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仏教と批判的合理主義

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岩立盛郷さんのご質問に答える

leaf岩立盛郷さんのご質問に答える

 前回の記事「一念三千が本因である」(http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-43.html)に関連して、ツイッターで岩立盛郷さん(https://twitter.com/iwatachi)からいろいろなご意見やご質問をいただいた。その中に「一念三千の観法で何を悟るんでしょうか」(https://twitter.com/iwatachi/status/1105414455884537856)というご質問(以下、【岩立質問①】という)があり、ツイッターでわたしなりにいろいろとその場で返答してみたのであるが、そのときのわたしの回答をまとめると以下の通りである。

わたしとしては、まず、法華経の正体である「実相=円融三諦」(法華玄義、大正蔵第33巻、p.781b)とお答えしてみて、それでも「まだその体は?」と言われたので、即中(円融三諦)をとくところの中論の宗とされている「因縁」であると答えてみた〔後略〕

https://twitter.com/Libra_Critical/status/1105432851468582914

 今回は上記の回答について補足説明を加えて記事にしてみる。 [岩立盛郷さんのご質問に答える]の続きを読む

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  1. 2019/03/13(水) 11:28:14|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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一念三千が本因である

leaf「一念三千が本因である」とは
 日蓮の宗教の根幹には「一念三千が本因である」という考えがある。このことを理解していないと『開目抄』や『観心本尊抄』などの彼の遺文を読んでも理解することが困難であろう。

 この「一念三千が本因である」という考えは、決して日蓮の独創ではない。智顗の『摩訶止観』(以下、『止観』と略す)においてすでにほのめかされているともいえるし、少なくとも湛然の『止観輔行伝弘決』(以下、『弘決』と略す)には明確にその考えを見いだすことができる。

 さて、以上のように述べてみたところで、天台学の基礎用語の正確な意味を知らない人からすれば、何を言っているのかチンプンカンプンでさっぱり理解できないことであろう。

 日蓮の遺文中にあらわれる天台学の基礎用語の正確な意味を知ろうとせずに日蓮遺文の読解を試みる人がときどきおられるが、これは自分の思想を日蓮遺文に投影している(押し付けている)だけであって、日蓮が遺文によって伝えようとしたことを読み取るという作業(テキストの読解)とは全く無関係であるということを知らねばならない。

 日蓮は「八宗十宗等、皆仏滅後より之を起し、論師人師之を立つ。滅後の宗を以て現在の経を計るべからず。天台の所判は一切経に叶ふに依て一宗に属して之を棄つべからず。」(「寺泊御書」、以後、日蓮遺文の引用は、特に断らない限り日蓮宗現代宗教研究所の「真跡遺文」〔https://genshu.nichiren.or.jp/documents/post-2285/id-2285/〕からの引用)というのであるから、そのように言う日蓮が書く文章に、もし天台学の基礎用語が使われているとすれば、それは天台学における本来の正しい意味で当然使用されているのであって、読者の側が勝手に意味を変更していいものではないのである。

 以上のような状況を考慮すると、「一念三千が本因である」ということについてもし説明しようとすれば、「一念三千」とは何か、「本因」とは何かについて、最低限の説明をするところから始める必要があるということになるのであろう。なので、まずはこの最低限の説明から始めてみたいと思う。

[一念三千が本因である]の続きを読む

  1. 2019/03/10(日) 10:39:55|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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一念三千の法門によって開眼された釈迦立像と五字の梵音声

leaf一念三千の法門によって開眼された釈迦立像と五字の梵音声

 曼荼羅の中尊は五字であり、そこには仏によって一念三千の法門がつつまれている。よって、曼荼羅は五字が書かれている時点ですでに開眼されているということであり、そのうえにさらなる開眼供養などは必要がない。このことは、前回の記事「人本尊と法本尊」( http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-41.html)の中ですでに述べておいた。今回は、一念三千の法門によって開眼された仏像本尊の意義について考えてみたい。

 日蓮は、曼荼羅において、文字として書かれた五字を本尊としているが、五字が本尊たりえるのは、それが一念三千の法門をつつんでいるからである。このことは、本尊抄の末文より明らかであろう。しからば、文字として書かれた五字を本尊とする曼荼羅のみが本尊たりえるということになるのであろうか。否である。それは、言葉(梵音声)として発せられた五字にも一念三千の法門はつつまれているからである。仏から発せられた五字の梵音声を文字以外の方法で表現したものこそが、(一念三千の法門によって開眼された)仏像本尊であると考えられる。

 たとえば、釈迦立像に向かって五字を唱えるとしよう。これは、一念三千の法門がつつまれている五字を読誦しているともいえるので、開眼供養の方法としては十分であろう。書写された法華経の経巻を仏像の前にただ置くという方法よりも、釈迦立像に向かって五字を読誦することの方が、開眼供養の方法としてよりよいと日蓮は考えていたのかもしれない。というのも、日蓮は、「法蓮鈔」において、烏龍と遺龍の話をした後に、「是れは書写の功徳なり。五種法師の中には書写は最下の功徳なり。何に況んや読誦なんど申すは無量無辺の功徳なり」といっており、五字を文字として書くことは書写に、五字を唱えることは読誦に相当すると考えられるからである。

