仏教と批判的合理主義

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一心三観──天台教学の根本構造

leaf一心三観の実践

 前回の記事「観心を正しく実践しましょう」では、「我が己心を観じて十法界を見る」(本尊抄)ということは、自分が今、諸法をどのように見ているかということを観察することになるから、自身のものの見方(有、空、仮、中道のうちのどのような見方で諸法を見ているか)をモニタリングするということになると述べておいた。これは、一心三観の実践へとつながる。
 今回は、菅野博史さんの一心三観についての解説を引用しておくことにする。

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  1. 2018/04/17(火) 20:28:11|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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観心を正しく実践しましょう

leaf観心を正しく実践しましょう

 日蓮は、本尊抄で、「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」といっている。しかし、ここで言われている「観心」を正しく実践している人がどれだけいるであろうか。わたしには大いに疑問である。
 上の引用からも明らかなように、日蓮の「観心」は、チギの十界論にもとづくものであり、このことじたいはよく知られていると思う。チギの十界論を正しく理解すれば、日蓮がいうところの「観心」を正しく実践することができるのであるが、それができている人が少ないのは、チギの十界論の中身まで正しく理解している人が少ないからなのであろう。
 というわけなので、今回は、菅野博史さんの解説にもとづいて、チギの十界論について復習することにする。

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  1. 2018/04/16(月) 14:32:24|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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「依法不依人」を正しく理解しましょう

leaf依法不依人」を正しく理解しましょう

 涅槃経に「依法不依人」という言葉があるということじたいはよく知られているようであるが、その意味を誤解している人が多いようである。仏教研究家ですら誤解しているようである。本記事では、涅槃経を引用して、その誤解を正したいと思う。
 涅槃経を引用して説明する前に、ある仏教研究家の「人」と「法」に関する見解を引用することからはじめてみよう(その部分の見解が間違っていると言いたいわけではない)。

 次に、普遍的真理と特定の人格に対する態度の比較をしてみよう。インドでは、具体的な人格性としての「人」と普遍的真理としての「法」が対にして論じられた。この場合、「人」は「ヒト」と読まないで「ニン」と読む。英語で言えばパーソナリティーに近い。それに対して、「法」は普遍的な真理ということである。その両者の関係について、釈尊自身は次のような言葉を残している。
ヴァッカリよ、実に法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る。ヴァッカリよ、実に法を見ながら私を見るのであって、私を見ながら法を見るのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』第三巻、一二〇頁)
 前述のように、ブッダ(仏陀)とは「真理に目覚めた人」のことであり、「法」(真理)に目覚めればみんなブッダなのだ。「人」をブッダたらしめるものは「法」であり、「法」こそが根源にある。
 それを大前提とした上で、「人」と「法」の一体性が強調された。「法」は、人格に反映されて初めて意味があるし、その人格そのものも、「法」に裏付けられて初めてその価値を生ずる。

(植木雅俊『仏教、本当の教え』〔中公新書 2135〕、中央公論新社、2011年、p. 169)

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  1. 2018/04/13(金) 16:20:14|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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天台学の三身説を理解しましょう

leaf五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏」の意味

 日蓮は、法華経の寿量品の仏のことを「過去五百塵点劫のそのかみの仏」(「法蓮抄」)といいます。この場合の「そのかみ」は、「①事のあったその時。ある事がおこったその時。そのおり。そのとき。」(『日本国語大辞典 第二版 第八巻』、小学館、2001年、p. 469)という意味です。つまり、日蓮にとって寿量品の仏というのは、大昔のある時点で成仏した仏だということです。

 ところが、日蓮の「観心本尊抄」には「五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏」という表現が出てきます。五百塵点劫は過去のある時点のことなのに、その時点で「所顕」の仏をなぜ「無始の古仏」などと日蓮は言っているのでしょうか。実は、このことを理解するためには天台学の三身説を理解する必要があります。

 今回は、天台学の三身説を理解するための資料を以下に公開したいと思います。

[天台学の三身説を理解しましょう]の続きを読む

  1. 2018/03/26(月) 19:33:09|
  2.   仏教 [ 日蓮 ]
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「真実は一つか否か」という議論について

leaf「真実は一つか否か」という議論について

 「真実は一つか否か」という議論について、対応説という真理観の立場から考えてみる。たとえば、互いに両立しない理論A、理論B、理論Cがあるとする。理論とはわれわれが生きているこの世界を説明する試みのことであり、その意味では仮説といってもよいだろう。

 ある理論がわれわれが生きているこの現実世界を正しく説明しているとき、つまり、その理論がこの世界にぴったりと対応しているとき、その理論を真である理論とする。これが対応説という考え方である。これはもっとも素朴な真理観であるとおもわれる。

 先に3つの理論(理論A、理論B、理論C)について述べたが、もちろん、論理的には無数の理論がありうる。しかし、それらの無数の理論のうち、真である理論はただ一つである。この世界というのは、いってみれば無数にありうるパラレルワールドのうちのただひとつのユニークな世界なのであるから。

 真であるただ唯一の理論を理論Tと呼ぶことにしよう。永遠に存在し進化し続ける知的な存在が無限の時間をかけて探索しても理論Tに到達できるかは分からないが、そのような到達可能性をひとまずおいておくとするならば、論理的には、理論Tはたしかに存在することになるだろう。

[「真実は一つか否か」という議論について]の続きを読む

  1. 2017/05/23(火) 21:49:21|
  2. 思想一般
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