら正当な理由もなく加えられても、何も文句は言えないということになります。だって、Bは、自分じしん、グループAに属する個体の生命に対して正当な理由もなく攻撃をしても、なんら文句を言われるすじあいなどないと思っているわけですから。

 すると、Bのような社会の構成員などはそもそも存在しえないということになるでしょう。だって、「Bから見たBの生命の価値もまた重要なもの」である以上、Bは、「Bの生命に対してなんら正当な理由もなく攻撃が加えられたとしても何も文句は言えない」ということを許容できるわけがないのだから。

 この議論のもう一つのポイントは、価値は【個人的なものではなく社会的なものである】ということかもしれません。この点についての小林和之さんの説明を引用しておきましょう。

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 欲求は各個人がもつものだが、物事によって、多くの者が欲するものとそうでないものがある。多くの者によって求められる物事は、集団の中で重んじられるようになる。そういう状態を、ある物事に「価値」があるという。
 このように、「価値」は一人ひとりの人間の欲求に由来するものだが、いったん社会の中である物事に価値があるとされるようになると、それ自体が欲求を生み出すことになる。本来、多くの人が欲するから価値があるのだが、他人が欲するから欲しくなるという状況が生まれるわけだ。また、自分が欲しくなくても、多くの者が欲することによって社会的に重んじられているものを無視することはできなくなってくる。こうして「価値」は特定の人の欲求に還元できない独自性をもつことになる。欲求は個人的なものだが、「価値」は社会的なものなのだ。

(小林和之『「おろかもの」の正義論』〔ちくま新書509〕、筑摩書房、2004年、pp. 38-39)
───────────────

 人が何かに価値を認めるということは、それに価値があると認める他者が存在するということを含意します。

 で、さまざまな価値の中には、【それを認めない他者が存在してもらっては困るような特別なもの(基底的価値)】があって、「〔社会の構成員の〕生命」もその一つです。


2.理論を理解してもらうための最大限の努力は必要
 自分の理論を理解してもらうために最大限の努力をすることが必要だというご意見については同意します。もっとも、有限な時間を「自分の理論を理解してもらう」という営みとそれ以外の営みにどのように配分すべきかは悩ましいところです。相手側のわたしの理論に対する興味の問題もありますし、わたしにも他にやりたいことがたくさんありますから。

 ただ、わたしは、「ネット上ではそこまでやるものではない」という考えは持っていません。ネット上か否かという基準で上記の努力についての判断に線引きしたりはしていません。


3.「絶対的」という言葉の使用の是非
 「絶対的」という言葉の使用が、emenさんの理解を妨げたとのことですが、【社会の構成員全てが理として認めざるをえない正義(もしそういうものがあるとして)】を「絶対的正義」と表現するのは、そんなに理解に苦しむようなことなのでしょうか。

 【社会のどの構成員も理として恣意的に認めたり否定したりすることができない】という意味を表現するのに、「絶対的」という言葉ほどぴったりな言葉をみつけることがわたしにはできません。「特別な」という言葉では、上記の意味を表現できないとおもいます。あえて、言い換えるとするならば、「必然的」という言葉ですが、なんか、それもイマイチな感じがします。

 世の中にはデタラメな相対主義が蔓延してしまっており、そのような風潮からすれば、「絶対的」という言葉を使用することじたいが非難の対象となってしまうのかもしれません。

 しかし、記事の中でも書いたように、わたしはそのような風潮じたいに大いに異論があります。そういう観点からも、「絶対的」という言葉については、使うべきときには積極的に使っていこうと考えています。


4.小林さんは「絶対の正義」を否定
 ちなみに、小林さんは、価値論レベルの相対主義を否定するといいながらも、「人の生命すら、絶対のものではありません」とおっしゃっています。

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…わたしの研究テーマは、法哲学では「価値論」にいちおう分類されるのですが、相対主義を否定しています。批判、というほどの手間はかけていませんが。「人を殺すのはよいことである」というような価値観は、相対主義では否定できませんが、それでは社会が成り立ちません。

 では、「絶対の正義」があるのでしょうか。わたしはこれも否定します。人の生命すら、絶対のものではありません。

 何が正しいかを絶対的に決定することができず、使うことのできる手段も資源も人も時間も限られている中で、いかに問題を処理するか。それを扱うテクノロジーがわたしの考える法哲学なんです。

(小林和之ホームページ内「プレQ&A」、
http://thinker.jp/tls/qa/preqa.htm
----------

 正直言って、わたしには、小林さんのおっしゃっていることが理解できません。相対主義を否定するとゆーことは、少なくとも1つは絶対的な価値が存在するということでしょう。で、その絶対的な価値の1つが「人の生命」であるとゆーのが小林さんの立場なのかと思っていたら、「人の生命すら、絶対のものではありません」とおっしゃる。

 小林さんは、そこで「絶対の正義」があるということも否定されているわけですが、「それでは社会が成り立ちません」のとちゃいますやろか、とわたしは思います。

 そういうわけで、小林さんの上のご意見はちょっと理解に苦しみます。
05/24 13:34 By:Libra URL
[コメントありがとうございました]
 emenさま

 丁寧なコメントをありがとうございました。

 今日はこれから仕事なので、レスは改めてじっくりと書かせて頂きます。

 実は、最近、マンガばっかり読んでまして、正義論のことはすっかり忘れておりました。

 なので、emenさまの今回のコメントは、正義論をもう一回考えてみる、いい機会になりそうです。

 ちょうど、裁判員制度もはじまったことですしね。

 あと、小林さんの「生命は基底的価値」という理論ですけど、アラン・ゲワースってゆー人が、それに近いことをもっと詳しく体系的に、小林さんよりもずいぶん前に提唱してるみたいです。
05/23 06:22 By:Libra URL
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