 仏像に向かって五字を唱えるという行為は、【仏の口から発せられている五字を復唱している】というイメージを行為者に自然と生ぜしめうるようにも思われる。そして、仏像を通して、法を説く生身の仏(寿量の仏)と向き合い、仏から発せられている梵音声の五字を介して一念三千の法門を授かるというイメージにも自然とつながるように思われる。

 日蓮は、「仏滅後は木絵の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏にあらず。又心法かけたり」、「法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏也」(「木絵二像開眼之事」)というが、このような考えは、日蓮が考える曼荼羅本尊にも仏像本尊にも共通しているものと思われる。曼荼羅本尊の場合は、文字として書かれた五字の中尊により生身の仏となり、仏像本尊の場合は、五字を唱える等の開眼供養によって生身の仏となるのである。

  1. 2018/07/24(火) 12:45:01|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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人本尊と法本尊 ─ 日蓮の本尊は法仏一体 ─

leaf人本尊と法本尊

 日蓮によれば、仏像は、開眼されてはじめて本尊たりえる。そして、開眼は、一念三千の法門によらなければならないという。一念三千の法門は法華経にしかなく、法華経からそれをとりだしえたのは天台大師しかいないので、「画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎる」(「四條金吾釈迦仏供養事」)というのが日蓮の考えである。

 これは、要するに、仏像を【一念三千の法門を衆生に教える生身の仏】としてみるというということであり、【寿量の仏】としてみるということである。そのような仏像は前代未聞であると日蓮はいう。「一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂搭いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。」(「宝軽法重御書」)

 「仏像本尊は人本尊であって法本尊ではない」と思っている人がもしかしたらいるのかもしれないが、法華経によって開眼されていない仏像などはそもそも本尊たりえないし、もし開眼されているのなら、その仏像はすでに法仏一体の本尊なのであるから、「仏像本尊は人本尊でもあり法本尊でもある」というのが正しい見方であろう。

 同様に、「曼荼羅本尊は法本尊であって人本尊ではない」というのも間違った見方であろう。曼荼羅の中尊は五字であるが、その曼荼羅を授与しつつ、日蓮は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(「報恩抄」)というのであるから、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表していることになる。

 「報恩抄」には「阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし」とあり、この文章の内部の文脈から、「華厳経・観経・大日経等には」というところは、「華厳経・観経・大日経等〔の題目〕には」と補って読まれるべきである。

 この文章の前後の文脈を考慮すれば、この文章がその反対解釈であるところの【法華経の題目には「二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏」がある】というテーゼを主張するものであることは明らかであろう。つまり、【法華経の題目には久遠実成の釈迦仏がある】というのが日蓮の考えであり、曼荼羅の五字もその思想のあらわれのひとつであろう。

 もともと、日蓮には「法華経は釈迦牟尼仏也」(「守護国家論」)という考えがあり、「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(「法蓮鈔」)ともいうから、日蓮にとっては、法華経のタイトルが生身の釈尊の名前ということになるのは当然のことなのであろう。

 もっとも、日蓮にとって、五字は、「本門の肝心」であり、「寿量品の肝心」であるから(「本尊抄」)、釈尊といっても寿量の仏に限定されることになるのであろう。つまり、五字は本門の教主釈尊(寿量の仏)を表すことになるのである。

 もちろん、五字が寿量の仏のアイデンティティーであるところの一念三千の法門をもあらわすというのはいうまでもない。「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」と日蓮はいう(「本尊抄」)。結局、曼荼羅の中尊の五字も法仏一体であるということになる。

 曼荼羅の中尊の五字の内には、寿量の仏じしんの慈悲によって、すでに一念三千の法門がつつまれているのであるから、五字が書かれた時点ですでに開眼されていることになる。「曼荼羅にも開眼供養が必要である」などと考えている人は、日蓮がいうところの開眼の意味を理解しておらず、曼荼羅を本尊とすることの意義も理解していないのであろう。

 ゴータマじしんの立場は「法を見る者は、われを見るのであり、われを見る者は、法を見るのである」(http://fallibilism.web.fc2.com/085.html)というものであった。日蓮の本尊観は、このゴータマの立場を正しく継承しているとわたしは思っている。もっとも、現代において日蓮の教えを信じているという人たちの間では、いまだに、法本尊と人本尊の優劣についての論争がたえないのであるが。。。

テーマ:宗教・信仰 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2018/07/20(金) 13:47:26|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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一心三観──天台教学の根本構造

leaf一心三観の実践

 前回の記事「観心を正しく実践しましょう」では、「我が己心を観じて十法界を見る」(本尊抄)ということは、自分が今、諸法をどのように見ているかということを観察することになるから、自身のものの見方(有、空、仮、中道のうちのどのような見方で諸法を見ているか)をモニタリングするということになると述べておいた。これは、一心三観の実践へとつながる。
 今回は、菅野博史さんの一心三観についての解説を引用しておくことにする。

[一心三観──天台教学の根本構造]の続きを読む

  1. 2018/04/17(火) 20:28:11|
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