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仏教と批判的合理主義

一念三千の法門によって開眼された釈迦立像と五字の梵音声

leaf一念三千の法門によって開眼された釈迦立像と五字の梵音声

 曼荼羅の中尊は五字であり、そこには仏によって一念三千の法門がつつまれている。よって、曼荼羅は五字が書かれている時点ですでに開眼されているということであり、そのうえにさらなる開眼供養などは必要がない。このことは、前回の記事「人本尊と法本尊」( http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-41.html)の中ですでに述べておいた。今回は、一念三千の法門によって開眼された仏像本尊の意義について考えてみたい。

 日蓮は、曼荼羅において、文字として書かれた五字を本尊としているが、五字が本尊たりえるのは、それが一念三千の法門をつつんでいるからである。このことは、本尊抄の末文より明らかであろう。しからば、文字として書かれた五字を本尊とする曼荼羅のみが本尊たりえるということになるのであろうか。否である。それは、言葉(梵音声)として発せられた五字にも一念三千の法門はつつまれているからである。仏から発せられた五字の梵音声を文字以外の方法で表現したものこそが、(一念三千の法門によって開眼された)仏像本尊であると考えられる。

 たとえば、釈迦立像に向かって五字を唱えるとしよう。これは、一念三千の法門がつつまれている五字を読誦しているともいえるので、開眼供養の方法としては十分であろう。書写された法華経の経巻を仏像の前にただ置くという方法よりも、釈迦立像に向かって五字を読誦することの方が、開眼供養の方法としてよりよいと日蓮は考えていたのかもしれない。というのも、日蓮は、「法蓮鈔」において、烏龍と遺龍の話をした後に、「是れは書写の功徳なり。五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何に況んや読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり」といっており、五字を文字として書くことは書写に、五字を唱えることは読誦に相当すると考えられるからである。

 仏像に向かって五字を唱えるという行為は、【仏の口から発せられている五字を復唱している】というイメージを行為者に自然と生ぜしめうるようにも思われる。そして、仏像を通して、法を説く生身の仏(寿量の仏)と向き合い、仏から発せられている梵音声の五字を介して一念三千の法門を授かるというイメージにも自然とつながるように思われる。

 日蓮は、「仏滅後は木絵の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏にあらず。又心法かけたり」、「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏也」(「木絵二像開眼之事」)というが、このような考えは、日蓮が考える曼荼羅本尊にも仏像本尊にも共通しているものと思われる。曼荼羅本尊の場合は、文字として書かれた五字の中尊により生身の仏となり、仏像本尊の場合は、五字を唱える等の開眼供養によって生身の仏となるのである。

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  1. 2018/07/24(火) 12:45:01|
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人本尊と法本尊 ─ 日蓮の本尊は法仏一体 ─

leaf人本尊と法本尊

 日蓮によれば、仏像は、開眼されてはじめて本尊たりえる。そして、開眼は、一念三千の法門によらなければならないという。一念三千の法門は法華経にしかなく、法華経からそれをとりだしえたのは天台大師しかいないので、「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎる」(「四條金吾釈迦仏供養事」)というのが日蓮の考えである。

 これは、要するに、仏像を【一念三千の法門を衆生に教える生身の仏】としてみるというということであり、【寿量の仏】としてみるということである。そのような仏像は前代未聞であると日蓮はいう。「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂搭いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。」(「宝軽法重御書」)

 「仏像本尊は人本尊であって法本尊ではない」と思っている人がもしかしたらいるのかもしれないが、法華経によって開眼されていない仏像などはそもそも本尊たりえないし、もし開眼されているのなら、その仏像はすでに法仏一体の本尊なのであるから、「仏像本尊は人本尊でもあり法本尊でもある」というのが正しい見方であろう。

 同様に、「曼荼羅本尊は法本尊であって人本尊ではない」というのも間違った見方であろう。曼荼羅の中尊は五字であるが、その曼荼羅を授与しつつ、日蓮は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(「報恩抄」)というのであるから、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表していることになる。

 「報恩抄」には「阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし」とあり、この文章の内部の文脈から、「華厳経・観経・大日経等には」というところは、「華厳経・観経・大日経等〔の題目〕には」と補って読まれるべきである。

 この文章の前後の文脈を考慮すれば、この文章がその反対解釈であるところの【法華経の題目には「二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏」がある】というテーゼを主張するものであることは明らかであろう。つまり、【法華経の題目には久遠実成の釈迦仏がある】というのが日蓮の考えであり、曼荼羅の五字もその思想のあらわれのひとつであろう。

