仏教と批判的合理主義

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「真実は一つか否か」という議論について

leaf「真実は一つか否か」という議論について

 「真実は一つか否か」という議論について、対応説という真理観の立場から考えてみる。たとえば、互いに両立しない理論A、理論B、理論Cがあるとする。理論とはわれわれが生きているこの世界を説明する試みのことであり、その意味では仮説といってもよいだろう。

 ある理論がわれわれが生きているこの現実世界を正しく説明しているとき、つまり、その理論がこの世界にぴったりと対応しているとき、その理論を真である理論とする。これが対応説という考え方である。これはもっとも素朴な真理観であるとおもわれる。

 先に3つの理論(理論A、理論B、理論C)について述べたが、もちろん、論理的には無数の理論がありうる。しかし、それらの無数の理論のうち、真である理論はただ一つである。この世界というのは、いってみれば無数にありうるパラレルワールドのうちのただひとつのユニークな世界なのであるから。

 真であるただ唯一の理論を理論Tと呼ぶことにしよう。永遠に存在し進化し続ける知的な存在が無限の時間をかけて探索しても理論Tに到達できるかは分からないが、そのような到達可能性をひとまずおいておくとするならば、論理的には、理論Tはたしかに存在することになるだろう。

[「真実は一つか否か」という議論について]の続きを読む

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  1. 2017/05/23(火) 21:49:21|
  2. 思想一般
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ツイッターはじめました

ツイッターはじめてみました。ご意見があればツイートよろしくおねがいします。

https://twitter.com/Libra_Critical
  1. 2017/05/23(火) 05:14:43|
  2. その他
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宮田幸一説批判──日蓮は法本尊のみを本尊としているわけではない

leaf宮田幸一さんの主張

 宮田幸一さんは、次のように述べて、【法本尊のみを本尊とするのが日蓮の教えである】と主張されています。

創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。〔中略〕
 日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。
正統性は血脈にではなく重要な教えをそのまま実行しているかどうかで判断するという論点は日興の立場でもある。


(宮田幸一「日有の教学思想の諸問題(5) 」、創価大学人文論集第17号、2005年、http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper4-5.html

 宮田さんのこのようなお考えに対しては、当ブログの記事にてすでに批判を加えておりまして(Libra「創価学会教義の形成の試み」、2011/01/23、http://fallibilism.blog69.fc2.com/blog-entry-26.html)、宮田さんご本人にもそのことはメールでお伝えしておりますが、今のところ返答はございません。きっとお忙しいのだろうと思います。

 今回は、法本尊以外に人本尊を立てることが『本尊問答抄』の議論に反することになるのかという点について、もう少し深く考えてみたいと思います。

[宮田幸一説批判──日蓮は法本尊のみを本尊としているわけではない]の続きを読む

  1. 2017/04/18(火) 14:59:03|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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ウィトゲンシュタインの自己撞着

leaf小野氏のご返事について

  前回の記事「真理という名の迷宮」では、小野不一氏のブログ「斧節」を読んでいて、賛成できなかった点のいくつかについて書いてみた。

  そして、本日、久しぶりに「斧節」を拝見して、小野氏からご返事があったことを確認した。

  わたしが確認したご返事は「反証可能性について」と「「絶対正義」が意味するもの」の2つである。

  時間がなかったので、検索機能を使ってピックアップしたので、もしかしたら読み落としているものがあるのかもしれない。

  わざわざご返事をブログに書いて下さった小野氏に心より感謝し、レスポンスが遅れたことをお詫びする。

  以下に、小野氏の今回のご返事について簡単にコメントする。

  なお、小野氏に対する今後のレスポンスも、今回のように遅れるであろうことをあらかじめ小野氏にお詫びしておく。 [ウィトゲンシュタインの自己撞着]の続きを読む

  1. 2012/02/04(土) 05:21:05|
  2. その他
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真理という名の迷宮

leafウィトゲンシュタイン批判

  ずっと忙しくてブログを更新する暇が全くなかったが、ちょっとだけ時間に余裕ができたので、小野不一氏のブログ「斧節」を読んでいて、思っていたことを書いておくことにする。

  小野氏の意見に賛成できる点を書いてみたところで何の役にも立たないし、何も生み出さないので、賛成できない点についてのみ書くことにするが、それとて、そのすべてを書く余裕など全然ありはしないので、以下に記すことは、賛成できない点のごく一部にすぎない。

  さて、小野氏は、「およそ語られうることは、明晰に語られうるし、語りえないものについては沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタインの説を高く評価しておられるようであるが(http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/20111205)、わたしから見れば、このような説を珍重するのはとても馬鹿らしく思える。

  これは、わたしがポッペリアンである以上、当然の判断だとも言えるが、いちおう、以下に、わたしなりの解説を試みてみたいと思う。

  〔2012.02.05 補足:ウィトゲンシュタイン研究者によれば、ウィトゲンシュタインの「安易な神秘主義」は「自己の哲学的目標に対する重大な背信」なのだそうだ(鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』、講談社、2003年、p. 83)。〕 [真理という名の迷宮]の続きを読む

テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2011/12/19(月) 04:39:17|
  2. 批判的合理主義
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