 もともと、日蓮には「法華経は釈迦牟尼仏也」(「守護国家論」)という考えがあり、「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(「法蓮鈔」)ともいうから、日蓮にとっては、法華経のタイトルが生身の釈尊の名前ということになるのは当然のことなのであろう。

 もっとも、日蓮にとって、五字は、「本門の肝心」であり、「寿量品の肝心」であるから(「本尊抄」)、釈尊といっても寿量の仏に限定されることになるのであろう。つまり、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表すことになるのである。

 もちろん、五字が寿量の仏のアイデンティティーであるところの一念三千の法門をもあらわすというのはいうまでもない。「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」と日蓮はいう(「本尊抄」)。結局、曼荼羅の中尊の五字も法仏一体であるということになる。

 曼荼羅の中尊の五字の内には、寿量の仏じしんの慈悲によって、すでに一念三千の法門がつつまれているのであるから、五字が書かれた時点ですでに開眼されていることになる。「曼荼羅にも開眼供養が必要である」などと考えている人は、日蓮がいうところの開眼の意味を理解しておらず、曼荼羅を本尊とすることの意義も理解していないのであろう。

 ゴータマじしんの立場は「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」(http://fallibilism.web.fc2.com/085.html)というものであった。日蓮の本尊観は、このゴータマの立場を正しく継承しているとわたしは思っている。もっとも、現代において日蓮の教えを信じているという人たちの間では、いまだに、法本尊と人本尊の優劣についての論争がたえないのであるが。。。

テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018/07/20(金) 13:47:26|
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一心三観──天台教学の根本構造

leaf一心三観の実践

 前回の記事「観心を正しく実践しましょう」では、「我が己心を観じて十法界を見る」(本尊抄)ということは、自分が今、諸法をどのように見ているかということを観察することになるから、自身のものの見方(有、空、仮、中道のうちのどのような見方で諸法を見ているか)をモニタリングするということになると述べておいた。これは、一心三観の実践へとつながる。
 今回は、菅野博史さんの一心三観についての解説を引用しておくことにする。

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  1. 2018/04/17(火) 20:28:11|
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観心を正しく実践しましょう

leaf観心を正しく実践しましょう

 日蓮は、本尊抄で、「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」といっている。しかし、ここで言われている「観心」を正しく実践している人がどれだけいるであろうか。わたしには大いに疑問である。
 上の引用からも明らかなように、日蓮の「観心」は、チギの十界論にもとづくものであり、このことじたいはよく知られていると思う。チギの十界論を正しく理解すれば、日蓮がいうところの「観心」を正しく実践することができるのであるが、それができている人が少ないのは、チギの十界論の中身まで正しく理解している人が少ないからなのであろう。
 というわけなので、今回は、菅野博史さんの解説にもとづいて、チギの十界論について復習することにする。

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  1. 2018/04/16(月) 14:32:24|
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「依法不依人」を正しく理解しましょう

leaf依法不依人」を正しく理解しましょう

 涅槃経に「依法不依人」という言葉があるということじたいはよく知られているようであるが、その意味を誤解している人が多いようである。仏教研究家ですら誤解しているようである。本記事では、涅槃経を引用して、その誤解を正したいと思う。
 涅槃経を引用して説明する前に、ある仏教研究家の「人」と「法」に関する見解を引用することからはじめてみよう(その部分の見解が間違っていると言いたいわけではない)。

 次に、普遍的真理と特定の人格に対する態度の比較をしてみよう。インドでは、具体的な人格性としての「人」と普遍的真理としての「法」が対にして論じられた。この場合、「人」は「ヒト」と読まないで「ニン」と読む。英語で言えばパーソナリティーに近い。それに対して、「法」は普遍的な真理ということである。その両者の関係について、釈尊自身は次のような言葉を残している。
ヴァッカリよ、実に法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。ヴァッカリよ、実に法を見ながら私を見るのであって、私を見ながら法を見るのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第三巻、一二〇頁)
 前述のように、ブッダ(仏陀)とは「真理に目覚めた人」のことであり、「法」(真理)に目覚めればみんなブッダなのだ。「人」をブッダたらしめるものは「法」であり、「法」こそが根源にある。
 それを大前提とした上で、「人」と「法」の一体性が強調された。「法」は、人格に反映されて初めて意味があるし、その人格そのものも、「法」に裏付けられて初めてその価値を生ずる。

(植木雅俊『仏教、本当の教え』〔中公新書 2135〕、中央公論新社、2011年、p. 169)

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  1. 2018/04/13(金) 16:20:14|
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